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第27話 凍原の爪音と、泥に伏す弦

 初雪が王都の外縁を白く染め上げてからは、北の山脈から吹き降ろす本格的な寒波が平民墓地を容赦なく呑み込み、小屋の板壁をガタガタと絶え間なく震わせていた。

 修繕を終えた土間のかまどには太い薪が赤々と爆ぜ、棚に並ぶ四つの素焼きの器からは、ローランドが仕込んだ干し肉と根菜の素朴な煮込みの湯気が白く立ち昇っていた。

 卓の隅では、屋敷の勤行を抜け出して駆け込んできたルナが、小ぶりの器を両の手のひらで包み込みながら困り果てたように眉根を寄せて小さく唇を尖らせていた。

 その背後では、尾を大地と平行にしならせたソナが土間の隙間風を確かめるように鋭い視線を巡らせながらも、温かい茶の香りに年相応の柔らかな息を漏らしていた。


「……情けない話じゃが、あの日立てた誓いが早くも暗礁に乗り上げておるのじゃ」


 ルナは自らの胸元をギュッと握り締め、卓の向こうに座るケイとローランドへ向けて絞り出すような声を落とした。


「あの白峰の急峻な尾根で、民の盾となって命を使い果たした者たちの誇りを歌に紡ごうと、屋敷の部屋に閉じこもって何度も喉を鳴らしておるのじゃ。……じゃが、わらわが旋律を紡ぐと、どうしても大聖堂で教え込まれたあの澄ました賛美歌の節回しになってしまう。天上の神を讃えるような奇麗な調べばかりが口をついて出て、あの猛吹雪の岩肌にへばりついて戦い抜いた者たちの生身の魂がまるで宿らぬのじゃ」


 少女の切実な懊悩を耳にしたローランドは、縁の欠けた自らの大椀を持ち上げ、熱い茶を喉へ流し込むと、短く息を吐き出して無骨な顎髭を撫で回した。


「そりゃそうだろうよ。暖かい部屋で腹一杯飯を食い、奇麗な衣装を着て歌う貴族の賛美歌と、手足の爪を凍らせて小便を漏らしそうになりながら命を繋いだ兵たちの歌が、同じ節回しで収まるはずがねえ。お前さんが歌おうとしているのは教皇の慈悲でも神への祈りでもねえ、凍える寒さの中で泥を啜って誰かを守り抜いた人間の血そのものだからな」


 厳しい言葉の奥にある確かな真理にルナが息を呑み、自らの無力さに打ちひしがれるように俯いたその時だった。


 小屋の薄い板扉の表面を外側から不規則に引っ掻くような鈍い音が、猛吹雪の合間を縫って微かに響き渡った。

 それは来訪者が礼儀正しくノックを刻む音などではなく、凍てつく爪先が板肌を滑り落ちていくような、弱々しく不吉な擦れ合いの響きだった。

 ソナの瞳が瞬時に鋭利な光を宿し、水平尾の先端をピタリと制止させて土間の敷居へと素早く身構えた。


 板壁の向こうで何かが力尽きたように重く崩れ落ちる気配を察知したローランドは、迷うことなく大股で扉へと歩み寄り、冷気を遮っていた留め金を跳ね上げて外へと押し開いた。


 舞い込んできた白い雪煙の足元、凍てつく土間と雪原の境目には、ボロ切れのような薄汚れた布を幾重にも巻き付けた一人の初老の男が、雪の中に突っ伏すようにして倒れ込んでいた。

 男のやせ細った両腕は、擦り傷だらけの古い木製の弦楽器を自らの胸元へ押し抱くようにして固く抱え込んでおり、紫色に変色した唇の端からは途切れ途切れの白く濁った呼気が漏れ出していた。


「……おい、しっかりしろ!」


 ローランドが肩を掴んで揺さぶると、男は濁りきった虚ろな眼差しを僅かに持ち上げ、這いつくばったまま泥に汚れたローランドの靴元へと枯れ枝のような指先を伸ばした。

 それは相談所に悩みを持ち込む者の態度などでは到底なく、生きるか死ぬかの瀬戸際に追い詰められた者が、最後の力で縋り付く物乞いそのものの切迫した姿だった。


「た、頼む……何か……何でもいい……パンの欠片でも……鍋の底に残った煮汁の一滴でも恵んでくれ……。この楽器を……俺の命の次に大事なこの弦をここに置いていく……何でも差し出すから……頼む、死にたくねえ……!」


