第1話 婚約破棄と追放、そして——過去へ
「あなたがフィオナ様を嵌めたことは、もう分かっている!」
鋭い声が、学園中央講堂に響き渡った。
この国の第一王子、クラウス・レオンハルトがリディア・エルヴィンに指を突きつけた。
その隣には、潤んだ瞳でクラウスの腕にすがるフィオナ・ヴァイスの姿があった。彼女は今にも倒れそうなほど頼りなく見え、その華奢な肩はかすかに震えている。
講堂に集められた生徒たちの視線が、一斉にリディアへ向けられた。
高い天井。磨き上げられた大理石の床。重く張り詰めた空気。
その中心に立たされながらも、リディアは顎を引き、かろうじて気丈な表情を崩さない。
リディア・エルヴィン。
ヴァルディア王国の四大公爵家のひとつ、エルヴィン公爵家の令嬢。そして、第一王子クラウスの婚約者。
そのリディアが、先日のダンジョン探索実習で、フィオナを危険な場所へ誘導し、魔物に襲わせようとした――。
それが、今ここで突きつけられている罪だった。
(……まるで、生まれたての子鹿みたい)
婚約者の腕に縋りつき、守られることを疑いもしないフィオナの姿に、胸の奥がひりつく。
「わたくしは、ただ“次期聖女”と名高いフィオナ様の実力を、少し拝見したかっただけですわ」
リディアは銀色の髪を指先で弄びながら、できる限り退屈そうに言った。
「なんだ、その態度は! もう少しでフィオナ様は命を落とすところだったんだぞ!」
クラウスの怒声に呼応するように、フィオナの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。
「……本当に、怖かったです。クラウス様たちが来てくださらなかったら、わたし……」
クラウスはフィオナの肩に手を添え、庇うように引き寄せた。
その仕草ひとつひとつが、目に刺さる。
見ていられなかった。
「あーあ。いっそ、死んでくださったらよかったのに」
気づけば、そんな言葉が口をついて出ていた。
一瞬、講堂の空気が凍りつく。
生徒たちが息を呑む気配がした。
だが、リディアはもう引き返せなかった。
「……今まであなたの行いには目をつぶってきた。だが、もう限界だ」
クラウスの声は、氷のように冷たかった。
「フィオナ様は、この国の宝だ。その宝を傷つける行為は、国に背くのと同じ意味を持つ」
「だから、なんだというの」
リディアは鼻で笑った。
公爵家の娘という立場があれば、多少の問題行動など、いくらでも揉み消される。
今回も、せいぜい叱責で終わる――本気でそう思っていた。
「リディア・エルヴィン。あなたとの婚約を、ここに破棄する」
「……は?」
その一言に、思考が止まる。
「次期聖女に対する殺人未遂。その処分については、追ってエルヴィン家へ正式に通達する」
「婚約破棄!? そんなこと、お父様が許すわけ――」
「すでに了承は得ている」
淡々と告げられた言葉が、胸の奥深くに突き刺さった。
「あなたの度重なる非道な振る舞いに、エルヴィン公も心底失望していたよ。さらばだ、リディア嬢。もう二度と会うこともないだろう」
クラウスはそう言い残し、フィオナを支えながら講堂を去っていった。
残されたのは、好奇と軽蔑と嘲笑の視線。
そして――リディアひとりだった。
⸻
(どうして、こんなことに……)
王都のタウンハウスではなく、北方にあるエルヴィン領の本邸へ戻る馬車の中で、リディアは何度も同じことを考えた。
(お父様が婚約破棄を了承したなんて、信じられない。きっと、クラウス様の嘘よ)
だが、屋敷に足を踏み入れた瞬間、その淡い期待は砕け散った。
空気が冷え切っている。
つい先ほど、王家の紋章が刻まれた風切鳥が飛来したばかりだったのだろう。廊下ですれ違う使用人たちは、誰もリディアと目を合わせようとしない。
かつてのように頭を下げる者も、声をかける者もいない。
あるのは、触れてはならないものを見るような、怯えと諦めの入り混じった視線だけだった。
「……お荷物はこちらに」
ようやく声をかけてきたのは、メイドのエマだけだった。
