第23話 認識票と、盾の記憶
卓の上に散らばった真鍮の認識票は、それぞれに異なる擦り傷や刃の痕をその表面に刻み込んでいた。
顔を覆ったまま沈黙に沈むローランドの指先は微かに震え、十年の歳月を経てもなお冷めることのない悔恨と自責の重みに耐えかねるように、低く苦しげな呼気を土間の空気へと漏らし続けていた。
ケイは長椅子の向こう側に腰掛けたまま、卓の隅に転がっていた一枚の真鍮札へと静かに指先を伸ばした。
煤と泥に汚れながらも、端の角が丁寧に丸く削り落とされたその小さな金属板を指の腹でそっと撫で上げ、顔を上げようとしない元騎士の耳へ穏やかで波風の立たない平坦な声を届ける。
「ローランドさん。この札の持ち主は、どのような方でしたか」
低く静かな問いかけに、ローランドは覆っていた手のひらの隙間から濁った光の宿る瞳をわずかに持ち上げた。
卓の上の傷だらけの札を見つめた瞬間、男の無骨な唇が渇いた音を立てて微かに引き結ばれ、脳裏の奥底に眠っていた輪郭を手繰り寄せるようにして掠れた声が絞り出された。
「……そいつは、下町の石工の倅だった槍兵だ。口数は少ねえ男だったが、石の目を読むのがずば抜けて上手くてな。白峰の切り立った尾根に陣を敷いた時も、冷たい岩肌の隙間に手際よく石を噛み合わせて、猛吹雪の中でもびくともしねえ足場を半日で組み上げてみせた。あいつが築いた頑丈な石組みがなけりゃ、最初の晩の魔獣の爪で俺たちの前線はひとたまりもなく崩れ落ちていたはずだ」
遠い吹雪の情景を見つめる男の視線は、無意識のうちに別の札へと吸い寄せられていった。
「その隣の端っこが青黒く変色している札は……染め物屋の三男坊だった偵察兵のあいつだ。いつも爪の先まで染料の藍色に染め上げては、軍務の合間にくだらねえ冗談を言って部隊の空気を緩めていた。だが風を読む勘だけは本物でな、山肌を撫でる冷たい風の匂いから魔獣の接近を誰よりも早く嗅ぎ当てて、谷の隘路に敵を誘い込む合図を松明で送り続けてくれた」
「工兵の方もおられたのですね」
再確認するように問うケイの静かな促しに、ローランドは深く息を吸い込み、最も深く歪んだ札を震える指先で指し示した。
「木挽きの出で、大柄で怪力だった工兵のあいつだ。木や岩を崩す仕掛けを作らせりゃ部隊で一番の腕利きで、あの最後の夜、絶壁に発破を仕掛けて導火線に火を点けたのもあいつだった。……そして、その一番大きな札が、元は馬具職人をやっていた副隊長だ。手先が器用で擦り切れた革の手入れを夜通しやりながら『道具を愛せない奴は長生きできねえよ』って笑っていた。そのくせ最後の瞬間、俺の後頭部を柄頭で容赦なく殴りつけ、雪崩の届かねえ谷間へ突き落としやがったんだ」
語られる言葉の端々から大聖堂の分厚い利権や教皇の冷酷な謀略によって塗り潰されていた死者たちの姿が、生身の人間として土間の上に立ち上がっていた。
彼らは大聖堂の権力争いのための捨て石として命を散らしたのではなく、王都で日々を懸命に生きる家族や愛する民の暮らしを守り抜くため、自らの誇りにかけてその足で尾根に踏み止まった男たちだった。
「……あいつらは、誰もが王都の民を守るために命を使い果たした。それなのに俺は、あいつらの屍の上に立って、十年間ただ無為に息をして飯を食っていただけの生ける屍だ。大聖堂の嘘一つ暴くこともできず、あいつらの名誉を取り戻すこともできねえまま、この穴倉で朽ち果てようとしている俺の存在そのものがあいつらへの裏切りなんだよ」
男の拳が卓の木肌を激しく叩き、散らばる真鍮の札が悲痛な金属音を立てて跳ね上がった。
生き残ってしまったことへの罪悪感に押し潰され、自らを罰し続けることでしか死者と向き合えない相棒の苦悶をケイは一切の動揺を見せることなく受け止めていた。
