第17話 二度目のデビュタント
リディアが14歳になった春。
毎年恒例となっている、王家主催の「春の舞踏会」当日、エルヴィン公爵邸のリディアの部屋は、早朝から慌ただしい空気に包まれていた。
数人がかりで全身を磨き上げられ、ついに完成したドレスに袖を通す。
締め付けられるコルセットの感覚さえ、今は心地よい緊張となって、リディアの背筋を伸ばしていた。
「お嬢様、動かないでくださいませ。最後にブローチをお留めします」
エマが真剣な表情で、リディアの胸元に澄んだ水色のアクアマリンのブローチを留めた。
カチリ、と小さな音がした。
「お嬢様、もう鏡をご覧になっても大丈夫ですわ」
エマにそう促され、リディアは深く息を吐き出し、ゆっくりと姿見の前に立った。
(……これが、私?)
そこにいたのは、前の時間軸で見た、ギラギラと飾り立てた自分ではなかった。
深海の魔獣『大真珠貝』の足糸を丁寧に紡いで織り上げたドレスは、窓から差し込む陽光を受け、乳白色の光を波のように揺らめかせていた。
首筋から肩のラインにかけて施された銀糸の刺繍は、うっすらと霜が降りたように繊細に輝いている。
「お嬢様、なんと、なんと美しい……。銀髪とドレスの白が溶け合って、まるで月の女神が舞い降りたようですわ」
背後で控えていたエマが、感極まった様子で涙ぐんでいる。
控えめにしたはずのアクアマリンと真珠のチョーカーも、ドレスの放つ透明感によって、かえってリディアの青い瞳を深く鮮やかに引き立てていた。
「月の女神なんて言いすぎよ……。でも、ありがとう、エマ。素晴らしいわ。完璧な出来ね」
リディアは鏡の中の自分へ、満足げに微笑みかけた。
ハーフアップにした銀髪が背中に流れ、真珠色のドレスの上に広がる様は、白い波間に銀糸が溶け込んでいるかのようだ。
(ふふ、お兄様が見たら卒倒してしまうわね)
アレクシスの大げさな反応を思い浮かべ、リディアの唇から小さく笑みがこぼれた。
「お嬢様、準備はすべて整いましたわ」
父アルヴィス、母エレノア、そして兄アレクシスの三人は、立場上の挨拶も兼ねて一足先に王宮へ向かっている。
リディアはエマの手を借りて、家の紋章が入った馬車に乗り込んだ。
(前の時間軸では、髪型が気に入らないと何度もやり直させて……わざと遅れて行ったのよね)
かつての自分は、注目を集めるためなら周囲を困らせることも厭わなかった。
けれど今は、隣に信頼できるエマがいる。
それだけで、リディアの心は不思議なほど落ち着いていた。
その頃、王宮の舞踏会会場では、第一王子クラウスと第二王子ルーカスが誰を最初の相手に選ぶのか、貴族たちの注目を集めていた。
クラウスは深い青の礼装の胸元に白い飾り布を添え、王子らしい品格を漂わせていた。落ち着いた表情を保っていたが、時折、会場の入口へ視線を向けている。ルーカスは淡い緑の礼装に金色の刺繍がしており、いつも以上に華やかな装いだった。クラウスの隣で、どこか楽しげに周囲を見渡していた。
二人の少し後ろには、セドリックが控えている。
鍛えられた体に合わせた濃紺の礼装は余計な装飾を抑えており、王子の側近らしい落ち着きと隙のなさを感じさせた。
会場のあちこちでは、もうひとつの好奇心も、ひそかに膨らんでいた。
リディア・エルヴィン。
厄介な魔物でしかなかったクリスタルスティングを、領地の新たな富へと変えた公爵令嬢。
その噂は、すでに王都の社交界にも広まりつつあった。
では、そんな噂の令嬢は、一体どのような姿で現れるのか。
期待と興味を含んだ視線が、自然と大扉の方へ集まっていく。
そして、その好奇心が最高潮に達したとき――。
高らかなファンファーレが鳴り響き、大扉が重厚な音を立てて開いた。
父アルヴィスと兄アレクシス、そして会場の入口を気にしていたクラウスが、その音に弾かれたように振り返る。
「エルヴィン公爵令嬢、リディア・エルヴィン様!」
