第9話 本陣のエアコン係
――そなたを、抱いてもよいか。
薄暗い燭台の灯りの下、古式ゆかしい言葉遣いのその人が、私にそう囁いた。いや、正確には、私にではない。私は、この夢の中では、誰にも見えない透明な観測者に過ぎない。だから、あの言葉は、傍らに佇む、あの無口な副団長に向けられたものだ。
「団長……そのような戯れは、いけません」
副団長の声は、いつもの無表情からは想像もつかないほど、震えていた。拒みながらも、彼の指先は、団長の袖口をきつく握りしめている。ああ、これだ。これこそが、私が求めていたやつだ。
「戯れなどではない。ずっと、そなたを見てきた。戦場で、そなたが俺を庇うたびに、俺の心臓がどれほど乱れるか、そなたは知らぬだろう」
団長の指先が、副団長の頬を、そっとなぞる。副団長は目を伏せ、拒む言葉とは裏腹に、その手を振り払おうとしない。むしろ、頬をそっと押し付けるように、身を寄せていく。
「立場が……私たちの立場が、これを許しません」
「立場など、知ったことか。この命、そなたに救われた日から、とうに俺のものではない」
二人の間の距離が、ゆっくりと、しかし確実に縮まっていく。私は、透明な観測者のくせに、息をするのも忘れて、その一部始終を見守っていた。燭台の灯りが揺れて、二人の輪郭を、金色に縁取っていく。
――尊い。尊すぎる。ここでカメラを止めないで。もっと。もっと見せて。
副団長の睫毛が震え、団長の唇が、その額に、そっと落とされる。副団長の肩が、小さく跳ねた。禁断の、それでいて誰よりも真摯な、二人だけの時間。私はもう、画面の外から拍手を送りたい気持ちでいっぱいだった。もっと、もっとこの時間が続けばいいのに。永遠にここにいたい。ここに骨を埋めてもいい。
――マイねーちゃーん! 冷えピタくれよー!
「……ふ、あ?」
ぼやけた視界に飛び込んできたのは、燭台の灯りではなく、いつもの見慣れた天井だった。口の端から垂れた涎を、慌てて手の甲で拭う。
――夢。夢だった。ああ、夢だった……。
しばらくの間、私は布団の中で、無様に悶えていた。あと少しだったのに。あと、ほんの少しで、核心に触れるところだったのに。夢とは、いつだって一番いいところで覚めるように、意地悪くできている。
――帰りたい。あの燭台の下に、帰りたい。
現実逃避の権化のような呟きを漏らしつつ、それでも体は正直で、私は日課の身支度を始めるべく、のろのろと布団から這い出した。今日は討伐の本番。夢の余韻に浸っている場合ではないと、頭ではわかっているのに、未練がましく、瞼の裏に焼き付いたあの燭台の灯りを、何度も何度も反芻してしまう。
――しっかりしろ、私。今日は、本番なんだから。
自分にそう言い聞かせながら、それでも道すがら、あの続きを妄想しないとは、口が裂けても言えなかった。
翌朝、まだ日も昇りきらないうちから、私は騎士団の一行とともに雑木林へと向かった。
現地に着いてまず目に飛び込んできたのは、想像していたよりもずっと物々しい光景だった。木々は依然としてくすぶり、地面のあちこちから陽炎が立ち上っている。そしてその奥、林の中心部には、あの真っ赤な塊が――いや、一匹どころではない。二回りほど大きくなった個体を筆頭に、小さな塊がいくつも蠢いているのが見えた。
「増えて、ませんか、あれ……」
思わず呟いた私の声に、隣にいた軍師枠の男性――アダムさんというらしい――が、渋い顔で頷いた。
「魔物は、周囲の熱を吸収して増殖することがある。この暑さが、奴らにとって都合のいい環境になっているのだろう」
――世界がどんどん暑くなってるって、こういう悪循環も生んでるんだ。
のんびり考えている場合ではないとわかってはいたが、頭の片隅で妙に納得してしまった。行商人が話していた「隣村の家畜が暑さで倒れる」話も、もしかしたらこういう小さな魔物の増殖と無関係じゃないのかもしれない。
「聖女殿は、この後方の陣にて待機を。負傷者が出次第、対応を頼む」
ヒース団長にそう告げられ、私は林から少し離れた、簡易的な天幕が張られた一角に案内された。すでに何人かの騎士が、出撃前の準備で慌ただしく動き回っている。
「よろしくお願いします、聖女様」
