20 語られる悲劇
空白の時が流れる。頭がまっさらな白に塗り替えられているのがわかる。脳が理解を拒んでいた。だが現実は俺たちを逃がしてはくれない。
白羽弥恵は、もうこの世にはいない。
何故だ。どうして。どういうことだ。
この世にはいない。つまり……"死んだ"ってことなのか?
その時突然何かがぶつかるような大きな音と共に机が揺れる。一瞬何が起きたのかわからなかったが、自らの手のひらに伝わるじわりとした痛みに気付かされる。
今の音は俺が机に自分の手を叩きつけた音だ。無意識のうちに俺は机に当たっていたのか。まるで受け止めきれない凄惨な事実に体が勝手にその痛みを外に逃がすかのように。
慌てて周りを見渡すと周囲は驚いた様子で俺を見ていた。たった一人を除いて……。
「……五十実……」
たった一人、五十実だけは未だに放心状態だった。俺が立てた音にも気が付いておらず、魂が抜けたように硬直している。
直接関係のない俺ですらこの有様だ。既に心に深い傷を負っていて、それが未だに治りきってしていない五十実に耐えられるものか。心のセーフティが起動したかのようにその目線は虚ろに空を泳いでいた。
「…………え? ……」
「……五十実……! おい! 五十実ッ!!」
俺は席を立ち五十実の肩を掴み揺らす。だが五十実はこちらを見ない。早く、正気に戻さないと……。
五十実はかつて精神崩壊を起こし入院生活をしていた過去がある。このままではまたそれを繰り返してしまう。それだけは避けなければ。せっかくここまで来たのに……。
俺は必死に呼びかける。二人の先生もそれに倣い五十実に呼び掛けていた。二人も五十実の過去を知っている。それなのになぜ……。
「……マイ」
隣から微かにマキナの声が聞こえる。気付いた時にはマキナは既に五十実の背中にぴたりとくっついていた。そしてマキナの体から青白い光が迸り五十実の体を包むように一周する。
「なっ……!?」
俺たちは咄嗟に五十実の側から離れる。だが光は瞬く間に弱まりそのまま何もなかったかのように消えていった。残ったのは眠るように目を閉じた五十実といつの日にか見たときと同じく蒼い瞳をして五十実を支えるマキナの姿だった。
「もう大丈夫そうです……。眠っているだけみたいですから……」
「……ありがとうございます、安田先生」
五十実は保健室のベッドの上で微かな寝息と共に眠りに落ちている。保健室に移動していたのが功を奏したか。幸い養護教諭までいるんだ、五十実の心配はひとまずいらないだろう。俺はマキナとともに先程までいた長机の元まで行き再び席に座った。
「……五十実……。私はまた……君を傷つけてしまったのか……。……すまない……」
風間先生が五十実の側で囁くように懺悔の言葉を呟いている。いろいろ言いたいことはあるが今は二人の邪魔はしないでおいた。今この人を責めるのは違う気がしたから。
この数分であまりに多くのことが起こり過ぎた。まずはそれを整理する必要がある。俺は風間先生に声をかけようとして躊躇う。その涙を見てしまっては声をかけることも憚られた。
「……安田先生。白羽弥恵がこの世にいないって話、本当なんですか」
しかし聞かない訳にはいかなかった。どうしても最優先で確認しなければならない重要な事項。死んだのかという表現はなるべくなら使いたくなかった。
安田先生は言い淀む。少しの沈黙の後、意を決した様子で口を開く。
「……本当……です」
風が吹けば消えてしまいそうなほど、弱々しい言葉だった。だが事実は消えない。過去は、否定することが出来ない。一度過ぎ去った事柄はただ残酷にその爪痕を残し続ける。
「……理由を聞かせてくれますか」
俺は目を強く瞑り眉間を指で揉む。さっきからずっと頭痛がしていた。
五十実が本当の意味で前に進めるようになるために話し合うべき人物はもう既に他界していたなんて、まるで悪い夢のようだ。どうして、どうしてなんだ。人ってやつはそんな簡単に死んでいいものなのか。
安田先生は暗い顔で風間先生の様子を窺っていた。五十実と一緒に居たとはいえ結局のところ俺は部外者だ。そう易々と話せる内容ではないか。
「言いにくいことでしょうが教えてください。少なくとも、あいつには知る権利があるはずです」
「白羽さん……」
安田先生のその呟きに風間先生が反応を示す。目を少しだけ見開きこちらに顔を向けた。