高らかな紹介とともに、階段の頂上でリディアは静かに、そして深くカーテシーを捧げた。
凛とした表情で、一歩、また一歩と優雅に階段を下りていく。
その気高い美しさに、会場にいた誰もが言葉を失い、ただ圧倒されて彼女を見上げた。
最下段では、父アルヴィスが静かに立ち、リディアを迎えた。
アルヴィスは深い藍色の礼装を身にまとい、胸元には銀糸で施されたエルヴィン家の紋章が静かに輝いている。その姿は公爵としての威厳をまとい、近寄りがたいほど堂々として見えた。
彼はリディアの手を取る。
「……待っていたよ、リディア。今宵は、お前の晴れ舞台だ」
「お父様。……緊張で、足が震えそうですわ」
囁くように返すリディアに、父は慈しむような低い声で笑った。
「案ずるな。私がついている」
公爵として静かに場を制するアルヴィスと、清らかな輝きをまとうリディア。
その親子に気圧されるように、周囲の貴族たちは自然と道を開けた。
傍らにいた母エレノアは、娘の完璧な装いと立ち振る舞いに、誇らしげな微笑みを浮かべている。
少し離れた場所では、兄アレクシスが深緑の礼装姿で固まっていた。整った顔立ちにいつもの余裕はなく、今にも「我が妹こそ今宵一番美しい」と言い出しそうなほど目を潤ませている。
(お父様の隣は、とても安心するわ。……なるべく余計な波風を立てず、今夜は穏やかに過ごせますように)
だが、リディアの謙虚な願いとは裏腹に、会場中の若き貴族たちが目を奪われたように彼女を注視し、熱い視線を送り続けていた。
ファーストダンスを父と踊り終えた後、すぐさま兄のアレクシスが駆け寄ってきた。
「なんと美しい妹君だろう。よかったら、兄に光栄なるセカンドダンスを踊らせてもらえないか?」
アレクシスは芝居がかった仕草で手を差し出す。その瞳には、隠しきれない感動が浮かんでいた。
「もちろんよ、お兄様。喜んで」
申し込みに出遅れた若手貴族たちが羨望の眼差しを送る中、リディアは兄と軽やかにステップを踏んだ。
二曲目が終わり、ようやく飲み物を手にして一息ついていると、同じく今夜デビュタントを迎えたカレンが挨拶にやってきた。
カレンは白を基調にしたドレスを身にまとい、赤みのある茶色の髪を緩やかに結い上げていた。赤い刺繍が裾や袖口に走り、彼女の凛とした雰囲気を引き立てている。
「カレン様! 白い生地に赤い刺繍……あなたによく似合っていて素敵です」
「リディア様こそ、息を呑むほどお綺麗ですわ……。アレクシス様、お久しぶりです。エルヴィン領では大変お世話になりました」
アレクシスが「お久しぶり、カレン嬢。リディアと仲良くしてくれてありがとう」と優しく声をかける。
あまりに眩しい微笑みを向けられたカレンは、頬を赤くして視線を伏せた。
そこへ、クラウス、ルーカス、セドリックの三人が近づいてくる。
クラウスはリディアを前にして、青い瞳を落ち着きなく揺らしていた。
ルーカスはそんな兄とは対照的に、頬を紅潮させながらも素直な感嘆を隠そうとしなかった。
「リディア様、本当にお綺麗です。見惚れてしまいました」
興奮気味に語るルーカスの隣で、クラウスは何か言おうとして、けれど視線を合わせきれずにいた。
「クラウス殿下、次のダンスを誘わなくてよろしいのですか?」
セドリックが、クラウスの耳元でそう囁く。冷静な口調ではあったが、主人の様子に少し呆れているようにも見えた。
クラウスがようやく意を決して口を開こうとした――その瞬間。
飄々とした足取りで割って入ったのは、トビアス・アイゼンだった。
今夜は淡い灰色の礼装を隙なく着こなしているが、リディアへ向けるいたずらっぽい笑みだけはいつも通りだ。
「やあ、白銀のバラ。今日も一際美しいね。僕と踊ってくれる?」
「トビアス! クラウス殿下がお話しされている最中だぞ!」
鋭いセドリックの抗議を無視し、トビアスはいたずらっぽく片目をつむりリディアへ手を差し出す。
