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第26話 痩せた毛織りと、凍える指先

 早朝の厳しい冷気が張り詰める墓地の通路で、ケイとローランドは無言のまま木製の鋤を振るい、夜の間に降り積もった重い粉雪を土手の両脇へと掻き分けていた。

 かつてのように自らの魂を責め苛む刺々しさを拭い去った元騎士の背中には、日々の生活を確かに営む者特有の落ち着きが宿り、白い息を吐き出しながら雪を放り投げる仕草一つにも無駄な力みが消え失せていた。

 二人が土間へ戻り、冷え切った靴を脱いでかまどの前に腰を下ろした時、粗末な木製扉の向こうから遠慮がちに板を叩く乾いた音が響いた。


 扉の隙間から滑り込んできたのは、王都の城壁を守る外郭警備隊の徽章を胸に留めた、二十歳前後の若い兵士だった。

 寒風に晒され続けて蒼白を通り越し土気色に染まった顔立ちの青年は、凍てつく吐息を漏らしながら土間の敷居の前で直立し、震える右手を掲げてぎこちない敬礼の姿勢を取った。


「失礼いたします……。裏門の詰め所でゲオルグ伍長より『指先が死ぬ前に墓守の小屋へ行って話を聞いてもらえ』と命を受け、伺いました。外郭第五小隊所属のマルクと申します」


 凍傷で青黒く腫れ上がった青年の指先は小刻みに痙攣するように震え、薄い手袋すら身につけていない手の甲には赤紫色の裂け目が何本も走っていた。

 ローランドは何も問わずに長椅子を顎で指し示し、かまどの鉄鍋から湯気の立つ素焼きの器を一つ掬い上げると卓の端へと乱暴に置いた。

 青年は促されるまま腰を下ろし、這うような手つきで卓の器を両の手のひらで包み込もうとした。


 その瞬間、器は青年の指の間を滑り落ち、卓の木肌の上へと倒れて熱い湯を激しく零れ散らせた。

 寒さによって麻痺した筋肉は一切の命令を拒絶し、曲げることすら叶わぬ硬い棒のようになって卓の縁を空しく叩いたのだった。


「す、すみません……!粗相をいたしました。すぐに拭きます、申し訳ありません……!」


 己の無様さに激しい羞恥と恐怖を露わにした青年は袖口で慌てて卓を拭おうとし、その勢いでかまどの火元へと凍えた手を無防備に伸ばそうとした。

 その細い手首をローランドの太い指先が万力のような力で掴み、火の粉の手前で強引に引き戻した。


「馬鹿野郎、凍りついた皮膚をいきなり火にかざすな。縮み上がった肉が急な熱で破裂して、指ごと腐り落ちちまうぞ。ケイ、ぬるま湯と清潔なボロ布を持ってこい」


 ローランドは土間に置かれた水桶から水を手桶に注ぎ、かまどの湯を僅かに足してぬるま湯を作ると、青年の腫れ上がった両手をその中へ静かに沈めさせた。

 急激な温度変化を避け、失われた感覚を緩やかに呼び戻すための濡れ布を青年の手首に巻き付けながら、元騎士は低く唸るような声で言葉を継いだ。


「ほら見ろ。お前さんの頭は『器を掴め』と命じていたし、『湯を拭け』と念じていたはずだ。だが指は動かず器を倒した。それはお前さんの根性が足りねえからか?違うだろうが。手先の血が止まって、肉体が言うことを聞かなくなっているからだ。気合いで動かないものを気合いで動かそうとするな」