「白羽……? 君はもしかして……、白羽新……君か?」
また一つ、繋がった。全くの初対面であるはずの風間先生から名乗ってもいないフルネームで呼ばれるということは、つまりそういうことである。
先生は、俺を知っている。いや、俺たちを知っている。白羽弥恵と白羽新。二人はやはり無関係ではなかったのだ。
風間先生は驚きの表情を隠しきれないままこちらに近付いてくる。そして難しい顔をして俺の顔を見つめた。答えを、渇望しているようでもあった。
「ええ、俺の名前は白羽新です。こっちは……マキナ。今は友人ということにしておいてください。」
さっきとは違う紹介をした。俺の予想が正しいのならもう妹であるという嘘は意味を為さない。それにさっきマキナが五十実を眠らせたのを二人は見ている。隠し通すのは難しいだろうな。
風間先生は驚きの表情の後、納得したように眉を下げる。
「……そうか。なら、君も無関係ではないな。君にも全て話すべきだ」
「……風間さん、いいんですか?」
「ええ、彼は白羽の……白羽弥恵の双子の兄ですから」
特別驚きはしなかった。ただ自分の中で想定していた一つの道が事実となっただけだから。
俺には母親がいなかった。昔、何故俺には母親がいないのかを親父に尋ねたことがあった。その時親父は"お前が産まれたときに死んだ"とただ淡白にそう告げた。当時幼かった俺はそれなりにショックを受けたが、なんせ顔も知らない母親のことだ。そもそも実感が湧かなかった。
その後は俺は母親について考えるのをどこか恐れていた。どうせ考えても何もわからないし、何も変わらない。俺にとっては最初からいなかったのだ、とそう思えば幾許か楽になれた。俺が生まれたせいで死んだだなんて思いたくなかったから。
五十実から友人の名前が白羽であると告げられた時、一瞬だけ肉親である可能性を考えた。だがそんなのただの妄想だ。五十実は俺より年下で、その同級生も当然年下である。母親が俺を産んだときに死んだというのなら、親父が隠し子でも作っていない限り妹など生まれるはずがない。
だが、たった一つだけ可能性はあった。それは俺と同時に産まれていた場合、である。双子として産まれていたのなら姉もしくは妹として、白羽弥恵が俺の肉親であるという可能性が存在していたのだ。
それがたった今、肯定された。
「話してください、全てを」
何処からか冷たい風が吹いてきた気がする。外の方を見ると微かに窓が開いていた。人の気配は感じなかったから恐らく最初から開いていたのだろう。安田先生が同じく気付いたようでそっと窓を閉め再び席に着く。それは誰かに聞かれることを恐れるような仕草でもあった。
風間先生の口から淡々と語られるとある少女たちの軌跡は、あまりにも救いがなくあまりにも惨たらしい事実だった。
白羽弥恵は物心ついた時から両親はおらず、代わりにある人物の元で育てられてきた。それが風間先生の家だった。
当時十五歳ほどだった風間先生は、急に両親が三歳の子供を引き取ることになったと言い出したとき相当混乱したようだ。だがその子が自らの恩師の子供であり、その恩師が父親の元教え子であると聞き、風間先生は無理矢理納得したようだ。その恩師の名は"白羽礼志"。俺の父親の名だった。
特別な事情は話せない、ただ納得してほしいと両親に説き伏せられた風間先生は最初はただ戸惑いの色が強かったが、幼い弥恵と接していくうちにまるで妹が出来たかのように感じられ、その存在が段々と尊く愛しくなっていった。当時の二人の年齢差は十二歳、姉妹としてもおかしい数字ではなかった。
だが、弥恵は一つの大きな問題を抱えていた。それは彼女に戸籍が存在しない、という事実である。
本来人間は生まれたときに戸籍を作る必要があるが、弥恵はそれが叶わなかった。それはこの現代を生きていく上で死活問題だった。
戸籍が無ければあらゆる福祉を受けることが出来ない。パスポートや免許証も取ることも出来ない。そして何より、進学することが出来ないのだ。それは夢を持つ彼女にとって絶望的とも言えた。
小学校中学校は義務教育であるために無戸籍でもなんとか通えたが、それ以降はそうはいかない。高校も裁量によっては学力に問題が無くても入学を許可出来ないし、大学なんてさらに見込みがない。白羽弥恵の未来は薄暗い闇の中にある様だった。そして風間先生はそれをただ見ていることが出来なかった。そして風間先生はある決心をした。それは父親や弥恵の親と同じく教師となる決意だった。
