第2話 黄昏の銀鈴と、未熟な旅人の憧れ
夕暮れの茜色が紫紺の帳へと溶けゆく境界で、風に運ばれてきた澄んだ旋律は、乾いた墓地の空気を波紋のように揺らし続けていた。
ローランドは手にしたシャベルを使い古された革紐で腰に括り付けると、小屋の方角を無造作に親指で指し示し、足元に積もった土煙を軽く払い落とした。
「あのお嬢さんの相手をして長話に付き合っていると、あっという間に夜露で骨まで冷え切っちまうぞ。俺は先に戻ってかまどに火をおこしておくから、適当なところで切り上げて戻ってこい」
気だるげな忠告を残して背を向けた墓守の足音を見送りながら、ケイは足元の雑草を踏みしめ、歌声の発生源である墓地の最奥へと向かってゆっくりと歩を進めた。
鬱蒼と生い茂る古い木立を抜けた先には、風雨に削られて角の丸くなった木の棒が肩を寄せ合うように並ぶ区画が広がっていた。
その中央に位置する小さな盛り土の前で、一人の少女が膝を折り、宵闇の気配を払うように柔らかな声音を夕空へ捧げている。
柔らかな黒髪を頭の高い位置で左右で小さく結い、まだあどけなさの抜けきらない丸みを帯びた輪郭とは裏腹に、衣服の上からでもはっきりと主張する豊かな胸元の起伏が、祈りを込めた規則正しい呼吸に合わせて静かに上下していた。
腰元に結び留められた銀の鈴が、風のそよぎに合わせて涼やかな余韻を零すたび、不思議と周囲の張り詰めた冷気が和らぎ、夕暮れ特有の気鬱な気配が綺麗に拭い去られていくような錯覚を覚える。
ケイは相手の歌を遮らぬよう、数歩手前の乾いた地面に立ち止まり、静かにその美しい旋律が終わるのを待った。
やがて鈴の音の最後の震えが夕闇に溶けて消えると、少女は胸の前で組んでいた華奢な両手をほどき、背後に立つケイの存在に気づいてぱっと顔を輝かせた。
「おや、見慣れぬ顔つきの旅人さんじゃのう。墓守の偏屈な親父殿かと思うておったが、新しくこの墓場の世話を手伝うことになった者かの?」
鈴を転がすような愛らしい声立ちには、どこか古風な隠者を思わせる独特の節回しが混ざり合っていた。
人懐っこい笑みを浮かべて立ち上がった少女の姿を正面から見据えながら、ケイは転移前の習慣に従い、腰を低くして穏やかな会釈を返した。
「はじめまして。こちらで墓守のお手伝いをさせていただいている、ケイと申します。あまりにも綺麗な歌声が聞こえてまいりましたので、つい足を止めて聞き惚れてしまいました」
「ふふ、お主はなかなかに口の回る素直な男じゃな。わらわの名はルナ、ここには実家でわらわの世話を焼いてくれた乳母が眠っておる場所での。王都を出立する前に、どうしても一曲だけ新しい歌を聴かせてやりたくて立ち寄ったのじゃ」
ルナと名乗った少女は、満足げに細い指先で腰の銀鈴を撫で、足元の盛り土へと愛おしげな眼差しを向けた。
上質な仕立てを思わせる布地を使いながらも、あちこちに急ごしらえの補強が施された旅装束や、泥の跳ね返りを気にした形跡のない新品の革靴を見る限り、彼女が長旅に慣れた身の上でないことは明白だった。
相手の身なりや仕草の端々から境遇を察する感覚は、受話器の向こうから聞こえる僅かな生活音や息遣いから顧客の感情を推し量っていた頃と、何一つ変わらない。
「王都を出立される、ということは……これからどこか遠くへ向かわれるご予定なのですか?」
何気ない相槌のように投げかけた問いに、ルナは待っていましたとばかりに胸を張り、幼さの残る瞳を爛々と輝かせた。
「うむ!わらわはな、この国の街道沿いにあるという石造りの見張り台から昇る朝焼けや、近隣の村々で開かれる収穫祭の熱気を、この目で確かめに行きたいのじゃ。屋敷に詰めておった護衛の兵たちが聞かせてくれた外の世界の景色を、自分自身の言葉で歌に紡ぎ、たくさんの人々に届けるのがわらわの願いなのじゃよ」
夢を語る彼女の横顔には、一点の曇りもない純粋な憧憬が宿っていた。
籠から解き放たれた小鳥のように無邪気なその熱意は、見ている側の胸まで温かく照らし出すような眩しさを放っている。
しかし、コールセンターの統括席で何百人もの浮き足立った相談者の声を聞き届けてきたケイの耳には、その明るい響きの奥底に微かに混ざり合う、不自然な震えの気配がどうしても引っかかっていた。
