プロローグ
墓場小屋の夜はランプの火の匂いで始まり、昼間の土の冷たさが板壁の向こうに静かに沈んでいた。
看板を掲げたばかりの小屋の土間では、ケイが対応記録を広げて丁寧に読み返していた。
白紙の余白の多さに触れるたび、埋めていく楽しみと自分の言葉のなさが同じ胸のなかで静かに並んでいた。
竈の残り火で温めたスープの湯気が立ち昇り、お供え分けのパンと並んだ食卓がささやかな居場所の温かさを物語っていた。
「ケイ、今日の対応記録に鈴の絵を足してもよいのじゃ?」
「もちろん構いませんよ。私には絵心がありませんから、ルナさんが飾ってくださるとページが華やいで助かります」
粗末な木の椅子を引いて腰掛けたルナは、袖口を小さく捲りながら、羽ペンを慣れた手つきでインク瓶に浸した。
まだあどけなさの残る童顔をランプの淡い灯りに照らしながら、彼女は紙の端へと小さな鈴の輪郭を丁寧に滑らせていく。
頭の高い位置で二つ結びにされた細く長い黒髪と、豊かな胸元を押し上げる藍色のワンピースが、わずかな吐息の揺らぎに合わせてかすかに揺れ、静寂に満ちた室内に微かな衣擦れの音を響かせていた。
腰に下げられた小さな銀鈴が、机の縁に当たってチリンと澄んだ涼やかな余韻を零す。
「ふふ、よい出来栄えなのじゃ。音色のない紙の上であっても、こうして鈴を描いておけば、読み返した時に風の音が蘇るような心地が聞こえてくるからのう」
ルナは満足げに細い顎を引いて頷くと、竈の上の鉄鍋に視線を向け、どこか慈しむような眼差しで湯気を見つめた。
「人の心というものは、悲しいときや迷うときほど冷え切ってしまうものなのじゃ。そうした折には、温かいものをしっかり腹に収めて、ただぐっすりと眠るのが一番の養生じゃ。ケイも昼間から根を詰めて筆を走らせてばかりでは、魂が痩せ細ってしまうぞよ」
年若い娘の姿をしていながら、どこか古風な隠者のような響きを帯びたその言葉に、ケイは苦笑交じりに頷きを返した。
手元にある紙は、以前の職場であればただの業務日誌か顧客の応対履歴として片付けられていた類のものだ。
誰が、いつ、どのような悩みを抱えてここを訪れ、どんな言葉を置いて去っていったのか。それを淡々と事実のまま書き留める行為だけが、彼の人生で身につけた唯一の技術だった。
ケイは電話口から浴びせられる名も知らぬ誰かの理不尽な怒りや要求を受け止め続ける仕事をしていた。
現場の責任者を任されるようになってからは、苛立つ利用者の感情を素早く無機質な要約文へと変換し、マニュアル通りの相槌でその場の波風を収めることに長けていった。
そうして他人の都合や感情の濁流に身を浸し続けた結果、自分の内側にあったはずの欲求や望みは綺麗に削ぎ落とされ、気づいた時には何ひとつ残っていなくなっていた。
『あなたはどうしたいの?』
同僚や上司からそんな問いを投げかけられるたびに、喉の奥が石のように強張り、あらかじめ用意された定型句を探すように視線を泳がせることしかできなかった。
「なんでもいいです」と曖昧に笑って答えるのが、いつの間にか自分を守る唯一の盾になっていた。
心の底に広がっていた底知れない空虚に足を取られるようにして、気がつけば見知らぬ世界の墓穴へと転がり落ちていたのだから、人生の帳尻の合わなさには乾いた笑いしか浮かばない。
「おいおい、まともな飯を前にして難しそうな面を突き合わせるんじゃない。死人に取り憑かれたと勘違いして、墓穴へ埋め直す羽目になる」
低く乾いた声とともに、重い木製の扉を押し開けて入ってきたのは、この墓地を預かる元騎士のローランドだった。
その面持ちには、かつて戦場を駆け抜けた者特有の鋭い陰影と、すべてを諦めきった隠遁者特有の気だるさが奇妙な釣り合いを保って同居している。彼は泥のついた長靴を玄関の縁で乱暴に脱ぎ捨てると、使い古された革の手袋を卓の上へ無造作に放り投げた。
「お疲れ様です、ローランドさん。手入れが終わったようですね」
「ああ、崩れかけていた石積みを少しばかり積み直してきた。まったく、前の墓守は手入れの途中で隣の穴に引っ越したきり、引き継ぎの一つも残していきやがらねえ。気楽な身分が羨ましい限りだ」
