19 求めた真実はいつだって
曇天の空の中白雪が僅かに舞う。寒々しくもどこか暖かみを感じるのは、ここが俺たちが住む地区ほどビルやアパートなどの無機質で武骨な建物が多くないからか。
駅前だけあって辺りを見渡すとそれなりに栄えているようにも見える。しかし行きの電車の中で見た景色と照らし合わせると、少し外れた場所に出ると長閑な住宅地を見せてくれるようだ。
改札を出て振り返ると、物珍しそうに周囲を見渡すマキナと、俯き気味にゆっくりと歩みを進める五十実の姿があった。
ここは、五十実舞衣という少女が生まれ育った町だった。そして、彼女を変えてしまった町でもある。
「私の故郷に一緒に行ってくれませんか?」
クリスマスイヴの夜。五十実とマキナが作った夕食を済ませた後、五十実を突然こう切り出した。その表情は決して軽くなく、決意や覚悟がにじみ出ていた。
それは俺が近いうちに切りだそうとしていたものだ。五十実の故郷に、五十実の親友に、五十実の過去に、もう一度向き合わせる。それが無ければ五十実は根本的に救われないのだろう。五十実本人にもそう感じる念はあったようだ。だからこそ、俺はその時彼女を強いと思った。いや、強くなったというべきか。
無論俺は承諾する。だが全てを決めるのは五十実だ。俺は付き添うだけ。五十実の過去にはなるべく介入しない。これは彼女自身が乗り越えるべき障壁だから。俺はただ、彼女が挫けそうなときにはそっと支えてやるだけだ。どんなことがあっても、な。
本来なら付き添うのは俺だけで良かったはずだが、五十実たっての希望でマキナにも事情を説明し連れていくことにした。俺に過去を話した以上はマキナにも知ってほしかったのだろう。少しでも仲間が欲しかったのだろう。
マキナは五十実の過去をただ淡々と受け止めていた。マキナにはどう感じられたんだろうな。"人"の生き方に対して、何を思ったんだろう。マキナは"そうだったの、マイ"と言い、多くは問わなかった。ただ一言、"私はマイが大好きだよ"と告げた。
その時の五十実の、枯れるほど流したはずもなお流れ出す涙を見て見ぬふりをしてやれるほど俺は大人ではなかった。
電車をいくつか乗り継いで漸く着いた町は、既に粉砂糖をまぶしたように銀色が覆いかぶさっていた。それだけでも俺たちが住む街とは違う。寒さもこちらの方が厳しい。だが街行く人々の顔はどこか優しく暖かみがあった。
「……綺麗な町だな」
ふと出た言葉はそんな他愛のない言葉。特に他意はなかったのだが、あんなことがあった町に、それも被害者の目の前で"綺麗な町"は良くなかったか。だが目を向けると五十実はやんわりと微笑んでいた。
「ええ、綺麗な町なんですよここは。本当にね」
景色を懐かしむような、遠くを見つめる瞳。だから俺は訂正はしなかった。訂正するのは五十実の覚悟を否定するように思えたから。そして俺は五十実に倣い遠くを眺める。やはり、綺麗な町だった。
突然五十実の体がびくりと揺れる。何があったのかと見るとマキナが五十実の手をそっと握っていた。
「マキナ……」
「マイ、寒い?」
五十実の方は僅かに震えていたが、やがて落ち着きを取り戻す。マキナは五十実の震えを見抜いていたのか。当然五十実の震えは寒さから来るものではないだろう。マキナはその違いを理解しているのだろうか。どちらにしてもマキナの心は五十実に届いたようだ。
「ありがとう、マキナ。もう大丈夫だよ」
「そう」
でも、手は離さなかった。仲の良い家族のように手を繋いだままの五十実とマキナ。五十実の表情は柔らかなものだった。
空いているもう一つの方の手で胸を押さえ深呼吸をする五十実。そしてその手を俺の手と結ぶ。
「さっ、行きましょう。先輩、マキナ」
俺とマキナの手を取り五十実は歩き出した。先に行く五十実に遅れないよう歩幅を合わせる。俺たちが遅れたら、こいつが転んだ時に支えてやれないからな。
閑静な住宅街の一角。ぽっかりと空いた更地の前に俺たちは立つ。手入れも何もない雑草が蔓延るこの地には一つの家族の歴史が眠っていた。
「やっぱり……何もないですね」
