第1話 掘りかけの墓穴と、最初の傾聴
視界を覆っていたのは、ひび割れたモニタの光でも、苦情の怒号が飛び交う薄暗いフロアの天井でもなく、抜けるように高く澄み渡った青空だった。
背中に触れる湿った土の冷たさがじわじわと体温を奪っていく感覚に意識を引き戻され、ケイは身動きの取れないまま、ゆっくりと深く息を吸い込んだ。
鼻腔を満たしたのは煙草と埃の混じった人工的な空気ではなく、瑞々しい草葉の青臭さと、どこか古びた石の匂いだった。
「おい、生き返るならもう少し場所を選んだらどうだ。掘りかけの穴の真上で伸びていられたら、埋葬の手間が省けたと喜ぶべきか迷うところだぞ」
頭上から降ってきたのは、擦れたような低さと乾いた響きを帯びた、酷く気だるげな男の声だった。
重い瞼を持ち上げると、使い古された革鎧の上に埃まみれの外套を羽織った、無精髭の男がシャベルの柄に体重を預けてこちらを見下ろしていた。
三十代の後半とおぼしきその顔立ちには、かつて修羅場を潜り抜けてきた人間特有の鋭利さと、すべてを投げ出した隠者特有の諦念が奇妙に同居している。
「……すみません、ご迷惑をおかけして」
条件反射のように謝罪の言葉を口にしたケイの喉は、まるで乾いた砂を含んだかのようにひどく掠れていた。
直前まで何をしていたのかを思い出そうとしても、コールセンターの統括席で絶え間なく鳴り響く呼び出し音と、受話器越しにぶつけられる感情の濁流を受け止め続けていた記憶ばかりが、遠い幻灯のように揺らめくだけだ。
自分の望みなど何一つなく、ただ他人の不満と理不尽の帳尻を合わせるためだけにすり減らしていた心が、ぷつりと音を立てて底の抜けた器になった瞬間までは覚えている。
「謝るくらいなら自分の足で立ち上がりな。それとも隣の穴へ引っ越した先代の墓守みたいに、永遠の眠りにつきたいわけじゃあるまい」
ローランドと名乗ったその墓守は、悪態をつきながらも差し出した逞しい腕で、ケイの身体を地面から引きずり起こしてくれた。
墓守小屋の板敷きに座らされ、差し出された白湯を啜りながら身元を尋ねられた時、ケイの口から出たのはただ「分かりません」という返答だけだった。
着の身着のまま所持品すら持たず、この国がどこの何かも知らない不審者であるにもかかわらず、ローランドは特に詮索する様子もなく、淡々とスープの鍋をかき混ぜていた。
「名前はケイ、か。行く宛てもなければ、これから何をしたいかも分からないと。まったく、最近の行き倒れはずいぶんと腹の座った無一文だな」
「本当に申し訳ありません。何か私にできることならならお手伝いさせてください。希望は……特にないので、なんでもいいです」
無意識に口をついて出たその返答に、ローランドは呆れたように片眉を跳ね上げた。
「なんでもいい、ね。そんな腑抜けた台詞を戦場で吐いたら真っ先に首が飛ぶぞ。だがまあ、飯を食わせてやる代わりに働いてもらう算段ならある。ここに来る墓参り客の相手をして連中のくだらない愚痴でも聞いてやれ。俺は死人の世話と草むしりで手一杯でな、生きてる奴らの湿っぽい感傷に付き合う趣味はない」
それがケイにとっての新しい日々の始まりだった。
王都の外れに位置するこの共同墓地には、身分のある貴族こそ訪れないものの、市井に生きる職人や商人、日雇いの労働者たちが頻繁に足を運んでくる。
その日の午後、最初に墓場の奥へとやってきたのは、粉を被った作業着をまとった十代後半とおぼしき細身の青年だった。
彼は苔むした墓石の前に膝をつき、供え物の小さなパンを置いたまま、両手で顔を覆って長いあいだ肩を震わせていた。
ローランドから「適当に話を聞いて追い払え」と言い渡されていたケイは、静かに歩み寄ると青年の邪魔にならない少し斜め後ろの位置へと自然に腰を落とした。
相手の視界に無理に割り込まず、逃げ道を塞がない角度を保つのは、長年の苦情対応で無意識に染み付いた身体の作法だった。
「……お父さんのお墓ですか?」
低く穏やかな声音で投げかけると、青年はびくりと肩を跳ね上げ、涙で濡れた目を赤く充血させてケイを睨みつけてきた。
「なんだよ、あんた。墓守の使いか?放っておいてくれよ!俺が……俺が修行を投げ出して逃げ出そうとしてるのを天国の父さんに笑いに来たのかよ!」
いきなり浴びせられた棘のある言葉にも、ケイの心はさざ波一つ立たなかった。