「寒い中帰ってきたのだから、熱いお湯の準備をなさい。……ちょっと、あなたたち、聞いているの?」
命じても、他の使用人たちはぴくりとも動かない。
その異様な静けさに、ようやく胸がざわつき始める。
「お嬢様、旦那様がお呼びです」
エマに促されるまま通された部屋には、父アルヴィス、母エレノア、兄アレクシスが揃っていた。
誰も笑わない。
誰も、いつものようにリディアを迎えない。
「リディア、なんてことをしたんだ……。まさか、ここまで愚かだとは思っていなかった」
最初に口を開いたのは兄のアレクシスだった。
苦々しさを隠そうともしない声に、リディアは反射的に言い返す。
「クラウス様に迷惑がかかる前に、聖女の力を確かめる必要があると思ったのよ」
「次期聖女の力を確かめる? それをお前がやる理由はないだろう。何様のつもりだ」
兄の声音がさらに鋭くなる。
「……フィオナ様の足は、もう元通りには動かないそうだ。神殿の治癒魔法をもってしても、魔物の毒に侵された神経までは治せなかった。一生、杖が必要になる。お前は、聖女から歩く自由を奪ったんだぞ」
その言葉が、ようやく現実味を持って胸に落ちてきた。
足が、治らない。
ただの嫌がらせのつもりだったのに。
リディアはしばらく何も言えなかった。
だが、沈黙に耐えきれず、子どものように声を荒げる。
「あー、もう! お兄様はうるさいわ! 私以外にも、聖女の力を疑っていた人はいたのよ。……ねえ、お父様。婚約破棄を了承したなんて、嘘よね?」
父アルヴィスが、初めてリディアを見た。
その目は、今まで向けられたことのないほど冷たかった。
「婚約破棄は了承した。次期聖女様への嫌がらせはやめろと、あれほど忠告しただろう」
母エレノアは泣きそうに目を伏せている。
けれど父は感情を押し殺したまま、淡々と続けた。
「温情をもらえるよう掛け合ってはみる。だが、王家、教会、グラウ公爵家が怒っている以上、どういう処罰が下されるかは分からん。最悪、斬首もあり得る」
その言葉に、リディアの顔から血の気が引いた。
「正式な通達が来るまで部屋にいなさい。外へ出ることは、私が許さない」
斬首。
そこまで考えたことなど、一度もなかった。
「殺す気はなかったのよ。ただ、痛い目にあえばいいと思っただけで……」
「リディア……」
母がかすれた声で名を呼ぶ。
けれど、その先の言葉は続かなかった。
もう、誰も庇ってはくれないのだと、遅すぎるほど遅く思い知った。
⸻
それから数日、リディアは言いつけ通り部屋に閉じ込められた。
時間の感覚は曖昧になり、朝なのか夜なのかも分からなくなる。
食事の味もしない。鏡を見る気力もない。
ヴァルディア王国にとって、公爵令嬢リディアよりも重要なのは、特別な加護を持つ次期聖女フィオナだった。
聖女を傷つけた罪。
王家に泥を塗った罪。
国に不和をもたらした罪。
兄のアレクシスが一度だけ部屋を訪れ、重い声で告げた。
「父上が四方に頭を下げているが……重罰は免れそうにない。下手をすれば、リディアだけでなく、家族にも罰が及ぶかもしれない」
その言葉に、リディアは初めて本当の意味で恐ろしくなった。
自分のせいで、家族まで巻き込まれるかもしれない。
フィオナが持つ“聖女”という加護の重さを、今さら思い知る。
あまりにも遅かった。
そして、ついに正式な処分が下った。
父アルヴィスが部屋に入り、ソファへ深く腰を下ろす。
長い沈黙のあと、父は静かに告げた。
「……辺境の島への追放だ」
「……島への、追放……?」
頭の中が、真っ白になる。
「王家と教会の双方が強く処罰を求めている。これ以上の追及を避けるために、我が家が受け入れた」
父の声に感情はなかった。
「明日には屋敷を出て、船に乗ってもらう。身支度を整えておきなさい」
それだけ言い残し、父は部屋を出ていった。
リディアはその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
追放。