ここは五十実の実家があった場所だという。しかし家は数年前に全焼してしまったため今は更地になっている。もう何も残っていない。家があったという影も形も残されていなかった。
「……ちょっとくらい、何かあっても良かったのに……」
俺は何も言わない。ただ側にいるだけ、そう決めたから。だからそっと五十実の肩を抱いた。それだけなのに五十実は小さく"ありがとうございます"と呟きこちらに身を預け目を瞑る。何を想い何を感じているのか、俺にはわからない。理解出来るとも思わない。
少しでもこの子に乗る荷重を肩代わり出来たら、どんなに楽だったんだろうな。だが現実の残酷さは今目の前に広がる殺風景が証明してしまっている。今はそれを受け止めるしかない。
五十実が通っていたという高校へ向かう。まだ本命と向き合う覚悟は出来ていないのか。それとも出来れば"偶然"出会いたかったのか。五十実は一つ一つ自分の過去を辿るように歩を進めていた。
他人から見たら逃げのようにも感じられるかもしれないが、彼女は逃げてなんかいない。ただ一歩一歩確実に前に進んでいるだけだ。ことを急ぐ必要なんて、どこにもありはしない。
「この道、毎日弥恵ちゃんと一緒に歩いてたんですよ」
商店街を抜けた先にある坂道。高校へと続く通学路なのだろうが、今は学生は冬休み期間中なため人通りは少なかった。
周囲を懐かしむように眺めながら進む五十実。数年ぶりだがあまり変わっていないと言う。変わるものもあれば変わらないものもある。そんな当たり前をこんなところで感じられるとはな。
そして坂を上がりきったあたりで五十実は歩みと止め、そして後ろに振り返る。
「この景色、変わらないなぁ」
あまり急な坂ではなかったが、上がりきってみると結構な高所まで来ていたようで、眼下に広がる町並みが小さく映る。積もり行く白から町の色が顔を覗かせていた。
「毎日下校の時見てたんですよ、この町。今は冬なので真っ白ですけど、季節によって全然違うんです」
だから、私はこの町が好き。
そう言ったのは嘘でもやせ我慢でもなく本当の気持ちなんだろうな。目の前の純白と身を引き締める寒さ。俺も嫌いではない。
「この町は……良い町だ。少なくとも俺はそう思うよ」
素直な気持ちだった。年末の書き入れ時なのか商店街は暖かな活気に包まれ、住宅街には片付け忘れたクリスマスの飾りと気の早い正月の飾りがあちこちにあり独特の茶目っ気を醸し出していた。都会とは違った空気があり、マキナも初めて見るものが多いのか興味をそそられているような場面がいくつかあった。
都会の喧騒とは違った優しい活気。俺はどこかそういうとこに憧れがあったのかもしれない。俺の近くにあるものはいつだって静かだったから。
「先輩?」
五十実の呼びかけにハッと意識を戻す。俺が気落ちしていてどうするんだ。五十実を支えるとか考えておきながらこれでは面目が立たないな。今は自分のことなんかどうでもいいんだ。俺より苦しい思いをしている奴が隣にいるんだから。
「何でもない。行くか」
「ええ、行きましょう」
再び五十実は俺とマキナの手を取る。その手は少しばかり冷たかった。だから俺はぎゅっと握り返す。こうすれば暖かくなるだろう。手も、心も。
「……先輩、女心わかってきたんじゃないですか?」
「……知るか」
女心なんて知らないが、五十実が嬉しそうにはにかんでいるのなら間違っていないだろう。
その光景を見たマキナは何を思ったか五十実の手を両手で包むように持った。
「マイの手、冷たい。こうすれば寒くない?」
どうやらマキナの方が一枚上手だったようだ。俺なんかよりマキナのほうがよっぽど人の気持ちをわかってやれているのかもしれない。俺もマキナを見習わなきゃな。
「ありがとマキナ。えへへ、両手あったか~」
気付けば五十実は笑顔になっていた。この町に来てから僅かに微笑むくらいでしかなかったが今はちゃんと笑えている。この散歩も存外良い影響を与えたようだ。
歩みを進めているうちに町とは違った活気の声が聞こえてくる。この年の瀬も近く、寒さに負けまいとした多くの声は若さと幼さを併せ持つ特有の物だった。