一人の若い騎士が、まだ武器を握ったまま、私にぺこりと頭を下げた。よく見ると、その手にした剣の柄が、うっすらと熱で歪んでいる。
「柄が、もうこんなに……」
「近づいただけで、これです。参りますよ、まったく」
苦笑いを浮かべる彼に、私は慌てて薬草籠から冷やした草を取り出した。冷たい葉を、彼の剣の柄に何重にも巻きつけていく。
「うわ、冷たい……! 助かります!」
ひんやりとした感触に、彼の表情がぱっと明るくなる。それを見て、私も少しほっとした。
――よし、これなら、私にもできる。
それからというもの、私は文字通り、休む間もなく動き回ることになった。
「聖女様! こっちの盾も冷やしてもらえますか!」 「水筒代わりにできますかね、この草!」 「俺の首元にも一枚もらえます? もう蒸れて死にそう」 「聖女様、俺の分も! いや俺が先だったろ!」 「お前この間ももらってただろうが!」
次から次へと押し寄せる要望に応えて、私は薬草籠から冷えた草を取り出しては配って回った。剣に、盾に、鎧の隙間に、首筋に、額に。誰も彼もが、あの摂氏マイナス二度の冷たさを求めて列をなしていく。まるで真夏の縁日で、かき氷屋台に群がる子どもたちのような騒ぎだった。
――これじゃあまるで。
脳裏に浮かんだのは、前世の記憶にある、真夏の炎天下で工事現場に配られる冷却タオルの光景だった。あるいは、体育館の隅で扇風機の風を独り占めしようと群がる小学生たちの姿。
――私、完全に、エアコン係じゃん。
林の奥では、ヒース団長を先頭にした精鋭たちが、あの熱の塊を相手に一進一退の攻防を繰り広げている、はずだった。轟音と、地響きと、時折聞こえてくる叫び声。傍から聞けば、さぞかし緊迫した戦場なのだろう。
でも、私のいるこの後方の陣は、なんというか、驚くほど平和だった。
「聖女様のおかげで生き返りましたわ~」 「ちょっと待って、俺が先に並んでたのに!」 「いや俺の方が先だし、お前さっきもらっただろ」 「聖女様、これって顔にも使っていいんですか? 眉毛の上のあたりとか」 「そこまでいくとただの美容ですよ先輩」
いい歳をした屈強な男たちが、たかが草一枚を巡って、村の悪ガキどもと大差ないレベルの喧嘩を繰り広げている。これが本当に、天下の王国騎士団なのだろうか。前世で見た、精鋭部隊が颯爽と戦場を駆け抜けるような映画のイメージとは、いささかかけ離れている気がする。
――緊張感、どこ行った。
内心で盛大に突っ込みを入れながらも、私は淡々と手を動かし続けた。草を摘み、冷やし、配る。摘み、冷やし、配る。単純作業だからこそ、逆に妙な安心感すらあった。手を動かしている間は、討伐の行方に対する不安を、少しだけ忘れていられる気がした。
「聖女様は、本当にすごいですね」
休憩中の一人の騎士が、しみじみとそう言ってくれた。
「この暑さの中、こうやって定期的に冷やしてもらえるだけで、全然疲労が違うんです。地味だけど、これがないと、俺たち多分もっと早くバテてます」
「地味……ですよね、やっぱり」
「あ、いや、悪い意味じゃなくて!」
慌てて訂正する彼に、私は思わず苦笑した。地味、という評価そのものには、もう慣れきっている。ただ、今日はその言葉が、いつもより少しだけ、優しい響きに聞こえた。
――地味でも、役に立つ。それでいいじゃない。
そんなことを考えながら、次の草を取り出そうとした、その時だった。
「――退避! 全員、退避しろ――!!」
林の奥から響いてきた、ヒース団長の切迫した怒号に、後方の陣の空気が一瞬で凍りついた。
続けて、これまでとは比べ物にならないほどの、腹の底に響くような轟音。
林の方角から、真っ赤な閃光のようなものが、夕焼けよりもなお赤く、空へと立ち昇っていくのが見えた。
「な、なに、今の……」
誰かが呆然と呟いた声を最後に、後方の陣は一気に騒然となった。さっきまでの、草一枚を巡る呑気な言い争いが、まるで嘘のように、あたりから消え去っていく。
その数分後――泥と煤にまみれた騎士たちが、次々と、後方の陣へと運び込まれてくることになる。
私の呑気な「エアコン係」の日常が、音を立てて崩れ去った瞬間だった。