 長椅子の向こう側で身を縮こまらせる青年は、ぬるま湯の中で微かに赤みを取り戻し始めた自らの指を見つめながら、耐えかねたように苦渋の混じった嗚咽を漏らし始めた。


「……情けない話です。城壁の上に立ち、まだ半刻も経っていないというのに、寒さのあまり剣を握る力すら抜けて持ち場を逃げ出しそうになりました。大聖堂の典礼を守る近衛兵の旦那方には、毛皮の裏地がついた厚手の軍衣や上等な革手袋、それに暖炉の薪がいくらでも配備されているのに、俺たち外郭の兵に支給されるのは、この何年も使い回された痩せた毛織りの制服一枚だけです。手袋も靴下も自前で揃えろというのが軍の決まりですが……下町の長屋にいる母と幼い妹に仕送りをすれば、市場で跳ね上がった防寒具など買えるはずもありません」


 青年は制服の懐から折り畳まれて手垢のついた一枚の紙片を震える指先で取り出し、卓の上へと広げた。

 そこには老門番ゲオルグの武骨な筆跡で、手渡された白峰の峠で散った戦友たちの名と役割が、丁寧に書き写されていた。


「伍長からこの紙片をいただき、十年前の先輩方の誇りを知りました。猛吹雪の絶壁で千の魔獣を前にしても誰一人持ち場を退かず、民を守り抜いた本物の英雄たちです。……それに引き換え、俺は敵の姿すら見えない城壁の上でただ風が冷たいというだけの理由で震え、剣を落としそうになっている。もし持ち場を放棄して免職になれば家族は路頭に迷うというのに、寒さに耐えることすらできない俺は、兵士の風上にも置けない腰抜けです」


 己の脆弱さを激しく責め立て涙を零す青年の袖口を、ローランドが無言のまま乱暴に引っ張った。

 土間の薄暗い光が差し込む隙間へその生地を掲げさせると、幾度となく洗濯を繰り返されて毛羽立ちが失われ、布目が疎らに開いて向こう側の景色が微かに透けて見える様子を青年の目の前に突きつけた。


「見ろ、息を吹きかけてみろ。向こうへ風がそのまま抜けるのが解るだろう。何年着古したか知らねえが、布の目が痩せて隙間だらけだ。いいか、城壁を吹き抜ける冬の突風はな、この布の網目を針みてえに通り抜けてお前さんの体から容赦なく熱を削り取っていくんだ。神聖な教皇の教令を百万唱えようが、死ぬ気配で奥歯を噛み締めようが、風を通す布を着てりゃ誰だって体温を奪われて凍える。それはお前さんの心が臆病だからじゃねえ。ただの布の限界だ」


 ローランドは自らの右足の革靴を脱ぎ捨て、分厚い靴下を力強く引き下ろした。

 露わになった男の足先には、十年前の白峰の猛吹雪によって赤黒く引きつれ、二本の爪が剥がれ落ちて歪んだまま固まった生々しい凍傷の痕が刻まれていた。


「あいつらが猛吹雪の尾根で、胸を張って平気な顔をして立っていたとでも思ってんのか。馬鹿言っちゃいけねえよ。二日目の夜には全員が鼻水を凍らせて、ガタガタ震えて剣も握れなくなってた。元は馬具職人だった副隊長なんざ、寒さのあまり予備の鞍袋を切り刻んで足に巻き付け、小便を漏らしそうになりながら炭火の灰に手を突っ込んで暖を取ってたんだ。俺たち全員、寒さに泣き言を喚き散らしながら手足をもぎ取られねえように泥臭く足掻いていただけの生身の人間だ」


 男は足元を戻し、卓の上の青年の瞳を真っ直ぐに射抜いた。


「持ち場を守るってのはな、見栄を張って凍え死ぬことじゃねえんだよ。どんなに不格好でも手足の爪を残し、明日の朝まで息を繋ぐことだ。寒さに震える己を恥じるな。恥じるべきは現場の吹き曝しに立つ兵の足元も見ず、机の上で帳尻を合わせている上の豚どもだけだ」