「……良かった、まだ開いてるみたいですね」
格子越しに見えるのは少しばかり古臭いが立派な校舎。そして多くの生徒たちが各々部活動に励む校庭だった。ここが、五十実がいた高校か。
学校と言えど年末年始は完全に施錠されている場合もある。幸いこの高校はまだ休業していない様子だった。遠目からでも白い息を吐きながら部活に精を出す生徒たちの真剣な顔が良く見える。全くこの寒い中ご苦労なことだ。
「先輩、そんな怪しい目つきで学生見てたら通報されちゃいますよ」
「む……」
目つき云々は置いといて確かに部外者があまり校内の生徒を見ていたらまずいか。マキナならともかく俺はもう高校生の中に入っていけるほど若くはない。傍から見たら変な大人が見ていると思われても不思議じゃないか。目つき云々は置いといて。
「忍び込むか?」
「いや駄目ですって。なにナチュラルに不法侵入しようとしてるんですか」
別にやましい意味があって言ったわけじゃないのだが、五十実に即答で止められてしまった。流石に事を急ぎ過ぎたようだ。
「五十実だけで行くのか?」
元在校生の五十実なら入っても問題はないだろう。もし呼び止められたら恩師に会いに来たとか言って誤魔化せばいい。それに本命に会いに行く前に何か情報が得られるかもしれない。
だが五十実はそれも良しとはしなかった。
「学校へは入りませんよ」
「良いのか?」
「ええ、私はここから見てるだけでいいんです。それにいつまでも逃げてるわけにはいけませんから……」
それは恐らく覚悟が決まった、という意味だろう。今日ここに来た本当の理由。それに会いに行くということだ。
「ここはもう私のいるべきところではありません。ここは私を過去に戻してしまう。私はもう、未来を見るって決めましたから」
五十実の視線の先には、たった今練習試合が終わったばかりの様子のサッカー部員が互いの健闘を称え合っていた。試合が終われば皆仲間か。青春の美しさなど俺には無縁だった。だからこそ俺にはこの光景は無性に眩しく見える。それは五十実も同じなのか。俺からしたら羨ましいなどとは思わないが。
失った過去はもう戻らない。だから前を見るしかない。ここはもう過ぎ去った場所だから。それなのにここに来たということは五十実は少なからず過去に未練があるのだろうか。
出来る事なら今からでも親友と二人仲良く登校して、勉強のわからない分野を教え合い、机を突き合わせ弁当のおかずを交換するようなそんなありきたりな平穏を今でも望んでいるのだろうか……。
来た道へ踵を返す五十実。恐らく本人もまだ気持ちの整理がついていないのだろう。だが時間は待ってくれない。もし今日のうちに本命に出会えなければ、もう一度この街まで来る勇気はもう出せないかもしれない。五十実にしたって一大決心だっただろう。決着は今日付けるべきだ。
俺たちがその場を去ろうと足を町の方へ戻した時、不意に校庭の格子の中からか細くも必死に誰かを呼び止めるような声が聞こえた。最初は空耳かと思ったがどうやら気のせいではないらしく、声のした方向に目を向けると一人の妙齢の女性が息を切らしながらこちらに向かってくるのが見える。その時五十実が微かに"あっ……"と息を飲んでした。
「はぁ……はぁ……。す、すみません突然呼び止めたりして……。あなた、五十実さん……ですよね?」
いきなり走り出して息も絶え絶えな様子の女性は五十実の顔をよく見るなり"やっぱり"と笑顔を作った。それとは対照的なのは五十実の表情だ。こちらもやっぱりといった表情だが、出来れば勘違いであってほしかった、そんな色の顔をしている。
「久しぶりですね、五十実さん……。顔色が宜しくないみたいですがちゃんとご飯食べてますか?」
「……安田先生……」
女性は息を整え姿勢を正す。パタパタと不器用な走り方を見せていた時は学生かとも思ったが、佇まいを直すとなかなかどうして落ち着いた大人な様子を醸し出している。そして五十実の反応を見るに五十実の過去を知る人物なのだろう。
安田先生と呼ばれた女性はここで待っていてくれと言い残し正門の方へと再び駆けていった。安田先生の背中が遠ざかるのを見送りながら五十実は一言であの先生の説明をする。
