30 首輪付きの野良犬3
俺はその日から、自分を捨てた。
首輪は付いているが鎖はない。名前はあるが飼い主がいない。そんな野良犬。それが俺だ。
周囲の人間は俺を憐れむ。一人になった俺を。鎖の切られた俺を。
何度も何度も口にされる"お気の毒に"という言葉、それが俺が必死に隠した心を傷つけるとも知らずに。
そして俺もそれに対してうっすらと笑みを浮かべ礼を返す。上辺だけの本当に薄い笑顔だった。
会社を辞め、家を売り、俺は一人遠くへと赴いた。誰も俺を知る人間がいない地へと逃げるかのように。昔の俺を知る物が一切ない場所へと助けを乞うように。
もしかしたら母さんを失った親父も同じ気持ちだったのかもしれない。だが、今更気付いたところで遅すぎる。俺にはもう何もないのだから。
ただあるのは、亡き最愛の二人への想いだけだ。それも、二人との思い出の形から逃げるという矛盾を孕みながら。
二人の存在を渇望する自分と、二人の痕跡を恐れる自分。その二つの感情に押し潰されそうになる俺は、弥恵から逃げた親父によく似ていた。
俺たちは、似た者親子だったのだ。
俺は一人、たった一人で研究を始めた。何の研究かなど言うまでもない。舞衣と愛、二人を生き返らせること。これに尽きる。
それはあまりにも荒唐無稽で、馬鹿げた研究だった。誰にも相談できない。誰にも明かすことのできない研究。それでも俺は諦めることをしなかった。
俺がそれを諦めるということは、即ち俺の死を意味している。俺は残りの人生の全てを賭けた。
二人のいない人生なんて、俺にとってなんの価値もないものだから。
いくつかの研究所を渡り歩き、俺は俺の野望に必要なデータや資金をかき集めた。表向きには協力を惜しまない姿勢を見せ、裏では自らの研究に没頭する。その副産物を他人に押し付ければ簡単に信頼を掌握することが出来た。何者も目先の利益をちらつかせればすぐに尻尾を振る。何とも浅ましい光景だった。
そして気付けば30年以上もの年月が過ぎ去っていた。そして俺はついに希望の光を拝むことに成功した。
それはまさしく光を従えるもの。不可侵とされた時を超越するもの。つまり、過去に干渉することのできる物質の誕生だった。
私はそれを、"アイリス・コア"と名付けた。
アイリス。それは光の速度を超えるなどという生易しいものではない。人々は言った。過去を変えることなど不可能だと。たとえ光速を超える物質が存在したとしても過去に干渉することなど出来やしないと。
だが、アイリスは違う。アイリスは光を超えるものではない。それは時空そのものを歪めるものだった。時間も空間もこの物質により捻じ曲げられ、それによって特殊な重力を生じさせる。そして、我々の存在する次元よりも高位の次元を創造するのだ。
我々が二次元の映像を逆再生できるように、より高位の次元からこの次元を巻き戻す。それがアイリスの真実だった。
だが、私にはアイリスを使役することは出来なかった。当たり前だ。我々ではそれを認識することが出来ないのだから。
仮に理論通りにアイリスが時間を巻き戻すことに成功したとして、それが何になる。時間を巻き戻したところで何も干渉しなければ同じ結果が繰り返されるだけだ。それでは何の意味もない。そして私ではアイリスによって作り出された高位の次元に干渉することは出来ない。アイリスの次元にはアイリスしかたどり着けないのだ。
私は考えた。どうにかしてアイリスと同じ次元に至ることは出来ないのか。どうにかして私をアイリスが築いてくれた次元に連れて行ってはくれないのか。その答えが出ないまま数年の月日が流れた。理想の世界はすぐそこに在るはずなのに、手が届かない。そのもどかしさが私を焦らせる。私は失敗を一つ重ねるたびに強くこぶしを握り締め、己の無力さを呪った。まるで神に嘲笑われているかのようだった。
そんな時、私にある異変が生じる。私の体はいつの間にか重い病に蝕まれていたのだ。それはさながら神が諦めの悪い私へ課したタイムリミットのようでもあった。
余命幾許もないと診断された私から出たのは乾いた笑いだけだった。結局、結局私は何のために生きてきたんだ。妻と娘が私の前から姿を消してからというもの、碌な人生を歩んでこなかった。その結末が病に倒れ死ぬだなんて、どこまでも下らない舞台演目だ。その運命に私はもう涙すら出なかった。