怒りや威嚇の裏側にあるのは純粋な攻撃性ではなく、行き場を失った羞恥と自己嫌悪であるという事実が、相手の乱れた呼吸と強張った指先から、まるで業務報告書を読むかのように克明に浮かび上がってくる。
「投げ出したい、と仰るのですね。では、笑ったりはしませんから、その理由を少しだけ聞かせていただけませんか?」
「理由だって……?そんなの俺の腕が足りないからに決まってるだろ!朝から晩まで粉をこねても親方には怒鳴られてばかりで、父さんが遺してくれた配合のパンすら上手く焼けなくて……もう全部、嫌になったんだよ」
青年は我慢していた感情が溢れ出るように言葉を吐き出した。
理不尽な徒弟制度の厳しさ、周囲の職人たちとの比較、亡き父への申し訳なさ。ぐちゃぐちゃに絡まり合った感情の糸をケイは相槌を挟みながら、ただ静かに解きほぐしていく。
相手の言い分を遮らず、否定も肯定もせず、事実と感情を淡々と切り分けていった。
「なるほど。親方に認められないことの悔しさと、お父様の味を再現できないことの焦りが混ざって、立ち止まってしまっているわけですね」
「……そうだよ。俺は父さんみたいなパンを焼きたかったはずなのに、今はただ怒られないように顔色を窺ってばかりで……」
「もし本当にすべてが嫌になって投げ出したいのであれば、ここで荷物をまとめて故郷へ帰ることも一つの選択肢です。逃げること自体は、決して悪いことではありません」
ケイの冷淡とも取れる客観的な言葉に、青年は息を呑んだ。
慰められると思っていたところに突きつけられた現実的な選択肢に、かえって狼狽の色を浮かべる。
「でも、帰ったって……故郷にはもう俺を迎えてくれるパン窯なんてないんだ」
「決めるのはあなた自身です。お父様の配合を諦めて別の生き方を探すのか、それとも怒鳴られながらあとひと月だけ窯の前に立ち続けるのか。覚悟を決めるための余白は、まだ少し残されているように見えますよ」
青年は呆然とケイを見つめ、それから足元の墓石へと視線を落とした。
投げやりだった瞳の奥に、わずかながら自分自身で足元を見つめ直そうとする光が灯っていく。
青年は乱暴に袖口で涙を拭うと深く頭を下げ、どこか憑き物が落ちたような足取りで墓地を後にしていった。
そのやり取りの最中、ケイが無意識に懐から取り出した手帳へ黒いボールペンを走らせようとした瞬間、背後から伸びてきた無骨な手が、その手首を強く掴んだ。
「おい、新入り。他人の身の上話を勝手に書き記す趣味があるとは聞いてないぞ」
いつの間にか背後に立っていたローランドが、険しい眼差しでケイの手元を見下ろしていた。
「申し訳ありません。聞いた内容の要点をまとめておかないと、後で齟齬が出るかと思いまして。以前の仕事の癖で、つい」
「ここは役所でも法廷でもないんだ。墓参りに来る奴らはな、誰にも言えない弱音を土の下に預けに来てるんだよ。それを勝手に文字にして残されたら、死人に告げ口されたような気分になるだろうが」
ローランドの言葉は手厳しかったが、筋が通っていた。
自分自身が空っぽであるからこそ、他人の感情を勝手に枠に当てはめ、無遠慮に記録しようとしていた無作法を指摘され、ケイは静かに胸を衝かれた。
相手の承諾を得ること、誰のものか分からないようにすること、本人の言葉を歪めないこと。そうした最低限の礼節を持たなければ、他人の心を書き留める資格などないのだと痛感させられる。
夕闇が静かに墓地を包み込み、木々の影が長く伸び始めた頃、二人は並んで粗末な小屋への道を歩いていた。
その時、どこからともなく風に乗って澄んだ涼やかな音が運ばれてきた。
チリン、と。
夜の静寂を清めるような銀の鈴の音と、それに重なるようにして、誰かが口ずさむ祈りのような柔らかな歌声が、遠くの古い墓石の立ち並ぶあたりから微かに漂ってくる。
「……歌ですか?」
「ああ、夕暮れになるとふらりと現れるお嬢さんだ。見慣れない身なりをしてるが、乳母の墓参りだとか言ってな。お前さんと同じで、どこか浮世離れした妙な娘だよ」
ローランドがやれやれと首を振る中、ケイは夕暮れの紫紺に染まる墓地の奥へと、無意識に視線を引き寄せられていた。
白紙のままの紙片をポケットの奥で指先に触れながら、彼は風に溶けていく美しい旋律に、静かに耳を澄ませていた。