曰く五十実がこの学校へ通っていた時代からいる保健の先生らしい。そう言われると優し気で包容力のある様な笑みに納得がいく。しかしこの僅かだが雪が降るほどの気温の日に息を切らしながら走るのは保険の教師としてはどうなのだろうか。心臓に負担をかけていなければよいのだが。
少しして正門のある方向から再びこちらに走ってくる。余程急いできたのだろうか先生は俺たちの近くまで来ると肩で息をし出した。五十実は俺のコートの袖をつまむように掴んでいたが、それでも後ろに隠れるようなことはしなかった。
「はぁ……ふぅ。すみません、お見苦しいところをお見せしました」
「……いえ」
五十実の声に明るさはない。やはり自らの過去を知る人物と向き合うのはまだ怖いのか。
保険の先生と言えば、この人は五十実が語った過去にも登場した保険の先生と同じ人物だろう。五十実が財布を盗んだという濡れ衣を着せられた一件の被害者だ。五十実には罪はないとはいえ、顔を合わせるのは都合が悪いのか。
いや、違う。もっと根本的な問題だ。この物語が先に進んでしまうのが恐いんだ。五十実の過去を知る人物と出会えば否応なしにその後の話になる。五十実は今まで目を背けてきた悲劇の続きを見るのが、恐いんだ。
目を伏す五十実に対し安田先生は慈愛に満ちた優しい顔をしていた。ほっとしているような、安堵の表情。この人もまた五十実のことを心配していたのだろう。五十実の味方は当然のことながら俺達だけではなかった。
「また会えて嬉しいです五十実さん。ここまでいらしてくれて……」
「あ、あの……!」
五十実は先生の言葉を遮る。コートの袖を掴む左手にさらに力が入っているのを感じる。
「わ、私……その……、ここへは通りかかっただけですから……。だから……この辺で……」
そこから先は言わせない。俺は無言で五十実の手を握り返した。振り返りそうになる五十実の背中を押してやるのも俺の仕事だったから。
五十実はその意図を汲んだのかその先は言わなかった。ただ数瞬だけ沈黙が訪れる。
「仲が良いのですね、皆さん」
気付けばマキナも五十実の手を取っていた。二人から勇気を貰った五十実はそっと息を吐き前を向きなおす。
「ついてきてもらったんです、一人だと……まだ怖いから……」
その言葉に安田先生は人懐っこい笑顔を見せた。見る人を安心させるようなそんな柔らかい笑顔。俺は最初に会ったのがこの人で良かったと素直に思う。
安田先生には五十実がここに来た理由がわかっていたようだ。養護教諭は生徒との対話が大切な仕事となる。恐らく安田先生は今まで多くの生徒たちと会話を重ねてきたのだろう。その中には心に傷を負った生徒も少なくなかったはずだ。つまり現状、五十実にとって心強い味方だと言える。
そして少しの間他愛もない世間話を交える。核心へは触れず、触れられず。俺からも切り出すことはしなかった。やがて安田先生は五十実の目を見てこう転じる。
「五十実さん、風間さ……風間先生に会っていただけませんか?」
重苦しい言い方だった。そして五十実はそれに即答することは出来なかった。
安田先生は五十実がこの高校を離れた後もここにいた。だとしたら五十実の過去の登場人物がその後どうなったかもある程度は知っているはずだ。だのに、安田先生はその中から"風間先生"を選んだ。五十実の境遇を踏まえての段階かそれとも、私情か。そこまではわからない。
風間先生は五十実の過去の担任で、例の一件でも大きく関わっている。つまり安田先生は本命よりも先に、風間先生と会うことを優先させたのだ。
「……はい。わかりました」
五十実の返事は……思っていたよりも早かった。答えは決まっていてもすぐに口には出来なかった、そんな様子に思える。
安田先生は"でしたら"と俺たちを保健室へと案内する。本来は部外者はあまり校内へ入れるわけにはいかないのだが、今回は先生の客として特別に俺とマキナも中に入れてくれた。元々既に冬休み期間中で先生も休みだったのだが、今日はサッカー部の練習試合の応援に来ていたという。先生曰く、普段からよく保健室から練習風景を眺めていたからほっとけなくなったらしい。みんな可愛い生徒達なのだと。
