28 首輪付きの野良犬1
僕は、一人だった。
僕の人生は一人の時間がとても多かった。昔からそう。お父さんは僕と一緒に居てくれなくて、お母さんは最初からいなかった。僕はお母さんの顔を知らない。写真も見たことがない。あるはずの全ての痕跡が最初からなかった。多分だけど、お父さんが全部消したんだと思う。
お母さんについてお父さんに聞いたら、"お前を産んだときに死んだ"とだけ告げられた。僕はその時とても悲しい気持ちになった。何故だかはわからなかったけど、その時いつも無表情のお父さんが一瞬だけ、とても悲しい顔をしたように見えたから。だから僕はそれ以上お母さんについて聞くことをしなかった。
僕にとっては最初からいなかった存在。お父さんにとっては失った大切な人。その違いがどこか他人事のようにしか思えなくて、僕にはお父さんの気持ちがわからなかった。
普段から顔を見せず、たまに帰ってきたと思ったら自分の部屋にこもりきりで、僕の相手なんかまったくしてくれやしない。勇気を出して声をかけても、僕のことなんてまるで見えていないようだった。学校で作った工作を見せても一瞥くれるだけで、何のリアクションもない。だから僕は、親子ってこんなものなんだなって思うことにした。
世間一般の親子像なんて全部嘘っぱちで、全部絵空事だ。それが、僕にとっての真理だった。
僕は料理を覚えた。生きるために必要なお金はちゃんと渡されていたけれど、僕はなるべく自分の力で生きていこうと思った。そうすればお父さんが褒めてくれるかもしれなかったから。いっぱい練習して、美味しい料理とお父さんに食べさせてあげれば、お父さんは喜んでくれるんじゃないかって。そう思っていた時もあった。けれど、結局お父さんは食べてくれなかった。僕はこれじゃなかったんだなって思った。僕の努力は無駄だったんだなって。
そう思った瞬間から僕一人で何を食べても味気なくて、僕はいつしか覚えた料理も忘れて簡単なものしか作らなくなった。必要ないと思ったから。何を食べても一緒だと思ったから。僕一人しか食べなくて、僕が同じだと思うのなら、インスタントの食べ物も僕の手料理も一緒だ。そこに違いなんてありはしなかった。
気付けば僕の人生は、無味で無色だった。
それでも、僕にはお父さんしかいなかった。
俺は中学を卒業するとともに家を出て、一人暮らしを始めた。対した理由なんてない。ただ、父さんを感じる場所にいたくなかっただけだ。父さんも俺にとって最初からいなかったものとすれば、幾許か気分が楽になれたから。俺は最初から一人だったんだ。誰からも見捨てられてなんかいない。自分から外れていったんだ、と、そう思うことにした。
時々、無性に悔しくなった。その悔しさを周りにぶちまけることもあった。勿論怪我人など出していない。それ故に虚しさだけが残る。いつしか人々は俺を避けるようになっていた。不良だ、とか要注意人物だ、とか散々陰で言われたが気にはしない。そんなの気にするだけ無駄だからだ。俺はただ一人を望んだ。その結果が形として表れただけだ。本人に聞かれないように小声で放たれた陰口は俺の耳によく響く。存外、人の声はちゃんと届いているものだ。
もしかしたら、俺の声も父さんに届いていたのかもしれない。だが、もうそんなことはどうでもよかった。今となっては、もう何もかもがどうでもいい。家族なんていらない。友人なんていらない。俺はいつでも一人だ。それでいい。それがいい。それはある種の自己暗示のようだった。俺が寂しさを思い出さないための自衛手段。それが一人になることだった。
いつか聞いた"まるで野良犬のようだ"という評価は言い得て妙だ、と心の中で自嘲するようにほくそ笑んでいた。俺を野良犬だというのなら、誰か首輪をかけてみろよ。誰もそんなこと出来ないし、するつもりもないくせに。
俺が親父のいる大学を選んだのは何の因果か。適当に受けて合格して、そのまま進学した。関わるべきではないと思っていたのに、心のどこかでまだ親父との和解を求めていたのだろうか。そんなことして何になるというのだ。当時の俺の思考は理解できない。ただ、進学先を選ぶとき、親父のいる大学の名前が強く脳裏に焼き付いて離れなかったのは、きっと求める未来が何も見えなかったからなのだろう。
将来何になりたいだとか、就きたい職業は何だだとか、そんなことを考えるよりも前に俺には片付ける問題があった。心の奥底で俺はそれを解決したかったのかもしれない。
それでも、俺は目を背け続けた。
大学入学から数年経った後久しぶりにすれ違った親父は、最後に見たときから何にも変わってなくて、俺はそれに無性に腹が立った。全く人を見ていないその視線。その冷たさに俺は震えを覚えた。
