第28話 銀鈴の拍子と、甦る五弦
かまどに赤々と爆ぜる薪の火が土間の冷え切った空気を押し返し、鉄鍋から立ち昇る根菜と干し肉の素朴な香りが薄暗い部屋の隅々を柔らかく満たしていた。
ソナが手際よく敷き詰めた清潔な藁の上で、初老の男はローランドに頭を支えられながら素焼きの匙から運ばれる温かいスープを震える唇で一滴ずつ喉へと通していた。
熱が胃袋へと届くたびに男のやせ細った胸が大きく波打ち、紫色に変色していた頬に微かな生気の赤みが差すにつれて、凍てついていた男の思考が緩やかに覚醒へと向かっていった。
人心地がついた男は自らが置かれた温もりに涙をこぼしながら、掠れた声でここへ至るまでの過酷な経緯をぽつりぽつりと語り始めた。
「……教会が冬至祭の威光を示すため、王都全域に向けて『祈りの静謐令』なる教令を布告したのが発端だったのさ。教皇の聖なる儀礼を前にして、広場や酒場で民が俗謡を爪弾くことは神への不敬として一切禁じられ、街角で弦を鳴らすことすら許されなくなっちまった。国王軍の兵士たちも教会法を盾にする教会の権威の前に手足を縛られ、理不尽だと解っていながら俺たちのような芸人を庇うことすらできねえ。歌う場を失い、宿代も尽きた俺は教会の炊き出し場へ列んだが、教会の信徒の証書を持たねえ浮浪人だと罵られてパンの欠片一つ恵まれず、寒風の吹き荒れる夜の雪原へ追い出されたのさ」
男の視線は土間の床板の上へと転がり落ちていた自らの弦楽器を捉えた瞬間、激しい苦痛に歪み、再び両目から大粒の涙を零れ落とさせた。
擦り傷だらけの古い木製の胴には寒風の乾燥による細い亀裂が走り、何よりも低音を支える一番太い巻き弦が、急激な冷気によって縮み上がりブツリと無残に千切れていた。
「大聖堂の冷たい掟から逃れようと吹雪を彷徨ううちに、俺の相棒までこんな無残な姿になっちまった。それだけじゃねえ、指が……指がまるで石のように冷たくて何一つ動かねえんだ。……弦が切れ、指が死んじまった音楽師なんざ、息をしてるだけのゴミだ。もう俺の手からあの音が響くことは二度とねえんだ……」
赤黒く腫れ上がり他人の肉塊のように垂れ下がった両手を抱えて男がすすり泣く中、ローランドは床の弦楽器を静かに拾い上げ、無骨な指先で胴の亀裂と千切れた弦を入念に確かめた。
「前と全く同じ澄んだ音には戻らねえだろうが……直してみるか?」
元騎士の低く穏やかな問いかけに男は顔を上げ、濡れた瞳を大きく見開いた。
「直せるのか……?澄んだ音じゃなくていい、贅沢なんざ言わねえ!頼む、もう一度だけこの相棒から音を鳴らしてくれ……!」
男の必死の懇願を静かに受け止めたローランドは道具箱を引き寄せ、小屋にある良質な松脂の壺と、秋に農村から仕入れた丈夫な亜麻糸を卓の上に並べ、千切れた芯を継ぎ足す繊細な修復作業へと取りかかった。
その頼もしい背中の傍らでルナは自らの胸元を強く押さえ、藁の上で石のように動かぬ男の指先を見つめていた。
寒さに凍える者の前で己の歌が何の腹の足しにもならなかった無力感が少女の胸を鋭く締め付けていたが、同時に男の絶望を前にして、少女の脳裏には王都の外縁で過ごした日々の記憶が鮮やかに甦っていた。
屋敷の息苦しさに耐えかねて逃げ出し、この墓地の盛り土の前で膝を折っていたあの夕暮れ。
大聖堂の神殿で教え込まれた形式的な賛美歌ではなく、かつて誰よりも自分を愛し、幼い身体を抱きしめてくれた亡き乳母の魂へ向けて、ただその温もりを祈るように心を込めて歌っていたあの時の感覚。
天上の見知らぬ神を讃えるための冷たい美声ではなく、目の前で苦しむたった一人の大切な命に届いてほしいと願う純粋な真情こそが、自らの歌の原点であったのだと少女の胸に熱い光が宿っていた。
「わらわの喉よ、頼むから動いておくれ。あの時と同じじゃ、命の温もりをこの人の指先へ届けたいのじゃ……」
ルナは膝を折り、男の凍てついた両手を自らの暖かな手のひらで包み込んだ。
腰の小さな銀鈴に指を触れさせチリンと澄んだ音色を鳴らすと、少女は瞳を閉じ乳母の墓前で捧げていたあの飾りのない素朴な祈りの調べをその喉から静かに解き放ち始めた。
神殿の壁を反響させるための気取った技巧など欠片もなく、目の前で苦しむ命を春の木漏れ日のように包み込みたいと願う少女の息吹が土間に満ちていった。
ルナ自身も気づかぬ淡く温かな光の粒子が少女の指先から立ち昇り、男の冷え切った両手を柔らかく覆い込んでいった。
