第22話 血染めの羊皮紙と、白峰の記憶
老門番ゲオルグが去った後の墓守小屋の土間には、初雪の冷気を帯びた重苦しい沈黙だけが、誰の足音も立てぬまま深く降り積もっていた。
卓の上に残された包み紙からは、老兵が手向けとして置いていった蒸留酒の強い芳香と可憐な野菊の青い匂いが立ち昇り、かまどから上がる細い薪の煙と静かに交じり合っていた。
ケイは長椅子の向こうで無精髭を乱暴に撫で回していたローランドの前に歩み寄り、冷え切っていた素焼きの器を取り上げると、かまどの鉄鍋から湯気の立つ熱い白湯を静かに注ぎ直して元の場所へと戻した。
急かすような言葉も、無理に口を開かせようとする慰めも投げかけることなく、ただ温もりだけを卓の上に差し出して無言のまま自らの席へと腰を下ろす。
「……お前さんは、本当に人を苛立たせるのが上手いな」
ローランドは自嘲するように唇を歪め、湯気の上がる器を両の手のひらで乱暴に包み込んだ。
乾いた皮膚を通して伝わる確かな熱を確かめるように指先を震わせていた男は、意を決したように長椅子から立ち上がると、土間の最も暗い隅、日頃から道具箱が積み上げられている床板の一角へと無骨な手を伸ばした。
軋んだ音を立てて外された板の隙間から引き出されてきたのは、湿った土と埃にまみれた古びた樫の木の小箱だった。
卓の上へと荒々しく置かれたその箱の蓋が開かれた瞬間、鈍い音とともに煤と錆に汚れた何十枚もの真鍮の認識票が、卓の木肌の上へと雪崩れ落ちた。
その無骨な札の山に重なるようにして男の太い指先が摘み出したのは、教皇の赤い封蝋が冷たく押された一枚の黄ばんだ羊皮紙だった。
「十年前、白峰の峠であいつらの息の根を止めたのは押し寄せてきた北の魔獣の爪じゃねえ。……この紙切れ一枚に刻まれた教皇の身勝手な言葉だ」
羊皮紙を卓の上へと叩きつけたローランドの瞳には、歳月を経てもなお色褪せることのない昏く鋭い憤怒の炎が燃え盛っていた。
「あの冬、北の荒野から山脈を越えて雪崩れ込んできた魔獣の大群から王都の民を守るため、俺の部隊は先行部隊として白峰の峠に陣を敷いた。王都へ通じる道は切り立った両側の絶壁に挟まれたその狭い尾根道しかねえからな。そこを塞ぎさえすれば、数で勝る魔獣どもを細い一本道に誘い込んで食い止めることができたのさ」
男の大きな拳が卓を軋ませ、真鍮の札が小さく跳ね上がった。
「……その急峻な尾根道のすぐ東側、冬の風が遮られた深い谷間には大聖堂が代々抱え込んできた豊かな金山と、それを守るために築かれた巨大な石造りの大修道院が鎮座していた。冬の白峰は豪雪で王都からの直線街道が埋まっちまうから、作戦ではその大修道院の谷を抜ける平坦な街道を通って王国軍の部隊が合流する手筈だったのさ。俺たちにとっても背後にある大修道院は負傷者を送り込み、食料を補給するための唯一の命綱だった」
ケイは息を潜め、男の口から吐き出される歴史の暗部を一言も逃さぬよう耳の奥底へと刻み込んでいた。
「猛吹雪の中で魔獣の先鋒とぶつかり合い手持ちの食料も尽きかけた二日目の夜、俺は負傷した兵の後送と物資の補給、それに防衛線を修道院の分厚い外壁まで一時的に下げる許可を求めて、大修道院へ伝令を走らせた。……だが、戻ってきた伝令の手には、パンの一つも包帯の切れ端も握られていなかった。大修道院の司教は修道院の頑丈な鉄扉を固く閉ざしたまま、見張り台の上から伝令の足元へこの羊皮紙を投げ落としたのさ」
卓の上に広げられた羊皮紙の墨跡を、ローランドの太い指先が憎々しげに弾いた。
「教皇の直筆の署名が刻まれた教令だ。『世俗の軍隊が大聖堂の聖なる領地に立ち入ることを一切禁ずる。武器を携えて境界を越えた者は、神への冒涜として即座に破門に処す』ってな。それだけじゃねえ。大聖堂は王都で出撃の号令を待っていたゲオルグたちの前にも使節を送り込み、大修道院の谷を通る街道の封鎖を告げる教令を突きつけて、全軍の足を門前で縛り付けたのさ」
国王の戴冠権を握り、諸侯の信仰を盾にする教皇の絶対的な権威の前に、救援部隊は王都の城壁の前で手足を封じられた。
教会領という莫大な利権に世俗の軍隊を踏み込ませないため、そして後に控える自らの思惑のため、教皇は雪山の前線部隊の退路と補給路を冷酷な法規の文言によって遮断したのだった。