先代の墓守が亡くなってそのまま隣の墓穴に埋葬された事実を、さも近所への転居であるかのように語るローランド特有の軽口に、ルナが小さな眉を八の字に曲げて息を呑んだ。
「ローランド、死者の方をそのように茶化すものではないのじゃ。土の下で眠る魂に申し訳が立たないぞよ」
「冗談だよ、お嬢さん。ここに眠っている連中だって、生きている奴の陰気なため息を聞かされるよりは、多少くだらない軽口で笑い飛ばしてもらった方が居心地がいいはずさ。……で、ケイ、その奇妙な紙の束はまだ増え続けているのか?」
ローランドは卓の端に腰を掛け、ケイの手元にある紙束を顎で指し示した。
「昼間に街道から迷い込んできた行商人の話を書き留めていました。『たいおうきろく』と呼んでいるのですが、やはり聞き慣れませんか?」
「聞き慣れないどころの話じゃないな。王都の役人ですら、そんな堅苦しい妙な言葉は使わん。相談に来た奴の素性を伏せて、本人の口から出た言葉だけを書き写し、気に食わなければ破り捨てても構わない、だったか。ずいぶんと回りくどい掟を作ったものだな」
墓穴の脇に転がっていたケイを拾い上げ、飯を食わせてやる代わりに墓参りの相手をしろと命じたのは、他ならぬこの元騎士だった。
最初に持ち込まれた悩みを無断で紙に書き留めて依頼人を怒らせた際、他人の胸の内を勝手に暴く無作法を厳しく戒め、記録のための確固たる作法を定めさせたのもローランドである。
「勝手に他人の痛みを値踏みして、正しそうな答えを押し付けるのは私の領分ではありませんから。ここに書かれているのは、彼らが自分の足でどこへ向かおうとしたのかという足跡のようなものです」
「立派な看板を掲げた割には、相変わらず自分の腹の内だけは真っ白なままだがな。誰の願いも否定しない代わりに、自分からは何も欲しがらない。お前さんのその底の抜けた器用さは、見ているこっちが気味悪くなるくらいだ」
ローランドは鼻を鳴らしながら、お供え分けとして持ち帰った硬い黒パンをナイフで手際よく切り分け、木皿へと放り出した。
悪意のない芯を突いたその指摘に、ケイはただ穏やかな視線を伏せることで応えた。否定する言葉など持ち合わせていないし、彼自身、自分が空っぽの器であるという自覚を何よりも強く抱いていたからだ。
「ケイはそのままでよいのじゃ。耳を澄ませて誰かの声を受け止めてくれる場所があるだけで、救われる心というものは確かに存在するのじゃから」
ルナが柔らかく微笑み、鈴の絵が描かれたばかりの真新しいページに、そっと白く華奢な指先を重ねた。
彼女自身、王都の堅苦しい貴族の家を抜け出し、名もなき平民たちの墓前で歌を捧げる日々のなかで、まだ言葉にならない漠然とした恐れをその小さな胸の奥底に抱え込んでいる。
それでも今は温かいスープの香りと、卓を囲む二人の男たちの気配が、彼女の旅路の不安を静かに和らげていた。
卓の中央では、素朴な野菜と干し肉のスープが静かに湯気を揺らしている。
遠くで夜風が墓地の木々を撫で、小屋の入り口に吊るされたばかりの小さな木製看板を、微かに軋ませていた。
そこには拙い文字で、ただ『相談所』とだけ刻まれている。
ケイは手元の黒いボールペンを静かに置き、大半が白紙のまま残された紙束の余白を、掌で撫でるように見つめた。自分自身の望みは、今もなお霧の向こうにある。
誰かに希望を尋ねられても、気の利いた夢を語ることなど到底できそうにない。
それでも、この静かな土間で誰かの迷いに耳を傾け、白紙のページを一枚ずつ埋めていく日々の先に、いつか自分自身の言葉が見つかるかもしれないという予感だけは、スープの温もりとともに確かに胸の底へ染み渡っていた。
「さあ、冷めないうちにいただくとするかのう。今日のスープはカブの甘みが実によく引き出されておるのじゃ!」
ルナの澄んだ声が夜の静寂を優しくほどき、三つのスプーンが重なり合う微かな音が、墓場の一角にある小さな相談所の夜を静かに包み込んでいった。
プロローグから4話まで10置きの予約投稿をしておきます。




