第2話 やり直しの朝は、思ったより静かだった
(私、本当に――過去に戻ってきたのね)
数日、夢と現の境を漂うように過ごしてきたリディアだったが、ようやくそれが現実だと実感し始めていた。
周囲の様子と、自分の曖昧な幼い頃の記憶を照らし合わせると、どうやら今は十二歳になったばかりの頃らしい。
窓の外には、まだ幼さの残る視界でしか見たことのなかった庭園。
屋敷の空気も、家族の声も、使用人たちの態度も、すべてが記憶の通りだった。
平和で、穏やかで、壊れる前の世界。
(どうして過去に戻って来られたのかしら。本当に、あの本に書かれていた魔法のおかげ……?)
過去へ戻る魔法など、聞いたこともない。
もしそんなものが存在するなら、国中を揺るがす大事件になっているはずだ。
けれど、現に自分はここにいる。
あの沈みゆく船の中で、確かにページを開き、言葉を唱えた。
そして気づけば、すべてを失う前の朝に戻っていた。
(……よく分からないけれど、神様がくださったやり直しの機会なら、無駄にはしない)
胸の奥で、静かに決意する。
(今回は、家族を失望させない。島へ追放される未来も、絶対に避ける)
学園での孤立。
家族や使用人たちの冷たい視線。
そして、追放の船で味わった寒さと飢え。
思い出すだけで、ぞっとする。
(……あんな思い、二度とごめんだわ)
それに――もう一つ。
(あの本を、もう一度確認したい。この家のどこかにあるはずよ)
あの本をどういう理由で父が渡してきたのか。
今のリディアにはまだ分からない。
だが、あの一冊が自分の運命を変えたことだけは確かだった。
考え込んでいると、部屋の扉が控えめにノックされた。
「お嬢様、朝食の準備が整いました」
いつも通りの声。
いつも通りの朝。
それだけのことが、今はひどくありがたかった。
⸻
食堂へ入ると、銀の食器が整然と並び、焼きたてのパンと温かなスープの香りが満ちていた。
その香りに、胸の奥がきゅっと締まる。
(ああ……温かい食事だわ)
追放の船で口にした、傷んだ食事と濁った水。
あの数日を思えば、目の前の朝食はまるで奇跡のようだった。
使用人がリディアの前に皿を置こうとした、その瞬間。
手元が狂い、ソースがわずかにテーブルクロスへ跳ねる。
「も、申し訳ありません!」
若い使用人は真っ青になり、慌てて頭を下げた。
「すぐに新しいお皿を――」
「いいわ」
反射的に、リディアは答えていた。
「少しこぼれただけでしょう? そのままで大丈夫よ」
一瞬、食堂の空気が止まる。
使用人は目を瞬かせたまま固まり、父と母も、怪訝そうに顔を上げた。
「……失礼、いたしました」
ぎこちない足取りで使用人が下がっていく。
その背中を見送りながら、リディアはふと気づく。
以前の自分なら、こんな小さな失敗でも容赦なく叱りつけていた。
その事実が、胸の奥をちくりと刺した。
「リディア」
父アルヴィスが咳払いをひとつして言った。
「最近、やけに大人しいな」
「使用人に小言ひとつ言わないなんて……」
母エレノアも心配そうに首を傾げる。
「具合でも悪いの?」
「いいえ。体調は問題ありませんわ」
「寝坊ばかりしていたのに、ついに起きながら寝ぼけるようになったのか」
兄のアレクシスがからかうように言った。
「ふふ、お兄さまってば面白い」
にこりと笑って返すと、三人は揃って微妙な顔になった。
(そんなに変かしら)
けれど考えてみれば無理もない。
以前の自分は、家族に素直に笑いかけるような娘ではなかったのだ。
そこへ、メイドが紅茶のポットを持って近づいてきた。
「お嬢様、紅茶になさいますか? それともハーブティーを――」
「ありがとう。紅茶をいただくわ」
礼を言って受け取った瞬間、メイドはぴたりと動きを止めた。
「……っ」
目を見開き、口を半分開けたまま固まっている。
(あらまあ)
リディアは少しだけ気まずくなりながら、そっとカップに口をつけた。
以前の自分が、どれほど周囲に棘を向けていたのか。
こうしてやっと、少しずつ実感し始める。
⸻
