プリムラの笑み
練習も終わり夏樹と汐は歩き出す。
「夏。カギ返してくるから待っててね。」
汐は何事もなかったかのように夏樹に笑いかける。あの時は気づかなかったが、涙袋がくっきりと浮かんでる。夏樹はそれを見ないふりして
「行ってら。」
そう返した。汐はカギを返しに行く。さてこの間でもソシャゲしますか。夏樹はゲームを起動した。しかし一分もたたないうちにスマホを閉じた。集中できない。嫌でもあの試合のことを思い出してしまう。ひりつくような戦場も。百合の球筋も。鈴華のボレーも。チームプレーの面白さも。あの時の汐の顔も。夏樹はまだあの夏のほんの切れ端のような光景を忘れることができない。楽しい。もっと浸っていたい。あの快楽に溺れたい。今夏樹を襲っているのはあの時と同じ衝動だ。鈴華のバイオリンを聞いたあの時のような。
「ピロン」
夏樹の携帯が鳴った。誰からだ?アプリを開くと一番上にはスズランのアイコン。要件は「今日、安藤来れる?」だった。
「汐。今日自分で食ってくるから昼ごはんなしでいいよ。」
そう送った。すぐにリプライが来る。
「ああ。はいどうぞ。お好きにしてください。」
汐は快諾してくれた。夏樹は自転車と足を結合させテニスコートから疾走した。
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「遅い。」
「すいません。」
これでもかなりかっ飛ばしてきたつもりだが…
「何分待っていたんだ?」
「5分くらいだよ。お嬢が待ってたのは。」
瑠偉さんがいつも通りワンコインの定食を出してくる。今日のメニューは珍しく魚である。
「あんま待ってないじゃん。」
「女の子を待たせるのはいかがなものかと思いますよ。」
無駄にお嬢様っぽく言ってくる。
「今日のメニューは魚なんですね。瑠偉さん。」
「逃げたな。」
「逃げましたね。夏君。」
鈴華の発言がクリティカルにヒットしたからしょうがないだろ。一応どうでもいい小話を一つ。有賀夏樹。彼女いない歴=年齢。バキバキの童貞です(泣)。つまり乙女心なんぞ知らぬのだー。
「私がここに呼んだのは試合のフィードバックしようかなって思ったんだよね。決しておっちゃんの料理が食べたいというわけではない。」
鈴華は魚を手をつける。
「俺の料理が目的なんですね。」
瑠偉さんは嬉しそうにフライパンを洗う。
「やっぱり鮎はいいわね。塩焼きだから素材の味が出てるわ。」
この魚鮎なのか。初めて食べる。箸でつまみ、唇の近くに持っていくと香ばしくも優しい香りがする。少し塩の味付けが濃いかも…。
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昼ご飯を食べ終わり、シンクとただいま対面中である。
「あのーフィードバックとは?って感じなのですが…」
「そうねー。私が言える事、いえる事。」
鈴華はそういいながら小枝のように細い人差し指を自身のあごにあてて首をかしげる。
「うーん。ちょっと難しいけど、夏君はもっと膝を落として早く打点に入ったほうがいいと思うな。」
鈴華はそういった。夏樹の振り方の癖は硬式テニスをやっていた時に染み付いたものだ。そうそう離れないのである。
「打ち方的に、多分硬式やってたよねって感じのスイングだと感じたかな。それだと球が不安定だから、そこを意識して練習してけば、多分、いや、絶対いいとこは入れると思うよ。」
鈴華は皿を洗いながらそう言う。彼女は垂れた白い横髪を耳にかけて耳たぶを触った。
「できれば汐のほうも…」
「ok.ok.私にまっかせなさーい。でも、夏君に言ってもしょうがないよね。だから私の連絡先、汐ちゃんに渡しといて。」
鈴華は上機嫌にそういい放つと、店のドアから出て行った。さらっと夏樹はディスられて少し気持ちは沈んだが、やってはくれるらしい。ならこの交渉はよかったといえるだろう。夏樹はそう思った。皿を全部食器棚に置き、夏樹はカウンターに座った。溜息一つ。あの姉妹に勝つには。夏樹は頭をフル回転させた。今日の試合の状況を一つずつ頭の中で整理していたが、キャパオーバーとなりそのまま魂が抜けるような感覚で眠りに落ちた。
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「夏君。夏君。おきんかい。」
視界がグワングワンと揺れる。瑠偉さんのいつも通り豪快な声が聞こえる。
「もう、6時やで。はよ帰らんと心配されるで。」
おしゃれでも何でもないシンプルな白い壁掛け時計の短針は午の方向を指す。
「ごめんなさい。瑠偉さん。迷惑でしたよね。」
「んなことない。んなことない。寝たいなら寝たほうがいい。俺なんて最近夜寝れませんから。」
「それはまたどうして。」
「テニスが楽しみで。」
ちょっとかわいい理由だなっと思わず笑ってしまった。
「それでは。ありがとうございました。瑠偉さん。」
「また来てくれな。夏君。」
「厨房安藤」の引き戸を開けて外にでた。その時、風が吹いた。黒い風。その風は渦巻くようにして夏樹の足元を通り過ぎていく。目の前に黒髪ポニーテール。ヘアゴムには青いホタルガラスが夏の夕暮れの陽光を反射する。黒のロングスカートが揺れる。胸元組まれている、少しだけ焼けた白肌の腕。白いTシャツに包まれた肩に紺色の肩掛けカバン。白い花に似た、黒い合弁花の笑み。水谷百合をみた。




