29 首輪付きの野良犬2
その日の空は朝から酷く重苦しい雲に覆われていた。会社の窓からそんな曇り空を見上げていると何故だか自分の気分も重くなってくる。
以前舞衣は晴れ渡る空が好きだと言っていた。青空も夕焼け空も星の煌めく夜空も、舞衣にとって良い空なのだという。愛も同じく澄んだ空を好んでいたようだ。こんな色の空では二人のテンションがガタ落ちしているのが容易に想像がつく。きっと舞衣は家で、愛は幼稚園でボケーっとしているに違いない。
今日は帰りに二人の好きな洋菓子店のシュークリームでも買って行ってやるか。それだけできっと二人の顔は雲一つない空のように活気に満ちる事だろう。そんな二人の顔を想像して少しばかり顔が緩む。今日は仕事を早く切り上げないとな。
少ししてふと再び窓の外に意識を傾けると、いつの間にかしとしとと雨が降り出していた。そういえば朝出かけるときに舞衣が今日は雨が降ると思うと言っていたっけ。予報では曇りまでだったが、念のために折り畳みの傘を持ってきておいたんだった。俺はカバンに忍ばせていた折り畳み傘をポンと軽く叩く。
舞衣の勘を信じてよかった。あいつの勘は昔から侮れない。偶に驚くほどの洞察力を見せてくる。まぁ本当に偶にだが。
頃合いを計り仕事を切り上げ帰る支度を済ませる。途中同僚が恨めしそうな顔で見てきたが今日ばかりは無視させてもらおう。いつもみたいに手伝ってもらえるのが普通だと思われるのは困るからな。今日の俺には機嫌を取らなくてはならない相手がいるんだ。仕事なんかよりもよっぽど大切な、な。
会社から出ると雨がより強くなっていることに気が付く。天気予報なんかよりも舞衣の勘の方がよっぽどあてになるんじゃないか? と折り畳み傘を広げながら思う。それこそ折り畳みなんかじゃなくてもっと大きい傘にしておいたほうが良かったほどだ。この雨で折り畳みじゃ多少濡れることは覚悟しなければならない。途中で買って行く予定のシュークリームまで濡らさないようにしないとな。家で待ってるお嬢様方がへそを曲げてしまうのは避けたい。俺は俺の帰りを待つ二人を思い浮かべながら足早に洋菓子店へと赴いた。
その音は雨の音にかき消された。いやそれ以前に、その時の俺には周りの音なんて入ってきていなかったのかもしれない。すぐそばの車道を通る車の音も、雨に当たり跳ねる水しぶきの音も、何も聞こえない。だから手に持っていたシュークリームの箱が地面に落ちて雨に濡れていることにも気が付かずに、俺は力なく傘を垂らしただスマホを片手に雨に打たれていた。
舞衣と愛が死んだ。警察からの報せは俺を絶望の底に叩き落とすものだった。
事実はただ端的に現れる。真実はただ残酷に告げる。
ただただ突然に、唐突に、何の前触れもなく、悪魔のように訪れる。
舞衣と愛が死んだ。幼稚園からの帰り、雨にハンドルを取られた車に撥ねられたと告げられた。
何故だ? どうしてだ? どうしてそんなにも人は脆い?
昨日まであんなに元気な笑顔を見せてくれていたのに。
嘘なんだろ? 悪質な悪戯なんだろ? そんな冗談、面白くないぞ。
帰ったら二人して意地の悪い顔をして俺を待っているんだろ?