程なくして風間先生は一人暮らしを始める。最初は弥恵も連れて行こうかと思っていたがこれ以上生活を不自由にするわけにはいかないと風間の両親の元へと置いてきた。
弥恵は内向的で友達もほとんど居なく話し相手はほぼ風間先生だけだったので、風間先生はちょくちょく弥恵の様子を見に帰っていた。しばらくそれを続けていくと弥恵に一人の女の子の友人が出来たことを知る。それが五十実舞衣だった。
しかし、弥恵はその友人に自分のすべてをさらけ出すことはしなかった。風間先生が聞くと"他人と違うのが恐い。お友達と違うのなんて、もっと恐い"と怯えていた。自分が他人と違うことにコンプレックスを抱いていたのだ。自分たちと違うという点で排他的に見られることを恐れていた。だから弥恵は親友の五十実舞衣にすら自分が無戸籍でありそれに悩んでいるということを明かすことは出来なかった。
風間先生は高校の教師となった。それは弥恵が中学に入学するのと同時期だった。そして弥恵が高校に上がれるように努力を重ねた。風間先生が弥恵の関係者だと気付かれないよう細心の注意を払いながら。そして無事弥恵は同じ高校に上がることが出来た。元々中高一貫の学校だったのもあるが、風間先生の説得が無ければ難しかったかもしれない。高校でこれでは大学なんて希望はほぼないと言っても良い状況だった。
風間先生は幾度となく白羽礼志の元へ訪れていた。礼志は風間先生が高校を卒業するころには高校教師を辞めており、都会の大学で教授としての職に就いていた。高校の教師を辞めたのは、人と関わりすぎるから、だったという。
何度も何度も問うた。何故弥恵は戸籍が無いのか。どうにかすることは出来ないのか。責任は取らないのか。その度に礼志は無の顔の奥底に黒い何かを覗かせていたようだ。
ただ着々と時だけが過ぎていった。
事件が起きたのは弥恵が高校に進学して半年ほど経った時だった。弥恵が親友を裏切ったのである。
信じたくなかった。あの純朴で穏やかな弥恵が人への嫌がらせに加担するだなんて。だが、弥恵はそれを事実と認めた。その表情は初めて風間先生にもわからない色をしていた。
風間先生は五十実がいじめられていると聞いた時、五十実を守ると約束した。それが教師の務めであるし、弥恵の為に繋がると思ったから。だが実際はどうだ。その一端を弥恵が担いでいただなんて、何の冗談だ。心底笑えなかった。
その結果、弥恵の親友は不登校となった。元々お互いに友人は一人しかいないような人間だ。たった一人の親友に裏切られたとしたら学校を拒絶してもおかしくはない。
風間先生は教師として五十実の家を数回訪れた。だが、その傷は大きく会話もまともにすることは出来なかった。風間先生はどうすればよいのかわからずに苦悩した。
そしてその苦悩は最悪の形で幕を閉じることになる。
五十実の家が放火された。その知らせは瞬く間に学校中に広まった。犯人は不明。被害者はその家に住んでいた親子。両親はともに焼死し、子は一命をとりとめたものの心的外傷後ストレス障害を負っていた。
五十実は入院後しばらくは人が近付くだけで恐怖し、その場から逃げ出しては失神を繰り返していた。人が近付いた時のこの世のすべてに恐怖したかのような顔は忘れることなどできないだろう。彼女はすぐに面会謝絶の患者となった。
幸いと言っていいのか、五十実本人はその間の記憶が曖昧になり、徐々に意識がはっきりしていった。地獄のような日々など忘れたままならそのほうが良いのだろう。そして誰かから逃げるように彼女の祖母の元へと引き渡されていった。
風間先生が弥恵から真実を聞いたのはその後だった。
「弥恵はな、同級生に担がれていたんだよ」
その言葉を聞いてほっとした俺は、恐らく人間らしい反応をしたんだと思う。顔も知らない人間のことなのに、どこかその人間の味方でありたかった。双子だと知ったからか、五十実の友人だったからとか、そういうんじゃないんだろうな。ただ人としてあってしかるべき"心"が俺にもあったということだろう。