私の輝かしい日々には常に彼女たちがいた。舞衣がいて、愛がいる。私はそれまで感じることのできなかった"家族"によって救われていたのだ。だったら、私は最期まで家族に縋っていたい。最期くらい、家族に救いを求めていたい。
私は、一人になりたくない。だから私は創ったのだ、家族を。新たなる私の娘、"アイリス"を。
私には新しい家族が増えた。名をアイリスという。私の初めての娘である愛の十年後の姿を想定して作られた、紛れもない私の二人目の娘だった。
最新の人工知能を搭載し言葉の受け答えは勿論、動く仕草や表情などまるで本物の人間にしか見えない。そしてその体を構築するのは当然私が生み出した物質であるアイリスだ。
人間そっくりのアンドロイドを作ることなど今の技術思ってすれば造作もないことだが、アイリスは普通の物質ではない。アイリスとしての機能を損なうことなく人の形に落とし込むのは容易ではなかった。だからこそ私は完成したアイリスを自分の娘だと認識することが出来たのだ。
思えばもう既に私の家族に対する認識はとっくに歪んでしまっていたのかもしれない。求め続けていたのに、遠のいてしまうその感情は、今ではもう霞んでしまって見えやしない。だが、今となってはもう細かいことなど気にしている余裕などなかった。
今はただ、目の前の家族を愛し、すぐ近くに迫る終わりから目を背けることしか出来ないのだから。
私は生まれた娘に名を授け、様々なことを教えた。本当は愛に教えるはずだった教育はすんなりと私の口から出ていった。永い間渇望していたことだ、私はそれを幸せだ、と噛みしめていた。その中に潜む歪んだ違和感に気付くことないままに。
アイリスとの生活が一年経った。最初は覚束なかった会話も今では随分と自然にできるようになっていた。本当にもう普通の人間と見分けがつかないほどだ。
私が名を与えたとき、アイリスは不思議そうに自分の名を繰り返していた。本当に生まれたての雛のように微笑ましくも感慨深い光景だった。
私がテレビを教えたとき、アイリスはその中に映る景色を食い入るように見つめていた。アイリスの世界はまだ狭い。だから早くアイリスにも広い世界を見せてやりたいと思った。
私がアイリスのメンテナンスの準備をしていたとき、アイリスは側に居たいと言ってくれた。アイリスが自主的に意見を言った貴重な瞬間で、親として愛しい娘の成長を感じられた瞬間だった。
私がアイリスと外へと出たとき、アイリスは空を見て天井が見えないと言った。天井なんてないと言うとまた不思議そうに小首を傾げる。外で遊んでいた子供たちを見て楽しそうだと言うアイリスは本当に無垢で、アイリスにも友達を与えてやりたいと強く願った。
私の心がアイリスで埋まっていくのを感じる。それは幸福。家族と生きる幸せ。それをアイリスは思い出させてくれた。
だからこそ、私はそれに恐怖を覚えるようになっていた。アイリスは私に足りないものを埋めてしまっているのだ。
アイリスが、舞衣と愛の代わりになってしまう。私は二人を忘れるためにアイリスを造ったわけではないのに。
私を、これ以上幸せにしないでくれ。
私に満足させないでくれ。
このままでは二人のことを忘れてしまう。
アイリスが、私の心の隙間を埋めてしまう。
それは二人への裏切りになってしまう。それだけは、それだけはあってはならなかった。
そんな中、奴は現れた。それが決定打となり私はアイリスを自らの元から手放すことにした。これ以上愛するものを失うくらいなら、自分の手で手放す。それが一日でも一秒でも一瞬でも、アイリスを長生きさせる方法だったから。
手放すなら、過去の自分の元へ。いつの自分に届くかは未知数だが、もう自分に寂しい思いをしてほしくないから。私と同じ波長をもつ人間にしか見えない光で導いてくれるから。
過去に送ればアイリス・コアの供給も途絶える。それはアイリスの有限を意味している。
それでも、このままここにいるよりはずっと良い。このまま、奴の手に渡るよりは、ずっと良い。
だから、安心してくれアイリス。アイリスは絶対私が守るから。
それがパパとの最期の記憶。