 ローランドの剥き出しの言葉が、青年の胸を縛り上げていた英雄神話の呪縛を根底から打ち砕いていくのをケイは静かに見届けていた。

 膝の上の手帳にボールペンの先を走らせ、青年の名と、城壁の勤務環境における物理的な制約を整然と書き記していく。


「マルクさん。ローランドさんの言う通り、凍傷による感覚麻痺は人体の正常な生理反応であり、精神の脆さを示す証拠ではありません。むしろ身体が危険を知らせるために発している警告を無理に意志で抑え込もうとすれば、やがて指を失い、本当に家族を養う手段を奪われることになります。持ち場を死守するための防衛策を講じることは逃亡ではなく、任務を完遂するための職務上の正当な処置です」


 ケイの平坦で穏やかな言葉が、冷え切っていた青年の思考の芯へと染み渡り、強張っていた肩の力が音を立てて抜けていった。


「ローランドさん。この状況で現場の兵が取り得る具体的な手当てはありますか?」

「当たり前だ。軍の規則通りに馬鹿正直に凍えてやる義理はねえ」


 立ち上がったローランドは土間の奥の棚へ手を伸ばし蓋のついた素焼きの壺と、秋に近隣の農村から物々交換で仕入れておいた乾燥した良質な藁の束を卓の上へドンと置いた。


「まずその靴底を外せ。この乾いた藁を指先と足裏の形に合わせて敷き詰めるんだ。藁の空洞が冷たい石畳の冷気を遮断し、お前さんの体温を逃がさねえ空気の防壁になる。それからこの壺に入っているのは精製した獣脂だ。指先と耳たぶ、鼻の頭に薄く擦り込んでおけ。油の膜が皮膚の水分を閉じ込め、風による凍傷のひび割れを防いでくれる」


 さらにローランドは小屋の隅に積まれていた古い麻袋を手際よく切り裂き、細長い布テープを何本も作り出した。


「痩せた制服の下、肌着の上にこの麻布を巻き付けろ。布を何層にも重ねることで、布と布の間に動かない空気の層ができる。大聖堂の旦那方が着ている狐の毛皮には及ばねえが、突風くらいならこれで十分に跳ね返せるはずだ」


 青年の瞳に、絶望に代わる確かな光が宿り始めていた。

 授けられた知恵に従い、青年は自らの手で靴の底に藁を丁寧に敷き詰め、獣脂を赤紫色の指先へと丹念に擦り込んでいった。

 油の温もりが皮膚を覆い、麻布を胸元に巻き直した青年の背筋が、先ほどまでの寒さに竦んでいた姿勢から確かな規律を帯びた兵士のそれへと蘇っていった。


 手帳の白紙に記録を書き留め終えたケイは、ボールペンを胸ポケットへと戻し、青年へ向けて静かに一礼した。

 看板娘であるルナがいないため、紙面の余白に愛らしい鈴の挿絵が添えられることはなかったが、無骨で正確な文字の列は、現場で戦う無名の兵士の足元を支えるための確固たる砦として刻み込まれていた。


「……ありがとうございます。俺は先輩方の誇りを汚すところでした。持ち場を守るために皆で知恵を分け合って生き延びます」


 深く頭を下げたマルクは大切に懐へ収めた紙片を上から押さえ、整った足取りで墓守小屋の扉を開けて出ていった。

 雪を踏みしめて城壁の裏門へと戻っていく青年の後ろ姿を見送りながら、ローランドは扉を静かに閉ざし、かまどの火を見つめて小さく息を吐いた。


「……あの坊主はこれで生き残れるだろうが、問題は壁の内側だな」


 男の呟きに、ケイは長椅子から静かに視線を向けた。


「城壁の警備兵でさえあの有様だ。冬至祭の虚飾に浮かれる大聖堂の足元、王都の裏町では凍える寒さを凌ぐ藁の一筋すら持たねえ民が、路地裏で文字通り行き倒れ始めているはずだぞ」


 男の言葉が予見する過酷な冬の影が、暖かさを取り戻した土間の空気の向こう側に、静かで重い波紋を広げ始めていた。


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