そしたら二人とも説教だからな。そんな冗談、死んでも言うんじゃないぞ。
だから、早く俺にその顔を見せてくれ。いつもの花が咲いたようなその笑顔を。
俺は走っていた。雨の中無我夢中で走っていた。一刻も早く家に帰りつくために。帰ったらいるはずだから。帰ったら俺の家族が笑顔で"おかえり"と言って出迎えてくれるはずだから。
その、はずだから。
舞衣と愛が死んだ。俺は変わり果てた二人を見て、その事実を認めざるを得なかった。
病院の霊安室に二人はいた。二人とも綺麗な顔で眠っていた。声をかければ起きてきそうなほどに、二人の寝顔は安らかなものだった。
俺は声をかけた。二人に起きてきてほしかったから。
二人とも起きろよ。いつまで寝てるんだ。もうとっくに起きる時間だぞ?
返事はなかった。
そうだ、シュークリーム買ってくるよ。さっき落としちまったから新しいやつだ。今度はいろんな種類のを買ってこようか。
返事はなかった。
それともケーキのほうが良かったか?じゃあ駅前のチーズケーキでも買ってくるか。
返事はなかった。
だからさ……、いい加減目を覚ましてくれよ……。なあ、舞衣……、愛……。
返事は、なかった。
嘘だ。
嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。
こんなのデタラメに決まってる。
こんなことあっていいはずがないだろ。
あの二人が死ぬなんて。
あの二人が俺を残していくなんて。
絶対、嘘だ。
頬を何か水が伝うのを感じる。雨の中走ってきたから乾いていなかったのだろう。俺は手で水を拭う。だが拭っても拭っても水が流れるのを止めることは出来なかった。
どうして。なんで止まらないんだ。ここは室内だぞ。雨なんか降ってない。なのになんで、俺の頬を伝う水は止まらないんだ。
「あ、ああ……。ううああああああああああああああああああああああああっ!!!!」
慟哭は霊安室に響き渡る。だがその絶叫すら誰にも聞かれることはなく、虚空に霧散していった。
俺はまた一人になった。
元々一人だった昔とは違う。俺は家族を得て、そして奪われた。その絶望の差は歴然だった。
花に包まれ棺桶ごと焼かれ骨になった二人。その最後を見送った人間はそう多くなかった。久しぶりに会った風間さん。結婚のときに挨拶して時々皆で会いに行っている舞衣の祖母。その他は舞衣の卒業校の教師や舞衣の幼稚園教諭など俺が関わりのない二人の知り合いだった。
皆、哀しい表情で二人の死を悼む。風間さんたちは涙を流していた。それだけ二人は人々に愛されていた。それだけでも二人は報われるだろう。白羽舞衣と白羽愛は確かにこの世に生きていた。
だが、俺はまだ二人の死を真実として認めていなかった。
事実と真実は似て非なるものである。事実は事実、起きた出来事そのものを指す。誰にとってもそれはゆるぎなく普遍だ。だが真実はそうではない。真実は人間の数だけ存在する。あることを真実だと認める人間がいる一方で真実であると認めない人間もいる。それが真実の多様性だ。
俺は二人の死を真実だと認めない。俺が真実だと認めたら、本当に二人はこの世からいなくなってしまいそうだったから。
二人はまだ生きている。俺の中で、俺の心の中で。俺はまだ二人から別れの言葉を聞いていない。俺も別れの言葉を告げていない。ならば、まだ。まだだ。まだ終わってなんかない。まだ二人は死んでなんかいない。俺はそう思った。
だとしたら、どうする。俺に何ができる。二人のために俺はどうすればいい。どうやって二人を救えばいい。
俺は必死に考えた。二人を救う方法。そんなもの、ありはしないと心のどこかでそう思っていたのかもしれない。だが俺は諦めなかった。
舞衣は俺に生きる価値を教えてくれた。愛は俺に生きる意味を教えてくれた。その二人を失ったら俺は死んだも同然だ。だったら、自分を捨ててでも二人を救い出す。
こんなこと、舞衣と愛に知れたらなんて言われるだろうな。きっと怒られるだろう。泣かれるかもしれない。でも、いいんだ。もう一度二人に会うためには俺はどんなことだってしてやる。
たとえ、この世界を変えることになったとしても、だ。