「前には飢えた千の魔獣、後ろには固く閉ざされた大修道院の鉄扉。退路も救援も奪われた極限の中で、あいつらは誰一人として持ち場を逃げ出さなかった。自分たちが退けば、背後の王都の民が餌食になることを知っていたからだ。……そして三日目の夜、刃も尽きかけた時、俺たちは最後の賭けに出るしかなかった。峠の絶壁にあらかじめ仕掛けてあった工兵用の発破を使って、山ごと巨大な雪崩を引き起こし、魔獣の群れを道連れにして谷底へ圧殺する作戦だ」
男の声が掠れ、痛切な震えを帯びて土間の空気を震わせた。
「峠の絶壁にあらかじめ仕掛けてあった工兵用の発破を使い、山ごと巨大な雪崩を引き起こして魔獣を道連れにする作戦を決めた時、火縄を握って最後まで尾根に残るのは、当然ながら部隊を率いてきた俺の役目だったはずなんだ。動ける兵を一人でも多く逃がし、手傷を負った俺一人が残って魔獣を引きつけ、頃合いを見て起爆させるつもりだったのさ」
男の掠れた声は静かに落ち込み、土間に漂う薪の煙の中へと沈んでいった。
「だが、押し寄せていたのは飢え狂った千の群れだ。狭い尾根道とはいえ、一人や二人が残って剣を振るったところで、前衛の端くれを僅かに足止めするのが関の山で、後続の大群は爆薬の届かねえ尾根の脇から次々に街道へ雪崩れ込んじまう。山を崩すその瞬間まで魔獣の本隊を尾根の真ん中に一匹残らず釘付けにするためには……残った全員が盾を並べて血を流し、喚声を上げて松明を振り回し、群れ全体の目を奪う巨大な肉の防壁になり続けるしかなかった」
誰一人として生きては帰れない囮の陣形。その冷酷な現実を理解していたからこそ、部下たちは隊長の命令に最初で最後の反逆を企てたのだと、ローランドの拳が震えていた。
「『あんた一人が残ったところで、この化け物の津波は止められねえよ』ってな、退却を怒鳴りつけた俺の言葉を遮って、副隊長のあいつが背後から剣の柄頭で俺の首筋を思い切り打ち抜きやがった。崩れ落ちる身体を支えられ、雪崩の直撃を免れる深い雪の窪みへ突き落とされる寸前、朦朧とした意識の向こうで、あいつが耳元に投げ込んできた言葉が今でもこびりついて離れねえ」
男は瞳を閉じ、十年前の冷たい吹雪の感触を噛み締めるように奥歯を軋ませた。
「『隊長、生きてくれ。あんたが生きていなきゃ、俺たちが犬死にじゃなかったと誰が証明してくれるんだ』ってな。……雪の中で目を覚ました時、遠く霞む尾根の上では、残ったあいつら全員が肩を組み合い、血みどろになって松明の炎を掲げ、喚声を上げながら魔獣の群れを真正面から引きつけていた。そして轟音とともに山が割れ、すべてが白銀の底へと呑み込まれて消えちまったのさ」
轟音とともに白峰の斜面が崩壊し、千の魔獣の群れは、部隊の兵たちもろとも底知れぬ氷の谷底へと呑み込まれて消え去った。
雪煙が晴れ、白銀の静寂が戻った尾根から這い出したローランドが見たのは、安全な大修道院の見張り台の上から何事もなかったかのように谷底を見下ろす司教たちの姿だった。
「魔獣が雪崩で一匹残らず消え去ったのを見届けた大聖堂は、生き埋めになったあいつらを救い出すどころか、即座に王都へ早馬を飛ばしやがった。そして広場に鐘を鳴り響かせ、『大聖堂の祈りの奇跡によって神罰の雪崩が起き、都市は救われた』と触れ回ったのさ。教皇は奇跡を自作自演し、王都での絶対的な権力を手に入れた。その一方で命を捨てて雪崩を引き起こしたあいつらは、『聖なる山を破壊した罪人』として大聖堂墓地への埋葬すら拒絶され、骨となって雪原に打ち捨てられた」
男は卓に突っ伏すようにして顔を覆い、血の滲むような嗚咽を漏らした。
「あいつらは俺を生かしてくれた。真実を証明しろと命と引き換えにしてこの身体を雪山の外へ押し出してくれたんだ。……それなのに俺は、教皇の分厚い権威の前に何一つ抗うことができず、あいつらの無念を晴らすこともできねえまま、ただ骨を拾ってここで穴を掘り続けているだけの生ける屍だ」
生かされたという事実そのものが死者への裏切りとなって男の心を苛み続ける、逃れようのない生存の罪。
初雪の夜に味わった仲間たちとの穏やかな団欒が、なぜ彼をあれほどまでに激しく傷つけたのかという理由が、ケイの眼前で解き明かされていた。
権力の保身と歪んだ法規によって切り捨てられ、二度と戻らない仲間たちの記憶を背負い続けてきた男の前に、相談所という止まり木は何を提示できるのか。
白紙の手帳を広げたケイの瞳に、魂を縛り上げる重い鉄鎖を解きほぐすための静かで揺るぎない覚悟が宿り始めていた。




