第11話 危機をしのぐ
「死なないで……! お願い、死なないで……!」
ヒース団長の手を握りしめたまま、私は半ば錯乱状態でそう繰り返していた。もう、冷静な思考なんて、どこかに吹き飛んでしまっていた。
薬草籠は空っぽ。手元に残っているのは、さっき握りしめていた、もう効果の薄くなりかけた雑草が数本だけ。それでも、何もしないよりはましだと、私は震える手でその草をかき集め、彼の周りに、ばら撒くように投げつけた。
「効いて……! お願いだから、効いて……!!」
もう、狙いも何もない。ただがむしゃらに、あちこちに、握れるだけの草を放り投げていく。理性なんてとうに機能していない。ただ、目の前で苦しんでいる人を、少しでも楽にしたい。その一心だけだった。
――お願い。もっと、もっと冷やせたら。この人を、助けられるなら。
喉の奥から、悲鳴とも祈りともつかない声が漏れる。胸の奥が、焼けつくように熱い。皮肉なことに、冷却の祝福を持つ私自身が、今、誰よりも熱に浮かされているみたいだった。視界の端が、ちかちかと点滅している。呼吸が浅い。もう、何時間も走り回っていたことにすら、今更気づく。
その瞬間。
――ぱき、ぱき、ぱきん。
乾いた地面から、氷の張るような音が響いた。
最初は、耳の錯覚かと思った。でも、音は止まらない。むしろ、少しずつ、少しずつ、大きくなっていく。
驚いて視線を落とすと、私が投げ捨てた雑草の周りから、白い霜のようなものが、地面を這うように広がっていくのが見えた。それはあっという間に、投げた草の一本一本を中心にして輪を描き、隣り合う輪と輪が繋がり、みるみるうちに、後方の陣一帯を覆っていく。
まるで、目に見えない誰かが、透明な絵筆で白い模様を描いているみたいだった。地面から立ち上る白い靄が、私の膝のあたりまで這い上がってきて、ひやりとした感触が肌を撫でる。
「――なんだ、これ……」
誰かが呆然と呟く声が聞こえた。
地面が凍えるように白く染まり、うだるようだった空気が、みるみるうちに冷たく澄んでいく。焼けただれた大地から立ち上っていた陽炎が、まるで水をかけられた炎のように、すうっと消えていった。
――え。
私自身が、いちばん状況についていけていなかった。何が起きたのか、まるでわからない。頭の芯が痺れたように熱くて、それでいて体の外側からは、どんどん冷気が押し寄せてくる。まるで、自分の内側と外側が、正反対の温度に引き裂かれているみたいな感覚だった。ただ、握っていたヒース団長の腕から伝わってくる熱が、少しずつ、少しずつ、和らいでいくのだけは、はっきりと感じ取れた。
周囲の負傷者たちからも、次々と安堵の声が漏れ始める。
「……熱が、引いてる」 「痛みが、和らいで……」 「なんだこの涼しさ、天国か……?」
誰かの間の抜けた呟きに、張り詰めていた空気が、わずかに緩んだ。
私はといえば、へなへなとその場に座り込んでいた。全身から力が抜けて、指一本動かすのもやっとだった。頭が重く、視界がぼんやりとかすんでいる。耳鳴りがして、周りの声が水の中で聞くように遠くこもって聞こえた。
(今の、なに……私が、やったの……?)
自分でも、まったく理解できていなかった。ただ無我夢中で草を投げただけ。それが、どうしてこんな大規模な現象に繋がったのか、皆目見当がつかない。もう一度やってみろと言われても、絶対に無理だ、と直感的にわかった。あれは、狙って起こしたものじゃない。ただ、必死のパッチで、たまたま――としか言いようがなかった。
支部からの応援が到着するまでには、まだしばらく時間がかかりそうだった。
その間、後方の陣は、なんとも奇妙な空気に包まれていた。
「……なあ、これ、めちゃくちゃ涼しくない?」 「地獄みたいな暑さだったのが、噓みたいだ……」 「もう帰りたくない。この霜の上で暮らしたい」
命に関わる重傷を負った者たちを除けば、軽傷で済んだ騎士たちの間からは、そんな不謹慎とも取れる呟きが、ぽつぽつと漏れ始めていた。事態の深刻さと、この異常な快適さとの落差に、頭がついていっていないのは、私だけではなかったらしい。焼けただれていた大地が真っ白な霜に覆われ、あたりには、ちょっとした避暑地のような涼風すら吹いている。
「聖女様! お手伝いさせてください!」
声をかけてきたのは、あの若い新人騎士――たしか、村に到着した日、誰得OTP選手権で「新人騎士×団長」枠にノミネートしていた、あの子だった。無事だったのか、と安堵する間もなく、彼は目を輝かせながら私の隣に膝をついた。
「聖女様のお力になりたいんです! 何でも言いつけてください!」
まっすぐな瞳で見つめられ、疲弊しきっていたはずの私の頭の片隅で、いつもの妄想担当が、こっそり顔を出す。
(この子と、あの無口な副団長さん……いや、待って、今それどころじゃ……)
我ながら、こんな状況でも供給を見出そうとする自分の業の深さに、少し呆れた。慌てて雑念を振り払い、私は彼に、負傷者たちの包帯を巻く手伝いを頼んだ。