それは本当に見たいものへ向かって駆け出している者の足取りというよりは、背後に迫る何か恐ろしいものから目を逸らすために、必死で遠くの光を凝視している人間の振る舞いに酷く酷似している。
ケイは上着の内ポケットにそっと指先を滑らせ、そこにあるはずの手帳の感触を確かめた。昼間にローランドから厳しく戒められた言葉が、胸の奥で静かな警鐘を鳴らす。
相手の弱音を勝手に値踏みして書き殴るような真似は、断じて許されない。
それでも、目の前で空回りし始めている少女の歩みをただ無責任に見送ることもまた、彼の性分には合わなかった。
「ルナさん、もし差し支えなければ、その素晴らしい旅の目的地について、もう少し詳しくお話しを聞かせていただけないでしょうか」
「ほう?風変わりな男じゃのう。他人の取り留めのない夢物語など、誰に話しても子供の戯言だと笑われるばかりじゃったが……お主は本当にわらわの歌や旅路に興味があるのかの?」
「とても興味があります。ただし、お聞きした内容を後から思い出せるように、書き留めさせていただくお許しをいただけますでしょうか。お名前などの素性は決して残しませんし、あなたの言葉通りの事実だけを記します。もし書き上がった内容を見て気に入らなければ、その場で破り捨ててくださっても構いません」
ローランドの叱責を受けて自分の中で形作られた最低限の約束事を一つずつ丁寧に口にすると、ルナは目を丸くして驚いた後、可笑しそうに小さな喉を鳴らして笑った。
「なんとも堅苦しい男じゃが、誠実な物言いであることは伝わってくるぞよ。よいとも、減るものでもなし、好きなだけ書き留めるがよいのじゃ!」
快い承諾を得たケイは、ポケットから取り出した白紙の手帳を開き、手になじむボールペンを静かに構えた。
相手の視界を塞がないよう、斜め向かいの風通しのよい位置へ身体を向け、聞き取りの姿勢を整える。
「ありがとうございます。ではルナさん、その見張り台や村祭りを巡る旅ですが……具体的にはどの街道を通り、どれくらいの旅程で移動されるご計画なのでしょうか。この先の宿場町までの路銀や、夜間の野営に必要な護衛の手配などは、すでに整えられているのですか?」
静かに投げかけられた現実的な問いかけに、ルナの弾んでいた表情が一瞬だけ硬直した。
宙を泳いだ彼女の丸い瞳が、困惑したように瞬きを繰り返し、胸元で握りしめられた指先が旅衣の布地をきゅっと強く引き絞る。
「そ、それは……歩いていけば、いずれ次の町に着くはずじゃし……路銀なら、この首飾りや小間物を売ればどうにでもなるはずじゃ。わらわには歌があるのじゃから、宿場の人々に歌を聴かせれば、一晩の宿くらい誰かが工面してくれるのではないかの……?」
語尾に向かうにつれて急速に頼りなさを増していくその声には、先ほどまでの輝かしい熱狂の余韻は残されていなかった。
分厚い壁に守られて育ってきた者が、外の世界の厳しさや悪意を何一つ想像できていない時に見せる、酷く危うい無防備さそのものだった。
年若い娘が一人で夜を越すことの危険性を、彼女は本当に何一つ理解していない。
「なるほど。見張り台の朝焼けを見たいという強い憧れがある一方で、そこへ至るための手段や安全の確保については、まだ具体的な輪郭を結んでいない状態なのですね」
ケイの淡々とした言葉の刃は、感情的な非難を含まない純粋な客観的事実として、少女の足元に横たわる現実の崖を容赦なく照らし出した。
慰めも否定もせず、ただ相手の口から出た言葉の矛盾だけを鏡のように映し返すその声音に、ルナは息を詰まらせ、防衛するように豊かな胸元を抱え込んだ。
「う……お主、穏やかな顔をしてずいぶんと手厳しいことを突いてくるのじゃな……。そんなこと、今から少しずつ考えればよいではないか。王都にこのまま残っていたって、わらわには……」
言い淀んだルナの喉の奥から、押し殺された小さな吐息が漏れ出た。
華奢な肩を微かに震わせ、足元の冷え始めた黒土を見つめる彼女の瞳には、先ほどの無邪気な旅人の仮面が剥がれ落ち、名状しがたい漠然とした怯えの色が色濃く浮かび上がっていた。
「……王都に残っていたら、どうなってしまうのですか?」
ケイの静かな問いが、夕闇の濃くなり始めた墓地の静寂へと吸い込まれていく。
白紙の手帳の上で、ボールペンの切っ先が僅かな風に揺れながら、まだ形を成さない次の言葉を静かに待ち望んでいた。