食事を終え、自室へ戻ろうとした時だった。
廊下の角の向こうから、ひそひそとした声が耳に入ってくる。
「ねえ、見た?」
「見た見た。あのお嬢様が、お礼なんて……」
「最近、本当に様子がおかしいのよ」
「前はあんなに傍若無人だったのに……正直、気味が悪いわ」
小声のつもりなのだろうが、よく響いていた。
(傍若無人……)
思わず、苦笑が漏れそうになる。
(笑顔でお礼を言っただけで、この騒ぎ)
(私、どれだけ酷かったのよ)
自室へ戻ると、エマが不安そうな顔で待っていた。
声をかけるべきか迷っているような、落ち着かない表情。
(……そうだ。この人だけは)
前の人生で、皆が離れていく中でも、エマだけは最後まで変わらず仕えてくれた。
追放の船に乗る前。
何も言わず、そっと渡してくれた小さな飴の小瓶。
あの甘さが、どれほど心を救ってくれたか。
「エマ」
「は、はい!」
名前を呼んだだけで、びくりと肩が跳ねる。
「飴の小瓶、ありがとう。船旅の間、とても助かったわ」
「……え?」
エマは目を丸くした。
「飴、ですか……?」
当然だ。
この時間軸では、まだそんな出来事は起きていない。
リディアは小さく息をつき、首を振った。
「……いいの。気にしないで」
それ以上は言えなかった。
だが、エマは戸惑いながらも、ゆっくりと頭を下げた。
「……恐れ入ります」
その声は、ほんの少しだけ柔らかかった。
⸻
その日の午後、リディアは屋敷の片隅にある小さな礼拝室へ足を運んだ。
エルヴィン家では、朝と夜に簡単な祈りを捧げる習慣がある。
祭壇には特定の神の像は置かれておらず、代わりに「恵」を意味する古い神紋が静かに刻まれていた。
――恵神信仰。
神々や精霊から受けた“恵み”に感謝する、この国で広く根付いた祈りの形だ。
作物が育つことも。
魔法が使えることも。
今日、こうして目を覚ませたことさえも。
すべてが、神々からの恵みとされる。
リディアは祭壇の前で手を組み、静かに目を閉じた。
「……今日も生きていられることに感謝を。この静かな時間が、恵みでありますように」
短い祈りだった。
けれど、前の人生では形だけで唱えていた言葉が、今は胸の底へすっと落ちていく。
(あの頃の私は、感謝なんてしていなかった)
家柄も。
家族の愛情も。
何不自由ない暮らしも。
すべて当たり前のものだと思っていた。
失ってから、初めてその重さを知ったのだ。
目を開けると、窓から差し込む朝の名残の光が、礼拝室をやさしく照らしていた。
⸻
外へ出ると、春の風が銀色の髪をさらりと揺らした。
「ああ……ライラックの香りだわ」
庭園の一角に咲く花を見つめる。
毎年見ていたはずなのに、今は胸が締めつけられるほど懐かしかった。
澄んだ青空。
やわらかな日差し。
枝葉を揺らす風の音。
すべてが、あまりにも穏やかで、壊れやすく見えた。
リディアはゆっくりと庭を歩く。
石畳の小径。
手入れの行き届いた低木。
白い花弁の散る茂みの向こうで、小鳥がさえずっている。
その時だった。
風が、ほんの少しだけ向きを変えた。
葉擦れの音が、妙にはっきりと耳に残る。
鳥の声も、ただの音というより、何かの“気配”を帯びて胸に届くような感覚があった。
(……賑やかね)
誰かが話しているわけではない。
言葉が聞こえたわけでもない。
それなのに、庭園全体が穏やかにざわめいているように感じる。
草花が。
木々が。
風そのものが。
何かを囁いているような、不思議な感覚。
(……前から、こんなふうだったかしら)
首を傾げる。
だが、すぐには答えが出なかった。
考えすぎだと自分に言い聞かせ、リディアは小さく息を吐く。
まだ、戻ってきたばかりなのだ。
前の人生の記憶が鮮やかすぎて、感覚まで揺れているのかもしれない。
けれど――。
風が頬を撫でるたび、そこにわずかな“意思”のようなものを感じる気がして、リディアはしばらくその場から動けなかった。
まだ、気づいていないだけで。
あの本がもたらした変化は、時間を巻き戻したことだけではなかったのかもしれない。