そうして、無我夢中で手を動かし続けているうちに、私は気づけば、ヒース団長の傍らに戻ってきていた。
まだ意識のない彼の腕に、私は震える手で包帯を巻いていく。ぐるり、ぐるりと、丁寧に、それでいて手早く。焼けた肌に布が触れるたび、彼が微かに眉をひそめるのがわかって、そのたびに私の胸が、きゅっと締めつけられた。
「……お願いだから、目を覚まして」
誰に聞かれるでもなく、私はそう呟いていた。命の恩人だのなんだの、そんな大層な言葉はまだよくわからない。ただ、この人の胸が、これからも上下し続けてくれることだけを、ひたすらに願っていた。
急ぎ駆けつけた癒しの聖人たちが、地面に横たわる負傷者たちを一人ずつ治療し始めたのは、それからしばらく経った後のことだった。冷やされて進行が食い止められていたおかげか、誰の容態も、想定していたより落ち着いていると、聖人の一人が驚いた様子で話していた。
私は、その様子を、ただぼんやりと眺めていることしかできなかった。指一本、もう持ち上がらない。
「――マイ」
名前を呼ばれて振り返った瞬間、私の思考は、ものの見事に停止した。
包帯だらけの体を無理に起こそうとしている、ヒース団長。その姿を見た瞬間、なぜだか今朝方見た、あの夢の残像が脳裏をよぎった。寝不足のせいだろうか。過労のせいだろうか。それとも、これは都合のいい現実逃避というやつだろうか。
――そう、これはきっと夢だ。私はまだ、あの布団の中で寝ているに違いない。討伐も、火傷も、あの謎の氷の現象も、全部、寝坊した私の脳が見せている、やたら長くて疲れる悪夢なのだ。そうに決まっている。
「無理しないでください、団長! まだ、寝てないと……!」
「いい。それより……」
彼は、痛みに顔をしかめながらも、まっすぐに私を見つめてきた。
「聞いた。俺を、そして仲間たちを救ってくれたのは、貴殿の力だと」
「い、いえ、あの、あれは、私が意図してやったわけじゃなくて、たまたま……!」
「謙遜する必要はない」
彼は、私の手をそっと、両手で包み込んだ。焼けた肌はまだ痛々しかったが、その手つきは、驚くほど優しかった。
「貴殿は、俺の命の恩人だ。仲間たちの、命の恩人だ。この恩は、生涯かけて返す」
――え、ちょっと、待って。話が大きすぎない?
「あ、あの、そんな、大袈裟な……」
「大袈裟なものか」
碧い瞳が、まっすぐに私を捉える。その眼差しの強さに、私は思わず息を呑んだ。
「マイ。……そなたを、なんとお呼びすればいいものか、俺は言葉に迷っている。だが」
彼は、まるで何か重大な決意を固めるように、一度深く息を吸い込んだ。
「そなたの瞳は、あの氷の靄と同じ色をしている。命の恩人にして、俺の心を奪った人――氷の君と、そう呼ばせてもらいたい」
「は」
一瞬、聞き間違いかと思った。
――いや、聞き間違いに決まっている。これは夢の続きだ。私はまだ寝ている。今にきっと、あの燭台の灯りに戻れるはずだ。
「な、なんて……?」
「氷の君。そなたを、そう呼びたい。異論は認めない」
「……はい、はい、わかりました、団長。それはとても素敵な夢ですね。私、そろそろ起きたほうがいいかもしれません」
「夢ではない」
彼は、私の手を握る力を、さらに強めた。焼けた肌に触れているはずなのに、その力強さは、少しも衰えていない。
「これは、現実だ。マイ、そなたは今、確かに、俺の目の前にいる」
「いえ、あの、現実にしては色々おかしいので、やっぱり夢だと思うんですよね。私、討伐に来たりしないタイプなので……」
「マイ」
「はい」
「現実だ」
「そんな真顔で言われましても……」
どこまでも真剣な眼差しに射抜かれて、私はようやく、これが夢でも幻でもなく、紛れもない現実だと、しぶしぶ認めざるを得なくなった。認めたくなかった。認めたら最後、この状況に、正面から向き合わなければならなくなる。
――いや、認めてください、じゃなくて、私が認めたくなかったんです……。あと、こういうとき、いちいち言い回しが古めかしいのは、なんでですか団長。
あまりの急展開に、頭がついていかない。周りにいた騎士たちも、心なしか生温かい目でこちらを見ている気がする。誰かが小声で「団長、ついに……」と呟いているのが聞こえた気がしたが、聞かなかったことにした。
「団長、お気持ちはありがたいのですが、その、私、そんな大した者では……」
「謙虚なところも、実に良い」
「話聞いてます!?」
もはや会話が成立していない。ヒース団長は、包帯だらけの体で、それでもなお私の手を離そうとせず、うっとりとした表情でこちらを見つめ続けている。
(な、なんか、スイッチが入ってしまった感じがする……!)
誰得OTPを妄想していたはずの私が、まさか自分が、こんな溺愛スイッチの直撃を受ける側に回るなんて、想定していなかった。
冷えていく大地とは裏腹に、私の顔は、なぜだかどんどん熱くなっていくのを感じていた。