弥恵は高校に入学してからも何度か風間先生に相談していた。勿論内容は戸籍について。だがそれは他人にバレてはいけなかった。弥恵が知られることを拒んだから。弥恵が戸籍を持っていないこと、弥恵と一緒に住んでいる人物が弥恵の本当の両親ではないこと。そして白羽弥恵と風間先生が姉妹のような関係であることはその一家と白羽礼志だけの秘密だった。
だが、ある日それは南雲という生徒にバレてしまった。恐らく度々人目を盗んで弥恵と風間先生が会っていることに勘付き不審に思ってあとをつけていたのだろう。そして南雲は弥恵に戸籍が無いことを知った。
その後、南雲は弥恵にある提案を持ちかけた。それは南雲に協力すること。そしてそれを条件に、南雲は弥恵に戸籍を手に入れる手伝いをすることを約束した。
南雲の親はその市の権力者だった。社会の裏の酸いも甘いも嚙み分けた権力者にとって戸籍を作るなどわけない。少なくとも南雲はそう思っていたようだ。そしてそれを利用し弥恵に取り入ることにした。
弥恵は最初は難色を示していたが、藁をもつかむ思いで協力に応じた。そして南雲の出した条件は、友人と別れることだった。
弥恵は葛藤した。それに協力すれば、確実に五十実を悲しませることになる。だが五十実に本当のことを言うことは避けたかった。それに生半可な理由で別れようとすれば五十実は絶対に離れることはしない。むしろ余計な心配をかけるだけだ。そこで南雲が考えた策は、五十実が自ら弥恵の側から離れるように仕向けることだった。
南雲とその取り巻き二人がある程度バレるように五十実に嫌がらせをする。そこを弥恵が五十実の味方をし、南雲が五十実をある程度追い詰めたのちに弥恵が共犯だったということをわざとバラす。こうすれば確実に五十実は弥恵から離れるだろう、そういう案だった。
弥恵には南雲の目的がわからなかった。南雲は弥恵たちが嫌いなのか、それとも単なる暇つぶしなのか。でも、弥恵にはこの際どうでもよくなっていた。既に弥恵に残された道は一つしかなかったのだから。
それに弥恵は五十実を信頼していた。弥恵としては戸籍さえ手に入ってしまえばその後どうとでもなるため、それまで五十実を自分から遠ざけるだけで良かったのだ。そしてすべてが終わった後ネタ晴らしをする。それが弥恵の描いた筋書きだった。
だが、現実はそう甘くはなかった。五十実が弥恵の予想以上にダメージを受け不登校になってしまったのである。それは、やりすぎだった。
弥恵は自分を恨んだ。自らの浅はかさを、自らの愚かさを。自分を弱いと思い、それでいて自分以外の人間を強いと思い込んでいたこと。それは一種の慢心であった。五十実の弥恵への依存度は予想を超えていたのである。
弥恵は駆けつけたかった。傷付いた友の元へと今すぐにでも駆け寄りたかった。だがそれは許されなかった。南雲との約束という茨の棘が弥恵を雁字搦めに締め付けていたのだった。
為す術もなく時が過ぎていく。そして、事件は起きてしまう。
「その後の弥恵は本当に……見ていられなかった……」
語る風間先生の声から涙の色が隠しきれていなかった。大切な教え子であり自分の妹のような存在の子の苦悩。それは他人では計り知れないものだろう。
弥恵は日に日にやつれていった。もう自分の戸籍のことなどどうでもいい。ただ全てを失った親友と話がしたい。しかしそれすらも許されなかった。その瞬間、弥恵もまた、全てを失ったことを知った。
弥恵は火災の始終を見ていた。だが火災が起きたのは夜中である。何故弥恵が夜中にそんなところにいたのか。答えは簡単だった。
「南雲がな、呼んだらしいんだよ」
その声には少しばかりの怒気が含まれていた。今まで見えることなかった怒りが初めて見えた瞬間だった。
南雲が呼んだ。それは即ち南雲が放火に関わっていることを指す。結局のところ、全ての事件の陰には南雲という人物が隠れていたのだ。
俺は煮えたぎるような怒りを何とか沈めながら話の続きを促す。だが、風間先生は言い淀んでいた。これ以上に言いにくいことがあるというのか。
やがてゆっくりと語られた真実に俺は怒りを忘れ、ただ放心することになる。
白羽弥恵は五十実がこの地から出て行ったあと、南雲らを学校の古い倉庫に呼び出し、倉庫もろとも焼き殺したのだ。焼け残った後からは南雲たち三人と、白羽弥恵の遺体が発見された。その事件はこの町にしばらく語り継がれる近年最大の悲劇となった。




