キンセンカの笑顔
夏樹は現実に呼び戻された。冷たい感情の湖中の中から這い出る。
「よかった。すっごく良かった。なんか言葉にできない。」
「何それ。」
鈴華は笑った。クスクスといった感じだ。感想の受けとしては悪くなかったのだろう。たぶん。鈴華はまっすぐ夏樹を見つめてくる。
「いやなんか全身が冷たい湖に使っている的な、ほんと論文にしようとしてもこの音のすばらしさを説明することは不可能だと思うよ。」
「ありがと。」
鈴華はにっこりと笑顔を見せてきた。かわいい。無邪気すぎるその笑顔は破壊力抜群ですぜぇ鈴華の姉御。鈴華はバイオリンをケースに入れた。そして一つ縛りにしていた髪をほどく。鈴華は
「ごめん。ちょっと持っててもらっていいですか。」
そういって鈴華は髪ゴムを夏樹に渡してくる。黒いゴムに青い球が一つついている。
「きれいだね。この髪ゴム。」
「あ、わかります?この髪ゴム妹の手作りでこの青い球はホタルガラスといって沖縄の物なんですよ。」
鈴華はそう答えながら上に羽織っていた青シャツを脱ぎ、きれいにたたむ。
「演奏すると汗かいちゃって。」
手でぱたぱたと自身を仰ぐ。キャミワンピの下のロンティーの袖が彼女の手首で揺れる。彼女はバイオリンケースを持った。
「ねぇ。ちょっと付き合ってくれませんか。」
「ふぇ?」
「ここのレストラ…」
考えるより先に声がでた。まだ鈴華の言葉を咀嚼できていない。たぶん熱いものに触れた時に「熱」ってなって無意識に手を放しちゃう奴。あれと同じ感じ。なんていうんだっけ。そうだ「反射」だ。そんな感じに声が出ちゃったなー。夏樹は咀嚼するのをあきらめた。
「あのー。聞いてます?」
「は、はい。聞いていますよ。聞いてますとも。」
「聞いてませんでしたよね。」
鈴華のまっすぐな指摘が胸を突き刺し、そしてそのまま突き抜けていく。
「は…い。聞いていませんでした。もう一度言ってもらえませんか。」
「5分くらい走ったところにいい店あるんですけど一緒に行きませんかって話です。」
鈴華は少しムッとしながらそう言った。話を聞いていなかったことがご立腹らしい。
「一曲しかやらないの?」
「毎日やるから、そんな毎日何曲もできないですよ。覚えないといけませんし。」
「なるほどね。」
覚えなくちゃいけないのか。確かにバイオリニストが譜面をもって演奏しているのを見たことがない。毎日何曲も演奏するとなるとそれほど多くの練習をしないといけないだろう。それに彼女とは同い年だ。もちろん休みをそれだけに費やさせるのはこちらとしても気が引ける。
「で、早くいきましょ。」
鈴華は右手でバイオリンケースを持ち、左手で夏樹の手首をつかんで半ば引きずるようにして石段を下りる。風が下から上へ吹き上がる。彼女から甘くてフローラルな香りがした。
「あの、手を、はな、して。自分で、走る、から」
慣れた足取りで駆け下りた鈴華であったが、忘れてはいけない。この石段はかなり急であることを。つまりあほみたいな速度で降りていく鈴華の速度に夏樹の足が追い付かないのである。夏樹は髪ゴムを落とさないようにポケットに入れた。
「あ、ごめんなさい。手離しますね。転びそうだったのでは?」
「気合と根性でそれは何とかしたが…」
「それならよかったです。どこかけがしてたら申し訳ないので。じゃあしっかりついてきてくださいね。」
そういって鈴華は走り出した。白い風のように。それを夏樹はスニーカーで追従するのだった。
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結論鈴華は阿呆みたいな速さで走っていた。バイオリンケースを持っているのに夏樹と同じくらいの速さで走った。決して夏樹も走るのが遅いわけではないが、物を持ちながら走って同速はさすがに化け物である。また距離も大体900mくらいあるため瞬間速度だけでなく持久力もあると、夏樹は恐ろしさを感じた。
「ごめん。少し早かったよね。」
「大丈夫。ちょうどよかった。」
大嘘である。馬鹿くそしんどいぞこの野郎と思っているがそれを口にはできなかった。目の前には「厨房安藤」と書かれた茶色い看板がドカンと店の上に乗っかっている。鈴華はガラガラと引き戸を開けた。
「お疲れさまー。私。鈴華。」
夏樹も後に続いて入る。
「おう、お疲れー。お嬢。」
カウンターの奥の厨房にいる店主っぽい人が鈴華にむけて声をかける。中には5人のお客。
「今日のメニューは何?」
「今日は白飯に豚肉とキャベツの塩だれにかきたま汁だ。」
店主は白い歯をニッと出した。イケおじといった感じである。
「おお、今日もおいしそうね。」
「お嬢にそういってもらえると俺も作り甲斐があるってもんよ。で、そちらはどちら様だ。」
厨房と客席合わせて20畳くらいの小さな小さな店内にそんな声が響いた。店主はかなりの威圧感がある。