本当は打ち解けたかったのに、仲良くしたかったのに、そんな感情など全て薙ぎ払うかのように膨れ上がる憎悪。俺にはそれを抑えることは出来なかった。
すれ違いざまに俺は親父に声をかけた。その声はお世辞にも友好的に接しようという人間の声ではなく、あまりにも乱暴なものだった。その時の親父の反応は、俺に冷たい目を向け、一言"誰だ? お前は"とだけ。
俺はその時にやっと、こいつとはわかり合えないと気付いたのかもしれない。遅すぎる気付きだった。
その時の親父への失望。怒り。憂い。そして自分への哀れみ。全てが一つの感情となって、気付けば俺は親父の胸ぐらをつかんでいた。それでもなお、親父は俺を変わらぬ目で見続けていた。
そこから先はあまり覚えていない。周りにいた人間に止められたか自分でやめたのか。少なくとも親父へ危害は加えていない。騒動は明るみに出たが、被害が無かったことと肉親であることが考慮されて、白羽教授へ謝罪することで不問となった。一歩間違えば退学ものだぞと他の教授に諭されたが、俺にとってはそれのほうが良かったのかもしれない。他人が見守る中、あのクソ親父に頭を下げなければならなくなったのは、ただただ"悔しい"という感情でいっぱいだった。そして、その時ですら親父は俺に関心の目を向けてはいなかった。謝罪しろと言ったのも本人じゃない。あいつはただ冷たい目をしていただけだ。
俺はあいつの中で"ただ一つの面倒事"として処理されていた。
俺が煙草を吸いだしたのはそれからだった。何か欲しかったんだ。気を紛らわせるものが。それが煙草だった。
最初は吸うたびにむせていたが我慢した。格好を付けたかったわけではない。親父と違うものが欲しかったんだ。親父は煙草を吸わないから、親父との差が欲しかった。それだけである。どちらが上とかしたとか、そんなものは関係なく、俺は親父と違う人間になりたかったんだ。親父と一緒になりたくなくて、子供のように足掻いていたのだった。
少しして一人の鬱陶しい後輩が俺に付きまとうようになった。名前は五十実舞衣と言った。
俺自身気付かぬうちにこいつを助けた形になっていたらしく、最初はそのお礼だとか言ってちょくちょく俺の前に現れるようになっていった。その姿が俺には不可解で仕方なかった。俺に態々近付く人間なんて、舞衣が初めてだったから。
初めは舞衣をただの変人だと思い適当にあしらっていたが、舞衣は諦めなかった。そしてしばらくしたある時、俺は舞衣の中にある闇に気が付いた。その時既に俺はそれを無視することが出来ないほどに舞衣を気にかけていた。
俺は舞衣に問うた。何を隠しているんだ。何を思って俺に近付いたんだ、と。舞衣はすぐには口を割らなかった。のらりくらりとかわし続けて、それでも俺の側から離れることはしなかった。
でも、ある日決定的な出来事が起きた。
俺の大学院卒業と舞衣の大学卒業が重なる春頃、舞衣の恩師が舞衣の元へと訪れた。そして、舞衣はその先生とともに俺の元へと赴き、真実を告げた。
それは過去。俺の知らない二人の少女たちの物語。渦中の一人の少女は俺の双子の妹だった。
いつまでも黙っているわけにはいかなかったのだろう。風間と名乗る女性は淡々と、然しながら悲哀な目を見せ語る。
俺が知る由もなかった一人の少女の人生。そしてそれに巻き込まれた少女の悲劇。どれをとっても俄には信じがたい。だがそれを語る風間先生と、その隣で今まで見たこともないような哀悼痛惜の色を見せる舞衣の表情からは嘘を吐いているようには見えなかった。
舞衣自身も親友だった弥恵が既に他界していることを知ったのは、風間さんが舞衣の元へと訪れてからだったらしく酷く傷心していた。だから俺は自分の傷を隠しながら舞衣を支えることを選んだ。まるで自分一人では抱えきれない現実から逃げるように、分け合うように、俺は不器用ながら舞衣の手を取った。
その後俺達は親父に……、白羽礼志に会うことはしなかった。何故かと問われれば、それがお互いのためになるだろうと思ったからだ、と答える。だが本当はそうじゃない。単純な話、恐かったからだ。真実を明らかにすることが、悲劇をこれ以上掘り下げることが。
風間さんから事件の一部始終を聞いた。全てを聞き終えたとき、俺は自分自身が底知れぬ怒りで震えていることに気が付いた。どうしてそんなことに、と考えたとき全ては一人の人物に帰結する。それは俺がこの世で最も嫌悪する男、白羽礼志である。その男は憎むべき相手であると同時に俺に残された唯一の肉親だった。