リディアは一瞬だけクラウスへ視線を向けた。
けれど、すでに差し出された手を無視するわけにもいかない。
小さく会釈してから、トビアスの手を取った。
「……ええ、行きましょうか」
リディアが微笑んでトビアスの手を取ると、会場には小さな、けれど確実な衝撃が走った。
その様子に場がわずかにざわめく中、アレクシスは緊張で震えているカレンの前に立った。
「カレン嬢、よかったら私と踊ってはもらえないだろうか?」
「はい、もちろんです……っ!」
顔を真っ赤にしたまま、カレンはアレクシスの手を取った。
トビアスのダンスは意外にも模範的で踊りやすかった。
「トビアス様、ダンス上手ですね。あまりダンスの練習なんてしない方かと」
「そりゃあ、一応家に泥を塗らない程度には練習するよ。それに君と踊れるかもしれないと思ったら下手じゃかっこつかないでしょ」
思いがけず真っ直ぐな言葉に、リディアの胸がわずかに跳ねた。
「クラウス殿下から君を攫ってしまったから、あとでセドリックにうるさく言われるね」
「……まさか、セドリック様にかまわれたくてやっているんですか?」
トビアスはとても楽しそうに笑った。
(まったく、掴みどころのない人ね)
リディアも、思わず笑みがこぼれた。
トビアスとの曲が終わると、すぐさまクラウスがリディアのもとへと歩み寄ってきた。
その表情には、今度こそ言いそびれまいという決意が滲んでいた。
繋いでいたトビアスの手に、一瞬だけ力がこもった。
けれどすぐに、その手は静かに離れる。
「リディア嬢、一曲お相手いただけますか?」
「ええ、喜んで。クラウス様」
リディアはクラウスの導きに従い、フロアの中央へと進んだ。
音楽が始まり、彼と共に踊り始める。
(クラウス様と踊るのは、本当に久しぶりね……)
ふと、過去の記憶が脳裏をよぎる。
「……不思議だな。初めて踊る相手とは思えないほど、君とは踊りやすい」
「光栄ですわ。クラウス殿下のリードがお上手なだけです」
前の時間軸では婚約者同士だったため、舞踏会のたびに彼と踊っていた。
当時のクラウスは顔には出さなかったが、きっと嫌々だったのだろう。
けれど、今の彼が向ける瞳には、純粋な驚きと称賛の色が宿っている。
(前の私も……ダンスだけは、一生懸命に練習していたのね)
自分は怠け者で、何一つ頑張ったことなどないと思っていた。
けれど、かつての自分が必死に磨いたステップが今こうして、彼に「上手い」と言ってもらえている。
少しは誇れることがあったのだ。
そう思うと、自分の過去がほんの少し報われたような気がして、リディアの目頭が熱くなった。
「……ところでトビアス卿とは何を話されていたんですか?」
「えっ」
クラウスの唐突な言葉にリディアは瞬きをする。
「とても楽しそうな様子でしたので……」
リディアは驚きのあまり、まじまじとクラウスの顔を見てしまった。
(まさか、クラウス様がやきもちを……?)
「トビアス様はいつも予想外なことをおっしゃるので、そのたびに笑ってしまうんです」
「たしかにトビアス卿はユニークだ。……たまに彼が羨ましいよ」
(やきもち……ではなく、やはり憧れなのかしら)
いつも真面目でしっかりしているクラウスに対して、自由で気ままな雰囲気のトビアス。
リディアはなんとなくクラウスがトビアスに憧れる気持ちが理解できた。
「クラウス様がトビアス様になってしまったらセドリック様が大忙しですわ」
「セドリックに泣かれてしまうな」
クラウスは思わず、小さく笑いをこぼした。
その後、ルーカス、セドリックとも順にダンスを重ねていく。
ルーカスは無邪気な様子で、セドリックは終始礼儀正しく、けれどどこか照れくさそうだった。
こうして、リディアの「二度目のデビュタント」は、前の時間軸とはまったく異なる、晴れやかな夜となった。




