第16話 雪解けの春
雪解け水が、軒先からぽたり、ぽたりと落ちていた。
長い冬に閉ざされていたエルヴィン領にも、ようやく春の気配が訪れ始めている。
まだ風は冷たい。けれど窓から差し込む陽射しには、冬にはなかった柔らかな温もりがあった。
リディアとアレクシスは、机いっぱいに広げた資料を前に、クリスタルスティングに関する研究記録を整理していた。
「今日は暖かくて、日差しが気持ちいいですわね」
リディアは窓辺に立ち、庭の雪が少しずつ薄くなっていく景色を眺めた。
庭師たちは、雪に埋もれていた花壇の整備を始めている。遠くでは、使用人たちが春支度のために忙しく動き回っていた。
エルヴィン領の春は遅い。
それでも、確かに季節は動き始めていた。
「今年は、クリスタルスティングの巣箱をさらに増やす予定だから、騎士団へ早めに連絡しないといけないな」
アレクシスが去年の記録を見ながら日付を確認する。
「ある程度形になってきたら、きちんとした養蜂担当者を雇わなくてはいけませんね。いつまでも騎士の皆さんに任せ続けるわけにもいきませんし」
「そうだね。だけどクリスタルスティングは魔物だから、誰にでも任せられるわけじゃないのが難しいところだ」
「そうですわね」
加えて、巣箱に使う木材の種類によって、蜜の品質や採取量に変化が出るのかも調査する予定になっている。
(本当は、咲いている花の種類による違いも比較したかったのだけれど……それは来年ですわね)
さすがに一度に検証できる量には限界がある。
こうして一つずつ確かめていくしかないのだろう。
地道な作業ではあるが、不思議と嫌ではなかった。
リディアは机に広げたメモへ視線を落とした。
そこには、巣箱の設置場所や木材の種類、蜜の色味や香りについて、細かな記録がびっしりと書き込まれている。
クリスタルスティングの蜜――晶蜂蜜は、冬の終わり頃からエルヴィン領内で試験的に販売され始めていた。
すると予想以上に評判となり、今では遠方から商人や貴族の使いまで訪れるようになっている。
価格は普通の蜂蜜よりかなり高い。
それでも、疲労時に身体が温まることや、体調不良の際に飲むと楽になることから、「冬のお守り」として人気が広がっていた。
特に、雪の中で働く木こりや騎士たちからの評価が高い。
「最近は、騎士団の皆さんも常備しているそうですよ」
書類を整理していたエマが、嬉しそうに言った。
「まあ、本当に?」
「はい。巡回の際に少量持ち歩いている方もいるとか」
「ふふ、それは少し誇らしいですわね」
リディアは自然と口元を緩めた。
さらに、クリスタルスティングを養蜂するようになったことで、生態研究も大きく進んでいた。
巣の作り方。活動時期。好む花。そして危険行動。
少しずつ蓄積された情報は騎士団とも共有され、以前より野生のクリスタルスティングとの事故が大幅に減っていた。
「赤色への反応も、かなりはっきりしてきたね」
アレクシスが、机の上の報告書を覗き込みながら言う。
「ええ。どうやら赤いものを見ると、かなり攻撃的になるみたいですわ」
きっかけは、騎士団員の一人が赤い布を腰につけたまま森へ入った時だった。
普段より明らかに多くのクリスタルスティングに追い回され、大騒ぎになったのだ。
その後、何度か検証を重ねた結果、赤色へ強く反応する傾向が確認された。
「やっぱり、ブラッドクロウベアが関係しているのかしら」
ブラッドクロウベア。
クリスタルスティングの天敵とされる大型魔獣だ。
黒褐色の毛並みを持つ巨大な熊型魔獣で、胸元から喉元にかけてだけ鮮やかな赤毛が生えている。
その赤毛は、まるで血を浴びたようにも見えることから、その名で呼ばれていた。
「恐らくね。天敵の特徴として覚えているんだろう」
「なるほど……」
現在では、
『森へ入る際、赤い外套や装飾品を身につけてはならない』
という注意事項が、騎士団だけでなく、木こりや薬草採取を行う領民たちにも広く共有されている。
実際、それだけでも遭遇時の被害はかなり減っていた。
「クリスタルスティングって、赤色のものを付けていなければ案外あちらから襲ってくることはないのかもしれませんね」
「かもしれないね。思っていたよりも攻撃的ではなかったな」
アレクシスは腕を組みながら頷いた。
しばらく報告書を眺めていたリディアは、ふと思いついたように顔を上げた。
「お兄様。晶蜂蜜から、何か新しい特産品を作れないかしら」
「酒がいいよ、酒が」
即答だった。
リディアは思わず眉をひそめる。
「ちょっと、真面目に考えてください!」
「いやいや、本気だよ。蜂蜜酒なんて、すごくいいと思うけど?」
「……蜂蜜酒ですか」
リディアは少し考え込んだ。
蜂蜜酒。
名前だけは聞いたことがある。
「蜂蜜酒……良さそうですね」
「だろ?」
アレクシスが得意げに笑う。
「さっそく、文献を探しにお父様の本棚を見に行ってきますわ!」
勢いよく立ち上がりかけたところで、アレクシスが呆れたように声を上げた。
「待て待て。父上の本棚に"蜂蜜酒の作り方"なんて本があるわけないだろ」
「はっ……たしかに」
リディアはぴたりと動きを止めた。
「では、どうすれば……」
「直接、領地にある酒蔵へ話を聞きに行けばいいんだよ」
「なるほど……!」
リディアは感心したように兄を見つめた。
(最近、何でもまず本で調べようとしてしまうわね。けれど、現場でしか分からないこともあるのだわ)
本を読みはじめてからは読むことが楽しくて仕方なかった。
気づけば、何かあればすぐ本へ頼る癖がついてしまっていたらしい。
「蜂蜜酒については、俺が責任を持って完成させるよ」
アレクシスが立ち上がる。
「さすがに、リディアに酒造りはまだ早すぎる」
「そうですわね。では、楽しみにしております」
「よし。じゃあ、さっそく酒蔵へ行ってくる。一応、晶蜂蜜も持っていくか」
棚から蜂蜜の瓶を取り上げると、アレクシスは軽やかな足取りで部屋を出て行った。
その背中を見送りながら、リディアは小さく笑った。
春の柔らかな陽射しが、机の上の晶蜂蜜を透かしてきらきらと輝いていた。
晶蜂蜜の取り組みは、まだ始まったばかりだった。
けれど雪解けを迎えたエルヴィン領には、確かに新しい変化の兆しが生まれ始めていた。