保健室へと通された俺たちは各々開いている椅子に座るように促された。俺達が座るや否や慣れた手つきで人数分のお茶を入れる先生。その表情は何故かどこか慈しむようなものだった。
ここへ向かう最中に安田先生は風間先生に連絡をしていた。その会話の内容はあまりよく聞き取れなかったが、"それは……風間さんにお任せします"という一言がやけに印象に残っていた。まるで何かを恐れるような、そんな言い回しだった。
「ごめんなさいねこんなところで。本来なら応接室を使うべきなのですが一応学校側へは内緒で招いているのでここでお許しください。一応清潔に保っているつもりなのですがご容赦くださいね」
「いえ、お構いなく」
そこまで恐縮されるとこちらも定型文しか出てこなくなる。マキナもその場の空気に当てられてかちょこんと姿勢よく座っていた。
「二人は……五十実さんのお友達ですか?」
「うん、そう」
「……ええ、まぁ」
なんて答えるか一瞬だけ悩んだが悩むほどのことでもなかったな。少なくともマキナなら友達かと聞かれれば迷うことなくそうだと答える。ならば俺が迷う必要もない。俺は付け加えるように続ける。
「同じ大学の先輩ですよ。僕は白羽と言います。こっちは妹のマキナです」
ということにした。マキナの本当の素性を他人に明かす必要はない。結局のところ似てようが似てまいが妹ということにしたほうが面倒が無いのだ。
だが、安田先生の興味は俺の苗字の方に向いた。
「白羽……さん?」
失念していた。この人たちにとって白羽とはこの高校の元生徒である人物を彷彿とさせる。まるで五十実がわざと同じ苗字を持つ人間を連れてきたように思われてしまうかもしれない。だから俺は咄嗟に"偶然です"と付け足した。五十実についてきた以上事情は知っている、という意味も込めて。
偶然であるという言葉を耳にした安田先生は尚も難しい顔をしていた。
「そうでしたか……。失礼ですがお年をお聞きしても?」
特に隠すようなことでもないので正直に答える。すると先生の顔はより一層難色を示していた。何故だ、どこにそんな顔を見せる要因がある。数は少ないとはいえ偶然苗字が同じになることはないとは言えないはずだ。
不意に俺のコートの裾が引かれる。その先には困ったような笑顔を見せる五十実がいた。
「……先輩。その……私言ってなかったことがあるんです」
言い辛そうな素振りを見せる。何かを隠しきれなくなった、そんな姿に少しばかりの不安を覚える。なにか、なにか事態をさらに大きく揺るがすようなことが……?
「私……実は先輩と同い年なんですよ」
はぁ。
五十実の口から出た新事実は俺の予想を大きく外していた。
五十実と俺が同い年。つまり。
「私高校を途中でやめちゃってるので大学受験したのが二年ほど遅れてるんですよ。なので学年は先輩の方が二年上ですけど年齢は同じなんです」
五十実は少し気恥ずかしそうな様子で頬をポリポリと掻いていた。
「先輩。もうちょっといいリアクションしてくれてもいいんじゃないですか?」
俺の反応が気に入らなかったのか五十実は少し膨れていた。
要約すると五十実はこの高校を中退してその後通信制の高校に入ったがそれまでの間に一年以上のブランクがあったらしい。そして一から通信制の高校で勉強し直して今の大学に合格したという。要は完全に年下だと思っていたが意外にも五十実は俺と年齢が同じだった。それだけである。
「いやぁ、いつ言おうか悩んでたんですけどね? もし先輩が年下好きで同い年以上はおばさんとか言うタイプだったらどうしようとか思ってたら言いそびれちゃってまして……。引きました?」
「どうでもいいわ」
いやまじで。
というか大学生にしては子供っぽいとまで思っていたのにまさかの同い年とは。さっきまでの緊張感が一気に弛緩して脱力感が半端ない。まぁ一部の人間からしたら大事な点なのかもしれないが、俺からしたら後輩が同い年だったなんて心底どうでもよかった。
