ヒトリシズカの滴下
空もだんだん紫から青色に変化していく、汐は残りのトーストを焼いてくれた。すべて完璧な断面だ。焦げはなく、かといって焼けていないわけでもない。いい塩梅である。夏樹はレタスとスモークハムを皿にトッピングし、ティーポットを使い紅茶を入れた。
「夏。紅茶ってどんな味なの。」
「なんか渋みがあるけど俺はおいしいって感じる味だぞ。」
夏樹は一つのティーカップに紅茶を注ぎ、食卓に置く。
「それ夏の感性じゃん。」
汐は笑いながら、夏樹の用意したティーカップを右手で取り、カップの淵に唇をつけた。ごくっと汐の喉が鳴る。汐は眉をひそめ、口をへの字にしている。少なくともおいしいとは感じてなさそうな顔だ。
「なんか独特な味だね。やっぱ私は麦茶のほうがあってるわ。」
そういいながらたった一口しか飲んでいない紅茶をほっぽり出して新しく麦茶を別のグラスに入れる。おいおい。このティーカップ内の紅茶どうするんだ。そもそも夏樹のしか入れていないためこの紅茶を飲むしかないのである。夏樹は左手でカップを取り、残っている紅茶をすべて飲み干した。おいしい。やっぱこの味だよなー。ふと横を見ると汐がにやにやしながらこちらを見ている。
「どうですかー?間接キスした気分は?」
「別に、なんとも。正直お前残り飲む気なかっただろ?もったいないからな。だから飲んだ。」
言葉だけにしてみればすごく冷静に見えるが、夏樹の体温は今普段よりも1度は上昇しているだろう。夏樹はフレンチトーストと皿にのっているレタスとハムを食らい、カットされたメロンを胃袋に放り込んだ。その時間わずか1分。
「じゃ、出るから。片づけだけよろしく。」
夏樹は言い終わらないうちにリビングから飛び出て玄関で靴のかかとを踏みながらドアを開けた。
「え、ちょ。な…っ。」
汐が何を言いかけたのかはわからないが、まあ些細なことだろう。夏樹は神社に向けて全速力で走った。
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「はぁ、はぁ。」
神社の石段の前で両膝に両腕をおいて前かがみになる。朝食べたフレンチトーストやらもろもろをはきそうだ。なぜわざわざ全速力で走ったのか。理由は単純。早くあの魅惑的な音を聞きたいからである。スマホの時計は長針が8を短針が8と9の間をそれぞれ指している。夏樹は石段を1段飛ばしで上がっていく。石段を上がるたびに夏樹の心臓は跳ね上がる。頂上まで登った。だが誰もいない。朝来たように古臭い拝殿がただそこに存在している。鈴華はいない。すでにいると思っていたがいないとわかると少し残念である。鈴華がいない以上ここにあまり用はない。拝殿に腰かけるとなんかデジャブだなと感じた。そもそも何時に集合かを決め忘れていたのである。鈴華は夏樹の連絡先を知っているのだが夏樹は鈴華の番号を知らないのである。(連絡先と住所をメモに書いて残したから。)とりあえず待つとしよう。夏樹はスマホを開きソシャゲを始める。緑の傘に囲まれているが電波は余裕で拾ってくれるため拝殿の中でも快適にゲームができる。
一時間は過ぎただろう。汗ばんでくる時間帯だ。鈴華はまだ来ない。メールを送りたい。あたりでは蝉のオーケストラである。うるさいといってもかき消されるような爆音。何を言っても蝉どころか夏樹と同じ人間という生物ですら聞き取れないだろう。周りはうるさいのに自分が沈黙しているような、そんな感覚だ。暑すぎる。あまり清潔ではないことはわかっているが拝殿に寝転がる。近くのコンビニでまたもやアイスが欲しくなる。今回は棒アイスがいいなと感じる。うるささと暑さのフルコンボで夏樹は死にそうでなのだ。しかしそんな暑さをものともしないといった感じに、鈴華がやってきた。
「夏樹さん。来てたんですね。」
鈴華は寝転んでいる夏樹の顔を覗くようにして見下す。
「毎日来るって約束したからな。」
少し照れくさそうな顔をした鈴華はレモン色と白のボーダーのTシャツの上にクリーム色の丈の長いキャミワンピを着て、さらにその上から長そでの青シャツをラフな感じに羽織っている。肩にはバイオリンが入っているだろう、翡翠色のバイオリンケース。そして何より目立つ白銀の髪は後ろで一つに結われている。かわいい。夏らしくて清楚感のある。この服たちは鈴華に着られるためだけに作られたといっても過言ではない。そのくらい鈴華は完璧に着こなしていた。
「じゃあ、早速演奏しようかな。」
鈴華はバイオリンを取り出し左手にバイオリンを、右手に弓を握る。彼女はバイオリンを弾き始めた。さっきまで叢雲のようだった蝉のオーケストラもいつの間にか鳴りやんでいる。まるで彼女の演奏を聴いているみたいに。曲目はサン=サーンスの白鳥。親しみやすく、クラシックを聴き始めるのなら、ぜひおすすめしたい一曲だ。鈴華は弓を動かす。静かで湖面をなでるような旋律が生み出される。夏樹は目を閉じた。雅で可憐で整った音。湖畔で白鳥を見る妄想をする。深い深い青。それは彼女の瞳と同じようだ。白鳥。それは彼女の髪のように優艶だ。心が休まる音。でも裏には何か別のものを隠しているようなミステリアスな音。一音の狂いもない。時計の針のように刻々と音を空間に刻み込む。譜面通り。どこでも聞けるような演奏っていうのが認めない奴らの意見だろう。簡単な話、調べれば曲自体は聞ける。鈴華の場合、何も変わらない。人間らしさが音にない。譜面に音符があるから音を鳴らす。よくいえば完璧。悪く言えば機械的で人間味のない演奏。だから多くの人が鈴華が賞を取るのが嫌なのだろう。ただ楽譜の指示通りにひいているだけの手下が評価されるのが気に食わないのだろう。特に音楽に感動やら、興奮やらの感情の激動を求める若い層にとって鈴華の演奏はただすごいで終わるだけの代物なのだ。しかしこれは大体の人の意見。正直鈴華の音は脳を肝臓を心臓を膵臓を体全体を貫くような白い音色である。夏樹は何かに煮付けられているような感覚に陥る。目を閉じ、手をなるがままに自然に預け、舌を巻き、息を止める。全神経を聴覚に集中させる。音はうねる。フィナーレへむけて。どれだけ音を馬鹿にされても誰にも認められなくても、彼女は彼女の弦は美しい。曲が終わった。背筋がぞくぞくする。彼女は屈託のない笑顔で夏樹のほうを向いた。汗をかいているのになぜかまだ長そでを羽織っている。
「どうでした?」
白いハイビスカスは湖中に落ちた流木に手を差し伸べた。