俺は恐くなった。これ以上親父のことを知れば俺は親父に何をするかわからない。自分が自分でなくなるような感覚、それが怒りによって増幅される。それが恐くなったのだ。
どうして、という気持ちはある。どうして親父は弥恵を見捨てるような真似をした? 俺は自らの元へ置き、双子の妹である弥恵は風間家へ預けた。それは何故だ。何故俺は一人だった? もし家族が、妹が一人でもいたのなら俺はこんなつまらない人間にはなっていなかっただろう。もっと真っ当な道を歩めたかもしれない。それは弥恵も同じだ。お互い一人だったからこそ道を踏み外した。もしも、もしも俺達が一人でなかったとしたら……。そう考えると俺は負の感情で押し潰されそうになった。
だから俺は自分を守るために、親父とは二度と会わないと誓った。それはある種、弥恵への裏切りにも取れた。本当は親父と直接向き合い真実を明らかにするべきだったのに。俺はそれから逃げた。
舞衣はそれを許してくれた。たとえ真実を知っても、必ずしも良い方向へと向かうとは限らない。さらに傷が深く抉られるだけかもしれない。それに、弥恵はもう戻ってこない。だったら、深く追う必要なんてない。このまま不幸な事故だったとして記憶の奥底に仕舞いこんでしまったほうが楽に生きていけるのかもしれない。舞衣はそれを肯定した。ただただ臆病で弱い俺を、舞衣は認めてくれた。優しく抱きしめてくれた。舞衣も逃げ続けた側の人間だったから。俺達は似た者同士だったから。だからこそ分かり合えた。
そして、俺達は過去から目を背けたんだ。
それから俺は随分と丸くなったような気がする。一つは尖る理由がなくなったから。もう一つは守るべき人が出来たから。それを傷つけないために、俺は真っ当に生きることにした。今までは自分の人生には自分しかなかったが、俺の人生に一人登場人物が増えた。それだけで俺はまともな人間になることが出来た……んだと思う。そんな恥ずかしい台詞、あいつの前では口が裂けても言えないが。
大学を卒業して就職してからしばらくは舞衣と一緒に過ごした。まるで二人の心の隙間を埋めるようにお互いがお互いを必要としていた。半ば同棲のような状況が続き、ある時舞衣が大荷物を抱え、本当に俺の部屋へと突撃してきた。
"二人で住むにはちょーっと狭いのでぇ……、二人でもっと頑張っていい部屋借りましょうね"と笑みをこぼす彼女は太陽のようで、恥ずかしながらとても魅力的に見えた。
幾度もの桜の季節を迎え俺達は結婚した。少し遠出をして、誰もいない月明りが照らす夜の浜辺でたった二人だけの式も挙げた。神父も牧師もいない、招待客もいない静かなものだったが、俺達は二人で充分幸せだった。誓いの時、彼女の涙ながらの笑顔は忘れることは出来ないだろう。
そして、俺達に家族が増えた。名前は"愛"。俺達の愛娘で、宝物だった。
愛とは俺が欲しかったもので、俺が受けることが出来なかったものだ。だから娘にその名前を付けた。ずっとずっと欲していたが手に入らなかったもの。いつしか愛されることを諦めていた俺は、舞衣と知り合い結ばれ、愛というものの本当の意味を知った。だから、この子は"愛"だ。俺達の愛情で育て上げ、決して俺のような思いをさせてはならないと、心に深く刻みつけた。この子には、孤独の辛さを知ってほしくはなかったから。俺は舞衣と愛を心から愛した。それが俺の生きる意味だった。
愛は元気にすくすくと育っていった。おてんばなのは舞衣譲りなのか、少し元気すぎるくらいだ。
舞衣によく似た人懐っこい笑顔。だが舞衣は目元は俺似だという。自分では気付かないものだ、と愛の目をよく見ていると屈託のない笑顔で俺を見つめ返し来てくれる。これを可愛らしいと思わない人間がいるのかと思うほどに俺はその愛らしさに目を奪われる。そしてその様子を舞衣に見られにやついた顔を見せられたのなんて一度や二度ではない。
愛の初めての言葉がママかパパかだなんて、よくある下らない問答もお互い譲らなかった。そして愛が初めて喋った言葉がご飯を表す"まんま"だったときは二人して吹き出して笑ったもんだ。"まんま"に似ている"ママ"の勝ちだとか、そんなのノーカンだとか、他愛もないやり取りの一つ一つが嬉しかった。俺にもこんな人並みの幸福を受けることが出来るんだって。
俺は心の底から幸せだった。二人の家族、その笑顔が俺に幸せという名の首輪をくれたんだ。それは枷でもなんでもなく、一人ではないという証拠。孤独ではないという証。俺はもう野良犬なんかじゃない。そう思っていた。
だが、俺を繋ぎとめていた鎖は、いとも簡単に千切れゆくのだった。