皮膚の奥に滞っていた冷気が解け落ち、縮み上がっていた細い血管へと熱い血潮が流れ込むと、男の指先から赤黒い腫れが引き、動くはずのなかった指が少女の手の中でピクリと確かな意志を持って跳ね上がった。
「な……なんだ、これは……!温かい血が指の先まで通っている……!」
男は信じられない思いで自らの両手を広げ、一本ずつ指を折り曲げては開き、溢れ出る涙とともに叫び声を上げた。
少女の祈りが凍傷を癒やし去った情景を見届けながら、ケイは静かにペンを走らせていた。
「よし、こっちの相棒も息を吹き返したぞ」
ローランドが無骨な手で弦を張り直した楽器を差し出すと、男は震える手で棹を握り締め、親指で修復された五本の弦を一気に掻き鳴らした。
松脂の香りを帯びた力強く素朴な弦の響きが土間の壁を震わせ、かまどの火の粉がその調べに合わせるようにパチリと小さく爆ぜた。
「……旦那方、それにお嬢ちゃん。俺のような名もねえ辻の音楽師に、命だけでなく指と相棒まで取り戻してくれた恩は一生かかっても返しきれねえ。金も持たねえ路頭の芸人だが、どうか俺にできる礼をさせてくれねえか」
男は藁の上に平伏し何度も頭を擦り付けた。その姿を見つめていたケイは手帳から視線を上げ、穏やかな声音で口を開いた。
「もしあなたが何かを返したいと望まれるのであれば、その知恵と言葉をお貸しいただけないでしょうか。ルナさんは現在、雪山で民を守るために命を使い果たした無名の英雄たちの誇りを歌に紡ごうとされていますが、教会の賛美歌しか知らぬがゆえに民の胸に届く旋律の形を見出せずに悩んでおられます」
ケイの言葉に顔を上げた男はルナの腰に下げられた小さな銀鈴と、先ほど自らの指を救った少女の顔立ちをまじまじと見つめた。
「お嬢ちゃんのさっきの歌声は、胸の芯まで染み渡る本物の温もりがあった。だがな、お嬢ちゃんが悩んでいる理由もよく解るぜ。教会の賛美歌ってのは分厚い石造りの神殿の中で反響させるために、声の響きだけを澄まして歌うものだ。神への祈りだからそこに肉体の足音や土の匂いは要らねえんだよ」
男は自らの楽器を抱え直し、爪先で土間の床板をトントンと一定のリズムで力強く踏み鳴らし始めた。
「俺たち民の歌は違う。吹き曝しの街道や、騒がしい酒場、仕事帰りの広場で歌うんだ。声の綺麗さだけで歌ったところで吹き抜ける寒風や生活の雑音にかき消されちまう。民の胸に届く歌に必要なのは、声だけじゃねえ。『足踏み』と『拍子』、つまり人間が大地を歩き、心臓を打つそのリズムそのものなんだよ」
男の指先が弦の上で躍り、弾むような力強い伴奏が土間に響き渡った。
「お嬢ちゃん、その腰の銀鈴はただ揺らすだけの飾りじゃねえ。声の節回しに迷ったらまず自分の足で床を小さく踏み、その銀鈴を指先で弾いて、自らの歌の『心臓の拍子』を先に鳴らすんだ。その一定の拍子の上に言葉を乗せてみろ。声の綺麗さに頼らず命のリズムを民の胸のど真ん中へ叩き込むのさ」
男の言葉に目を見張ったルナは、自らの腰の小さな銀鈴へとそっと手を伸ばした。
言われた通りに右足の藁草履で土間の床をトンと踏み込み、親指の先で銀鈴をチリンと規則正しいリズムで弾き鳴らす。
一定の間隔で刻まれる澄んだ鈴の音色は土間のかまどの熱気と混じり合い、まるで雪の中を力強く進む部隊の歩調のような確かな鼓動を生み出していった。
その拍子に合わせ、ルナは喉を開いて白峰の峠の情景を言葉に乗せた。岩肌を削る冷たい風の匂い、石を組み上げた槍兵の無口な背中、道具の手入れを愛した副隊長の軽口。
教会の賛美歌のような形式張った厳かさは消え去り、大地を踏みしめて生き抜いた男たちの生身の息吹が、銀鈴のリズムに乗って生き生きと躍動し始めていた。
「……すごいぞよ!声が風に流されず、言葉の芯が真っ直ぐに前へ飛んでいくのが解るのじゃ!」
ルナの瞳が驚きと喜びに輝き、男もまた膝を叩いて快活な笑い声を上げた。
「そうだ、その調子だ!鈴の拍子が歌の背骨になる。それならどんな猛吹雪の中でも、酒場で騒ぐ民の耳にも、言葉の一つ一つが真っ直ぐ突き刺さるはずだぜ!」
ケイは新しく刻まれた旋律の歩みと、音楽師の名、そして楽器と指の再生の事実を書き留めていった。
凍死寸前の物乞いとして雪崩れ込んできた男の手によって少女の歌は鳥籠の賛美歌を脱ぎ捨て、民の足元を照らす本物の武器へと研ぎ澄まされつつあった。
冬の風が吹き荒れる墓守小屋の土間には、再生した五弦の調べと誇り高き銀鈴の拍子が重なり合い、次なる証明の道を力強く照らし出していた。