「私の友達よ。有賀夏樹君。」
「なんや友達ですかい。ストーカーとかやったらぶっ飛ばしとったで。」
店主はガハハと笑いながら額に左手を置いた。
「こりゃ失礼。俺はここ「厨房安藤」の店主、高田瑠偉や。よろしくな。お嬢の連れさん。」
「有賀夏樹です。鈴華さんとは昨日知り合って、今日ここに連れてきてもらいました。」
「昨日から達はじめたんか。そりゃこの場所は知らんやろうな、ってお前ここら辺で見ん顔やけどどこのもんや?」
「一応、神奈川です。」
「ほー。かなり遠いところから。長旅疲れとるやろ。食ってけ、食ってけ。」
「あ、ありがとうございます。」
隣でやり取りを見ていた鈴華はクスクス笑いながらカウンターに座っている。夏樹もカウンターに座る。いつの間にかバイオリンケースはどこかに消えている。
「鈴華ちゃん。今日もバイオリンか?」
客の一人が鈴華に話しかける。
「そうやね。でも今日はこの…」
そういって鈴華は夏樹の腕をつかみ手を無理やり上げさせた。ボクシングで勝者の手を挙げるそんな感じ。
「夏樹君が観客として聞いてくれたんだよね。」
「おお。あんた鈴華ちゃんの友達か。彼女の演奏きれいだよな。」
客は陽気にそう尋ねる。
「そうですね。きれいすぎて言葉が出ないくらいです。」
「わかるわー。俺なんか論文にしたいけど一音一音の尊さを文字で伝えられる気がしないんだなぁ。」
と客。
「まーたそんなこといって。」
鈴華はまた笑う。曇りのない顔で。
「へい。お嬢と友人君。昼飯お待ち。」
「ありがと。おっちゃん。」
「ありがとうございます。」
「いいよ。いいよ。はよ食え。冷めんうちに。」
瑠偉さんはニコニコしながら夏樹たちが食べるのを眺めている。うますぎる。特に豚肉がうまい。ジューシーで味わい深い。
「どうだい。この肉の味は。夏君?」
店主は話しかけてくる。
「ジューシーでとろける感じがしてうまいです。」
「そうやろ。そうやろ。なぜってもともとうちは…」
「ここは焼き肉屋よ。」
と鈴華が会話に乱入。してやったといわんばかりの顔である。
「お嬢ー。おれのセリフとってんじゃねーよ。」
店主はおどけながらいった。こんな仲睦まじい状況で夏樹ははっとした。
「お金どうしよう。」
「ああ。あとでその話するなー。」
店主は今日何度かわからないが笑った。
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「「ご馳走様」」
「お粗末様。」
夏樹たちは店主の昼ご飯を食べ終わった。
「じゃ、お嬢わかっているよな。」
「もちろん。おっちゃん。」
鈴華は不敵な笑みを浮かべながら皿をすべて厨房に持っていきシンクの中に入れた。そして皿洗いを始めた。
「夏君は知らんと思うから教えたる。基本的に俺の店の昼は一食500円や。だが、お嬢だけは特別に皿洗いのお手伝いしたら500円はチャラとしとる。つまり自分で使ったもんを自分で片づければ昼飯だけ無料で食えるってわけや。そんで夏君は500円払うか。皿洗うかどっちにする?」
「皿洗いで。」
夏樹はてきぱきと皿洗いをこなす。成瀬家の物ではなく店の物なので夏樹は厳重に洗った。鈴華はすでに終わったらしく店主と楽しそうに話している。早くオワラセナイト。夏樹は全力でそして丁寧に皿を洗い、磨き、食器棚に片づけた。水の蛇口から少し水がぽたぽたと垂れていた。
「おし、じゃあ帰っていいで。また来てなー。」
店主はやはり見送るときも笑顔で手を振りながら夏樹たちを見送った。
「ふー。どうだった?」
鈴華はいたずらっ子みたいに笑いながら問いかけてきた。
「まず、第一においしいがきた。そして一つ。鈴華さん口調変わりすぎでは?」
夏樹は思っていた。店に入った途端、鈴華がまとっている雰囲気が変わったと。
「あー。忘れてた。汐ちゃんと同じだよ。これが本来の私。おしとやかで礼儀正しい感じはいい子ちゃんブル演技です。地味に疲れるんだよ優等生演じるの。」
やれやれといった感じに髪をかき分ける。
「あ、そういえば髪ゴム渡したままだったね。」
「ああ。ごめん。完璧に忘れていた。」
「いいよ。私も忘れてたし。」
夏樹は髪ゴムをポケットから取り出し、鈴華に渡した。
「ありがと。」
化けの皮がはがれた、夢から覚めた、封印を解いたそんな感じに笑う。女の子らしい笑顔だ。
「帰ろっか。昼の1時だし。」
「あの、連絡先交換しない。あ、別に変な意味合いはないぞ。ただ何時に行くとか待ち合わせが不便になるから。」
「…いいけど。てかそうじゃん。私夏樹君とまだ連絡先交換してないのか。しよう。しよう。」
互いにスマホのQRコードを読み取り連絡先を交換した。連絡先の欄の一番上にSuzukaが登録される。
アイコンはなんだろうこの白い花。多分スズランだと夏樹は感じた。