だが、それは同時に五十実の人生の壮絶さを裏付ける事実でもある。そう思うと軽視はできない。それに五十実と俺が同い年だったということはもう一つわかる点がある。もう一人、俺と同じ年齢ということに意味がある人物がいるのだ。
「……」
「あれ、先輩やっぱりショックでした? すみません私が先輩好みの年下女子じゃなくて……。でも心は名実ともにいつでも先輩の後輩ですから! 元気出してください!」
「いつ俺が年下好きだっつったよ。勝手にねつ造するな」
なんで俺の方が元気付けられてるんだ。
俺は考えていた。俺は五十実の過去を聞いた時、一つの可能性を捨てていた。誰もが考えるだろう一つのIf。俺はそれを否定する証拠を知っていた。
だがここにきてその証拠が崩され、一つの可能性が有り得てしまう。俺はそれを告げるべきか。たった一つ聞けばそれがほぼ確信に変わる。だが、俺はそれを知るべきなのか。真実を求めるべきなのか。わからない。
俺が意を決して五十実に声をかけようとしたとき、保健室の扉が突然開く。不意を突かれ思わずそちらを見ると一人の凛々しい女性が立っていた。話を聞いて想像していた女性像と合致する。この人物が間違いなく、そうなのだろう。
「……久しぶりだな、五十実」
凛とした目を細め、五十実と会うことを渇望していたかのようにほうっと息を吐く女性。この人が、風間先生だ。
五十実と風間先生と安田先生、そして俺とマキナは一つの長机を囲むように座る。安田先生は既に湯気の立っていない湯飲みを回収し再び新しいお茶を入れ皆に手渡した。
「まずは言わせてくれ五十実。本当にすまなかった」
唐突に頭を深々と下げる風間先生。その姿を見て慌てて五十実が制する。
「や、やめてください風間先生……。先生が謝ることなんてないですよ……」
五十実の言葉は弱い。そんな言葉じゃ先生の哀情を抑えることは出来なかった。
「いや、謝らせてほしい。それが例え君のためにならなくても、私は君に……君たちに謝罪をしなければならないんだ……。私は君たちを……守ることが出来なかったのだから……」
風間先生は自責の念に駆られていた。彼女もまたこの一件で深い傷を負った人のうちの一人なのだ。
五十実は口を挟むことなく聞く。きっと先生の気持ちを理解したのだろう。これは風間先生の贖罪だから。それを制するのは酷な話だった。
「私は君を守ると約束した。だが現実はどうだ。私は君に何をしてやれた? 私は君を何から守れた? 実際は……何も出来なかった。大きなことを言っておいて、偉そうなことを言っておいて、私は何も出来なかったんだ。結果君たちは不幸になった……。許してくれなんて言わない。ただ、五十実……」
風間先生は五十実の目を見る。なんて、なんて悲しい眼をしているんだ。
「君には彼女たちを恨んでほしくないんだ」
五十実の手を取り懇願する。いつの間にか風間先生の目には一筋の涙があった。何がそこまで先生を駆り立てるのだろう。不幸になった少女は、一人じゃないのか。
「五十実は知らないのだろう。私が、全て教えるよ。彼女たちの真実を……。それが彼女たちへの手向けとなる」
その時、聞き捨てならない単語が聞こえた。
彼女たちへの手向け……だと? そんな言葉、生きている人間に対しては使わない。五十実もその言葉に疑問を持ったのか目を丸くしていた。そして恐る恐る聞く。
「先生……私たちはこの後弥恵ちゃんに会いに行こうと思ってます。今も変わらず弥恵ちゃんの家に住んでいるんですか? 教えてください先生……!」
言葉尻が強くなる。手向けなんて言葉が聞こえたら焦るのも仕方ないだろう。しかし、その後先生の口から語られた言葉は俺たちの焦心を裏付ける結果となった。
「それは出来ない……。出来ないんだよ五十実」
聞きたくない、その続きは……聞きたくない。
「五十実……君には知る権利が……いや、知る必要がある」
なんで、どうしてそんなにも悲しげに言うんだ。
「白羽は……、白羽弥恵はもう」
やめろ。それ以上は言うな。やめてくれ……!
「この世にはいないんだ」
その一言は俺達に深い絶望を叩きつける。ああ、どうしてこんなにもこの世界は
悲しみばかりで出来ているのだろう。