 男の掠れきった喉から絞り出されたのは誇りも職能もすべて投げ打ち、ただ命を繋ぎ止めるためだけに這い回る剥き出しの命乞いだった。

 凍傷によって黒ずんだ男の指先は、抱え込んだ弦楽器の胴を爪が割れるほど強く握り締めながら、ガチガチと激しく音を立てて震え続けていた。


 その凄惨な光景を目の当たりにしたルナは息を呑んだまま両手で口元を覆い、その場に縫い止められたように立ち尽くしていた。

 屋敷の鳥籠の中で「民のために歌う」と高らかに誓った少女の眼前へ、寒波と飢餓によって尊厳のすべてを剥ぎ取られた市井の音楽師の生々しい現実が無慈悲に突きつけられていた。


「ケイ、戸を閉めろ!ソナ、床に清潔な藁を敷け!ぬるま湯だ、急げ!」


 ローランドの鋭い怒号が土間の空気を引き裂き、男の痩せ細った身体を抱き上げてかまどの前へと運び込んだ。

 ケイは手帳を卓の端へと滑らせると水桶へと駆け寄り、凍え死にかけた命の火を繋ぎ止めるための手当てを開始した。


 手桶にぬるま湯を満たし、急激な熱で壊死を防ぐために乾いた布を男の凍てついた手首に巻き付けながら、ローランドは手際よく男の皮膚の状態を確かめていった。

 ソナが素早く広げた藁の上に横たえられた男の口元へ、匙を使って人肌に冷ました薄い白湯を慎重に一滴ずつ注ぎ込んでいった。

 喉を鳴らして熱を吸い込んだ男の荒い呼吸が、僅かな温もりを取り戻すにつれて微かに落ち着きを見せ始め、胸元に抱え込まれていた弦楽器が、土間の床板の上へとカタリと乾いた音を立てて転がり落ちた。


 使い込まれて角が丸く削れ、幾筋もの補修の痕が刻まれたその素朴な弦楽器の木肌をルナは震える指先でそっと見つめていた。

 命の次に大切だと言い放ちながら、最後の一口の食料のために手放そうとした男の絶望の重みが、少女の胸の奥底を激しく抉り抜いていた。


「……わらわは、何も解っておらんかったのじゃ」


 ルナの絞り出すような声が、薪のはぜる音の中に静かに落ちた。


「歌で誰かを救うなどと、屋敷の中で奇麗事を並べていただけじゃった。寒さに凍え、明日の飯すら持たぬ者にとって歌など何の腹の足しにもならぬ。生きるか死ぬかの瀬戸際におる民の前に、わらわの歌などあまりにも無力じゃ……」


 自らの存在意義そのものを根底から揺さぶられて涙を浮かべる少女に対し、ケイは濡れ布を絞る手を止め、波風の立たない平坦な声音で静かに語りかけた。


「ルナさん。歌は確かに、この瞬間に凍え死にそうな方の胃袋を満たすパンにはなりません。ですが、もしこの方がただの物乞いであるならば、命を繋ぐために差し出すものとしてなぜこの重い楽器を最後まで抱え続けていたのでしょうか」


 ケイの静かな問いに、ルナは濡れた瞳を上げてハッと息を呑んだ。


「この方は寒さに追われ、飢えに引き裂かれながらも楽器を手放さずにここまで歩いてこられました。命乞いの道具にしてしまうほど追い詰められても最後まで手放さなかったのは、この方の命の芯にこの弦の音が宿っていたからです。いま私たちがすべきなのは、まずこの方の肉体を温めることです。そしてその後に、この方がなぜ歌を捨てずにここまで辿り着いたのかという事実を聞かせていただきましょう」


 冬の王都が隠し続ける底知れぬ飢えと、尊厳を奪われかけた表現者の剥き出しの悲鳴。

 相談所の土間には、寒波に抗い命の火を繋ぎ止めるための静かで揺るぎない覚悟が満ち始めていた。


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