デュランタの帰り道
夏樹は畦道を歩く。昼は一人だったが、夜は二人でだ。ただ二人でいるのに嘘みたいに黙々と歩き続ける。何を切り口に話し出したらいいのかわからない。彼女も見たところ少しおどおどしてる。
「ごめん。俺どこに鈴華さんの家があるかわからないから、案内だけしてくれないか。」
「わかりました。私が先導として歩きます。」
彼女はそういうと夏樹よりも前を歩きだした。彼女が夏樹の前を通った時微かにラベンダーの香水の匂いが薫る。彼女ともう一人は歩き出す。結局話せずじまいである。そもそも彼女は話したがっているのか。しゃべりたくないと思っている可能性すらある。そうだそうに違いない。夏樹の独りよがりな解釈はわざわざお礼をしに来てくれた人に貼っていいレッテルかどうか、いやどう考えても失礼である。しかしこの状況から逃げるための口実として夏樹はそれに縋りつくしかなかった。
「どうして私の上着繕ってくれたんですか?。」
彼女が口を開いた。話したくなかったわけではなかったのだとこの時始めて夏樹は理解した。
「別に、あまり大した理由はないよ。ただなんかほっとけなかっただけ。そんな感じの答えじゃダメかな。」
ああ、本当に情けない。大した理由が言えない自分が、傷つくのが怖い自分が、不変を好む自分が。
「そうですか。私うれしかったんです。」
なにが?夏樹の心の中で渦を作り出す。こんな自分が感謝されるなんて明日この土地に海ができるくらいにありえない。
「私の演奏で拍手してくれたの。本当に。私の演奏で心から拍手してくれる人なんて家族くらいしかいないから。」
「コンクールは出てないの?」
「出てるよ。私は毎回トップ。面白くないんだろうね。弾き終わって,審査員もお客さんも拍手はしてくれるけど、私わかるんだ。みんな心から拍手はしてくれない。拍手の音が軽いから。連れの人としゃべっているから。「つまらない」って聞こえるから。だから私の音は汚れているんだなって思っちゃうの。君もそうでしょ。」
そんなことはない。彼女の姿は、音は、演奏は、誰にだって引けを取らない。森全体で奏でるハーモニーは今日初めて出会ったはずの夏樹の心の芯で深く反響し続けている。でも、言葉にできなかった。そんな無責任なこと。自分のよく一つで彼女の意見に干渉することが。彼女が決めた道だ。だから夏樹はそれを静かに見守るのが規律だ。細い道に入った。彼女と一列で歩く。彼女の後ろを追う。小さくて、たくましくもあり弱弱しくも見える。触れたら折れてしまいそうなくらい細く美しい背中。彼女はくるりと体をこちらに向ける。
「君は私の演奏を最後まで聴いて拍手までしてくれた。それどころか拍手もまともに受け止められない演奏家の上着を直してくれた。今も汚れた音を奏でる私の退屈な話を聞いてくれる。君は優しいね。私バイオリンやめるから、もう会うことはないよね。ありがとう。ありがとう。さようなら。」
彼女は両腕をTの字に広げにこりと笑って見せた。その顔にはわずかに悲喜交々のつゆがにじんでいた。彼女は走り出した。細い一本道を。夏樹は彼女の腕をつかんでいた。無意識だ。
「放してください。私はもうあなたに関係のない人間です。」
彼女は強く腕を振り。夏樹の腕をどかそうとする。
こんなのってないだろ。がんばった奴が報われないなんてあんまりだ。バイオリンをやめてほしくない。もっと彼女の演奏を聴いていたい。でもこの無責任で自分勝手な願望はかえって彼女を傷つけるかもしれない。いやそれでもこんな顔を見せられて何も行動しないのが正しいのか。今まで父、母、姉さん、いとこにまで迷惑をかけて今更だろ。それなら好き勝手にやれよ、俺。開け、俺の口。自らの喉から失われた言の葉を呼び起こせ。
「あなたは何がしたいんですか?私を引き留めたいのですか?もういいんですよ。うわべだけの人は。もうこりごりなんです。」
彼女はその場に座り込んでしまった。夏樹は彼女の目線に合わせるためにしゃがみ込む。
「俺はあんたに今からショーもない一人言を聞かせる。どーでもいいなら流してくれて構わない。俺はあんたのバイオリンを耳障りだとか汚れた音だとは思っていない。むしろ逆だ。俺はあんたのバイオリンを聞いていたい。もっといろんな演奏を聴きたい。わかっている。無責任だって。バイオリンをやめてほしくない俺のエゴだって。でも、今までお前を支えてきたバイオリンをそんな簡単に手放してお前はいいのかよ。俺はお前にバイオリンを続けてほしい。俺はお前の演奏が好きなんだ。」
「どうせ、どうせあなたもすぐにいなくなる。もう私に期待させないで。」
「しつこいかもだが、俺はお前の演奏が好きだ。何回でも、いや何百回でも何千回でもアンコールしたいくらい。俺は毎日聞きたい。お願いだもっと俺にあなたの音をバイオリンを聞かせてくれ」
汚い畦道で土下座する。俺にはお似合いだ。やっぱり格好つかない。お笑いだな。いわれた彼女は驚きながら顔を上げた。彼女は刹那に一雨きそうな顔になる。
「やっぱり君は優しいね。それじゃあ責任を取ってもらうよ。最後まで聞いてね。私がフィナーレを弾ききるまで。約束だよ。」
夏樹は少しでもと口角を無理やり上げた。
「よろしくね。私のマエストロ。」
彼女の顔にはもう迷いはない。目的を見つけたような、希望を見つけたようなそんな顔つきだ。
げんじつに変化を望む少女の顔はとてもりりしく見えた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「ありがとう。ここでいいよ。」
あれから歩くこと5分。彼女の家の近くまでは来たようだ。
「本当にここでいいのか?」
一応住宅街ではあるが、美しすぎる鈴華は誘拐される可能性があると考えてしまう。
「大丈夫。私は大丈夫だから。あ、連絡先ってあのメモに書いてあった奴でいい?」
「ああ、あってるよ。」
「じゃあ。またね。私はいつも神社にいるから。」
彼女は上着を手に持ち、宵闇に消えていった。夏樹は今になって少し胸が痛んだ。この痛みは何なのか夏樹にはわからない。夏樹はただ遠くにある月を見上げた。今日の月の形と心は同じだと夏樹は思った。