婚約破棄。
家族に見限られること。
何一つ、現実として受け止めきれない。
⸻
港へ向かう日、見送りに来たのはエマだけだった。
「……お嬢様。どうか、お元気で」
小さな小瓶をそっと手渡される。
中には色とりどりの飴が入っていた。
その温もりが胸に沁みた。
船に乗り込むと、船員たちは露骨に不機嫌そうな視線を向けてきた。
「ほら、そこ空いてるから座んな」
指差されたのは甲板の隅、むき出しの板の上だった。
文句を言う気力はもうなかった。
出航直前、父アルヴィスが無言で近づき、一冊の古書を差し出した。
「……暇つぶしにでもなるだろう」
それだけ言うと、父はすぐに背を向けた。
(あんなに優しかったお父様を……失望させてしまった)
リディアは古書を抱きしめた。
ひどく古びた本で、擦れた表紙の文字は読めない。
何気なくページを開いた瞬間、見たこともない奇妙な文字が目に飛び込んできた。
「……?」
太い線。塗りつぶされた円。複雑な装飾。
普通なら意味を成さないはずのそれが、不思議とするすると頭に入ってくる。
生まれつき備わっていた“翻訳の加護”。
人の言葉も、異国の文字も、意味として理解できる。
ただし、そこに描かれている複雑な魔術式の本質までは分からない。
「今さら、勉強しろ……ということなの?」
自嘲気味に呟く。
思えば、これまでの自分は驕っていた。
公爵令嬢という家柄。
王太子の婚約者という立場。
それに胡坐をかき、努力もせず、他人を見下し、嫉妬ばかりしていた。
今の自分には、もう何もない。
「……残っているのは、この地味な翻訳の加護だけ、ね」
ため息とともに視線を落とす。
そこに記されていた一文が、目を引いた。
『――過去に戻る』
その横には、ひどく精緻で美しい魔術式が添えられている。
「……もし、本当に戻れるなら」
ぽたり、と涙がページの上に落ちた。
フィオナを傷つける前に。
家族に見限られる前に。
あの冷たい視線を向けられる前に。
もし、やり直せるのなら――。
⸻
船旅は、想像以上に過酷だった。
荒れる海。
冷たい風。
傷んだ食事と濁った水。
公爵令嬢として何不自由なく育ったリディアには、すべてが地獄のようだった。
一日目は、ただ寒かった。
二日目は、腹が痛かった。
三日目には、涙も出なくなった。
鏡があれば、自分が誰か分からなかっただろう。
艶のあった銀髪は塩と風にまみれ、肌からは生気が抜け落ちていく。
そんな中で、唯一心を繋ぎ止めてくれたのは、エマからもらった飴だけだった。
甘く優しい味が、かろうじて心を温めてくれた。
――そして、その日はひどい嵐だった。
雷鳴が轟き、横殴りの雨が船体を叩く。
船は激しく揺れ、立っていられないほどだった。
「まずいぞ! みんな、掴まれ!」
船員の叫び声。
次の瞬間、巨大な波が船を呑み込み、船体が大きく傾いた。
さらに襲った一撃で、船はあっけなく横倒しになる。
冷たい海水が一気に流れ込み、リディアの身体も海へ投げ出された。
視界の端で、飴の小瓶が浮かんだ。
胸に抱えた古書だけは、必死に離さなかった。
(私の人生……これで終わりなの?)
愛する人に嫌われ。
家族を失望させ。
自分自身さえ、取り返しのつかない愚か者だと知ったまま。
その時、脳裏にあの一文が浮かんだ。
『――過去に戻る』
(戻れるわけがない。そんなこと、あるはずがない)
でも、もう失うものは何もなかった。
最後の力を振り絞り、古書を開く。
冷たい海水の中でも、不思議とページは濡れていなかった。
震える指で魔術式をなぞる。
そして、そこに記された言葉を、掠れる声で唱えた。
言葉にした瞬間、世界がひしゃげたように歪む。
視界が白く染まり――。
「お嬢様、おはようございます」
聞き慣れた声に、はっと目を開けた。
「……エマ?」
柔らかなベッド。
見慣れた天蓋。
鏡に映る、幼い自分。
「……まさか。本当に、過去に……?」
震える声で呟いた、その瞬間。
リディア・エルヴィンの第二の人生が、静かに幕を開けた。




