第29話 街道への五弦と、六つ目の鈴
かまどに太い薪がくべられた翌朝の墓守小屋には、冷え込みを忘れさせるような乾いた弦の音と、澄んだ鈴の響きが心地よい調和を保って満ち渡っていた。
かつて王都の下町の酒場を行き来していたトマと名乗るその老音楽師は、修復された五弦の棹を愛おしそうに抱え込み、指先で軽快な爪弾きを繰り返しながら土間の床板を右足の靴底でリズミカルに踏み鳴らしていた。
その力強い拍子に合わせ、ルナは腰の小さな銀鈴を親指でチリンと弾きながら、大地を力強く踏みしめる部隊の歩調をその喉に乗せていた。
教会の神殿で響くような澄ました祈りではなく、泥にまみれて誰かを守り抜いた生身の男たちの魂が、五弦の素朴な響きと銀鈴の拍子に乗って生き生きと土間を駆け抜けていた。
長椅子に腰掛けたローランドは縁の欠けた大椀を傾けながら満足そうに目を細め、その傍らでソナは仙骨から伸びる深藍色の尾を平行に保ったまま、先端を床板へトントンと打ち鳴らして軽快な拍手を添えていた。
歌が力強く結びを迎え、土間に清々しい余韻が広がった時、トマは楽器の木肌を撫でながら深く息を吐き卓の向こうに座るケイへ向けて真剣な眼差しを向けた。
「旦那、それに小さなお嬢ちゃん。この命と指、そして相棒を救ってもらった恩は、ただ小屋の中で歌っているだけじゃ返せねえ。俺はこの足で王都の外へ出ようと思う」
老音楽師の言葉にルナが驚きに瞳を見開くと、男は窓の外に広がる冬の雪原を指差して静かに言葉を継いだ。
「王都の壁の中は、教皇が布告した教令のせいで音を立てることすら罪とされる息苦しい檻だ。だが、かつて旦那方が訪れたという村や、その先へと続く街道沿いの集落には、教会の教令もまだ行き届いちゃいねえ。厳しい冬を越そうと肩を寄せ合う民が集まる酒場や宿場なら、この歌をいくらでも響かせることができるはずだ。あいつらが命を使い果たして王都を守り抜いたという真実を俺の五弦に乗せて街道の隅々まで届けてみせるよ」
男の熱い誓いに胸を打たれながらも、ローランドが無骨な顎髭を撫で回して低い唸り声を漏らした。
「心意気は上等だが、冬の街道は飢えた野犬や魔獣がうろつく死地だ。指が治ったばかりの老いぼれが、弦楽器一つ抱えて一人で歩けるような生易しい道じゃねえぞ」
厳しい現実を突きつけられた土間に沈黙が落ちかけたその時、板扉が力強く押し開けられ、冷たい外気とともに堂々たる体躯の大男が土間へと姿を現した。
背中に背負われた歴戦の黒鉄の大盾を軋ませ毛織りの上着についた雪を払ったのは、かつてケイたちと共に村への道を切り拓いた銀等級の冒険者バルトだった。
その背後には、以前のように功名を焦って浮足立つ様子もなく、引き締まった表情で周囲への警戒を怠らない二人の若い冒険者が控えていた。
「よお、ローランドの旦那、それにケイ。裏門の詰め所に顔を出したらゲオルグの爺さんから『小屋に見慣れねえ客人が転がり込んでいるから、様子を見てきてやってくれ』と頼まれてな」
バルトは土間の中央に立つトマと、その手に握られた補修痕のある五弦の楽器を見つめると、豪快に唇を歪めて笑い声を上げた。
「話は扉の外で聞かせてもらったぜ。西の村へ向かうんだろう?ちょうどギルドから村へ冬の支援物資を届ける荷車部隊の護衛依頼を引き受けたところだ。俺たちが新しく組んだパーティーでトマの旦那を村まで送り届けてやるよ」
歴戦の大盾使いの頼もしい申し出に、トマは目を丸くして感謝の言葉を絞り出そうとしたが、バルトは大きな掌を掲げてそれを制した。
「礼ならケイの旦那と、そこのお嬢ちゃんに言ってくれ。俺たち冒険者も、街の外の街道を警備する兵士たちも、今の王都の息苦しさには腹の底で煮え湯を飲まされているんだ」
バルトは盾を軽く叩き、土間の空気を引き締めるように重い声で言葉を重ねた。
「裏門で番をするゲオルグの爺さんも言っていたぜ。『王国軍の上層部も教皇が振りかざす教会の古い法によって手足を縛られているに過ぎねえ』ってな。国王軍の将校たちも兵士たちも、民を教会の理不尽に差し出したいわけじゃねえんだ。大通りの衛兵たちだって教皇の権威を盾に指図してくる教会の横暴に歯を食いしばって耐えている。軍も城も、決して民の敵じゃねえ。教会の重い鎖を断ち切るきっかけさえあれば、軍はいつでも民を守る盾として立ち上がるはずだ」
老門番の想いを代弁するバルトの言葉は、王都を覆う絶望の雲の向こうに息づく希望の輪郭を鮮やかに描き出していた。
国を統べる武力すら教皇の権威によって手足を縛られているが、現場で土を踏みしめる生身の兵士たちの心は決して民を裏切ってはいない。
その動かしがたい事実を胸に刻み込んだルナの顔には、大聖堂の影に怯える弱々しさは消え失せ、誇り高き表現者としての確かな光が宿っていた。
「ルナさん。トマさんの旅立ちの前に、この手帳へあなたの手で証を刻んでいただけますか」
促されたルナは力強く頷き、卓の隅に置かれたインク壺へと羽ペンの先を浸した。
白紙の余白、トマの名と修復された五弦の記録が並ぶその隣へと、少女の白い指先が滑らかな弧を描いて線を走らせていく。
擦り傷を抱えながらも力強く張り直された素朴な五弦の楽器と、その胴に寄り添うようにして誇り高く描かれた愛らしい六つ目の銀鈴の絵。
神殿の賛美歌を捨て去り、大地を踏みしめる民の鼓動を手に入れた証が、見事な美しさで紙面の上に焼き付けられていった。
「できたぞよ!トマ、この鈴の拍子を開拓村の皆へ届けてやってほしいのじゃ!」
「ああ、任せておきな、お嬢ちゃん。俺の指が動く限り、この五弦が鳴る限り、白峰の英雄たちの誇りを民の胸へ響かせ続けてみせるぜ」
トマは五弦の楽器を背中にしっかりと括り付け、バルトが差し出した温かい毛織りの防寒着を羽織ると、墓守小屋の仲間たちへ向けて深々と頭を下げた。
扉が開かれ、昼下がりの穏やかな冬の陽光が雪原を柔らかく照らし出す中、バルトたちの鉄壁の盾に守られた老音楽師の足取りは、力強く街道の先へと踏み出されていった。
雪を踏みしめて遠ざかる背中を見送りながらローランドはかまどの火を整え、穏やかな笑みを浮かべて呟いた。
「……これであの雪山で散ったあいつらの名前が、風に乗って遠くの村まで飛んでいくな」
ケイは手帳を静かに閉じ、胸ポケットのペンの感触を確かめながら、相棒の言葉に静かに頷き返した。
教皇の冷酷な教令が覆い隠そうとした真実は、相談所の土間を起点として、今まさに民の手から民の手へと、誰にも消せぬ火となって広がり始めていた。