「ローランドさん。かつて私たちが街道の護衛をお願いした、大盾使いのバルトさんのことを覚えておられますか」
唐突に投げかけられた歴戦の冒険者の名に、ローランドは眉根を寄せて怪訝そうに視線を向けた。
「バルトさんは、若い戦士たちから臆病者と罵られながらも、決して功名を焦って前に出ることはありませんでした。彼が仰っていた言葉を、私は今でも手帳の隅に記憶しています。『生きてこそ次の獲物を追える。死人に手柄は拾えない。仲間の背中と足元を守り抜くことこそが盾の重さだ』と」
ケイの平板な声音は、雪解けの雫のように静かに土間を満たしていった。
「新人時代に狼の群れに囲まれて怯え切った経験を持つバルトさんは、恐怖を抱えながらも生き残って仲間を生還させることを自らの揺るぎない職能と定めておられました。命を預かる者にとって泥を啜ってでも生き延びることは、決して卑しい逃亡でも死者への裏切りでもありません」
「だが俺は生き残っただけで何も果たしちゃいねえ……!副隊長は『生きて俺たちが犬死にじゃなかったと証明してくれ』と言い残したんだぞ!その証明すらできねえ俺のどこに持ち場を守った誇りがあるっていうんだ!」
激昂するローランドの叫びに対し、ケイは胸ポケットから静かにボールペンを取り出し、カチリと澄んだ音を立ててノック部を押し込んだ。
膝の上に広げられた手帳の白紙へと視線を落とし、相手の激情を受け止めきった澄んだ瞳で、真正面から元騎士を見据える。
「ローランドさん。あなたが仰る通り、証明はまだ終わっていません。何一つ完了などしていません」
安易な慰めも誤魔化しも完全に排した冷徹な事実の宣告に、ローランドは息を呑み、言葉を失った。
「ですが、もし十年前あなたが部下たちの死に狂乱し、怒りに任せて大聖堂へ単身切り込んでいたらどうなっていたでしょうか。白峰の峠で誰が戦い、誰が民を救ったのかという真実は、その瞬間に地上から永遠に消滅し、大聖堂の自作自演の神話だけが唯一の正史として確定していたはずです」
手帳の白紙の上へと、ボールペンの先端が静かに沈み込んでいく。
「あなたが十年間、どれほど惨めであろうと生き延び、骨を拾い集め、認識票を抱え続けてきたからこそ、この卓の上に彼らの生きた証拠が失われずに残っています。老兵ゲオルグさんのような生き証人が、今なおあなたに直立の敬礼を捧げに訪れています。あなたはこの十年間、大聖堂の巨大な嘘に対して、たった一人で剣を構え、真実の防壁を死守し続けてこられたのです。証明を投げ出していたのではなく、証明を始めるための証拠を命懸けで守り抜いてこられたのではありませんか」
己の過ごしてきた無骨で苦痛に満ちた十年の墓守生活が、真実を消滅させないための極限の防衛戦であったという客観的な定義を突きつけられ、ローランドの身体が小刻みに震え始めた。
「では、誰に向けて証明するべきなのでしょうか。教皇の足元へ這いつくばり、不当な裁定を撤回させることですか。違いますね。彼らが命を賭して守り抜いた相手は、大聖堂の聖職者ではなく、王都で生きる民たちです。ならば、彼らの真実が届くべき場所もまた、彼らが守り抜いた民たちであるはずです」
ケイは手帳の白紙を卓の中央へと滑らせ、黒いインクの軸を力強く握り締めた。
「ここに権力や教会法の都合に決して屈することのない、生身の事実を刻むための余白があります。ローランドさん。あなたの部下たち名と、彼らが守り抜いたものをすべて私に教えてください。ここから彼らの証明を始めましょう」
土間の隅に差し込む淡い初雪の光が、卓の上に散らばる真鍮を柔らかく照らし出していた。
十年間、男の魂を縛り上げ続けていた重い鉄鎖が静かに音を立てて解け落ち、かまどの火の温もりが、凍てついていた男の胸の奥底へと確かに染み渡り始めていた。




