第17話 四つの素焼き湯呑と、冬支度の手入れ
夜の間に降り積もった霜が白銀の絨毯のように広がり、東の空から昇る朝日の光を浴びて、名もなき墓の列がきらきらと細やかな輝きを放っていた。
ローランドから手渡された薬草の油膏が功を奏したのか、ケイの腫れ上がっていた踵の熱感は綺麗に治まり、土間を踏み締める足取りには重心の安定が戻っていた。
井戸端で冷たい水を汲み上げて土間へ戻ってきたケイの視界に飛び込んできたのは、粗末な木棚の端に新しく並べられた見慣れぬ三つの素焼きの器だった。
元々置かれていたローランドの愛用する縁の欠けた無骨な椀の隣に、飾り気のない湯呑と掌にすっぽりと収まりそうな小ぶりで丸みを帯びた器、そして驚くほど肉厚で底が深く作られたどっしりとした大振りの器が、土の香りを漂わせながら控えめに鎮座している。
「ローランドさん、これは……」
「安市で買い叩いてきた素焼きの屑物だ。あの小娘どもが来るたびに椀を奪い合って茶を啜る姿を見せつけられちゃ、こっちの喉まで埃っぽくなって叶わんからな。これでお前さんの分も、小娘の分も、あの物騒な尾っぽの護衛の分も、専用の置き場が定まったわけだ」
使い古した大鍋の底を砂で擦っていたローランドは、視線も合わせずにぶっきらぼうな声を投げ返してきた。
不揃いでありながらそれぞれの持ち主の体格や佇まいを映し取ったような器の並びを眺めながら、ケイの口元には自然と穏やかな笑みがこぼれ落ちていた。
その静かな朝の空気を突き破るようにして、小屋の木製扉が外側から勢いよく押し開けられた。
吹き込んできた冷気とともに転がり込んできたのは、長いフード付きのコートを小脇に抱え、細い黒髪ツインテールを激しく揺らしたルナだった。
「おはようなのじゃ、ケイ、ローランド!屋敷で冬の薪の配分について立ち聞きした瞬間、このボロ小屋のことが頭から離れなくなってのう!冬支度の手伝いに、わらわが腕を振るいに馳せ参じたぞよ!」
胸を張って高らかに宣言するルナの後ろから呆れ果てた溜息を漏らしながら姿を現したのは、深藍色のショートボブを端正に整えたソナだった。
白シャツの上に革のハーネスをしっかりと締め上げ、腰の仙骨からは艶やかな深藍色の極太水平尾が、大地と平行を維持したまま床板を掠めることなく静かに持ち上げられている。
「お嬢様、朝の点呼を終えるや否や侍女の目を盗んで駆け出すなど、警護の立場としては胃に穴が開きそうです。……それに素性の怪しげな墓守の住処に、伯爵家の令嬢が力仕事の奉仕に現れるなど前代未聞の不祥事ですよ」
「何を堅苦しいことを言っておるのじゃ、ソナ!わらわたちはここで温かい煮込みをご馳走になり、塩の滋味を分かち合った仲間ではないか!恩を返すのは旅人の誇りじゃ!」
藍色の薄手ワンピースの袖を力強くまくり上げ、スカートの中に穿き込んだ黒の短い下履きを覗かせながらやる気満々に拳を握る主の姿に、ソナは眉間を指先で押さえて天を仰いだ。
その様子を眺めていたローランドは、手にしていた研ぎ澄まされた鋸と使い古しの木槌を容赦ない手つきで二人の足元へと放り出した。
「口先だけで冬が越せるなら王都の吟遊詩人は誰一人凍え死にはせん。手始めに裏の雑木林から伐り出してきた丸太を薪の大きさに小割りにして、小屋の北側の壁に沿って軒下まで積み上げるぞ。それから屋根の傷んだ杉皮の葺き替えと板壁の隙間を埋める泥練りだ。貴族の令嬢だからと手加減する気は毛頭ないから、泣き言を漏らすなら今のうちに屋敷へ逃げ帰りな」
元騎士の容赦のない現場監督の言いつけに、ルナは怯むどころか瞳を琥珀色に輝かせ、「受けて立つぞよ!」と声を張り上げて飛びついた。
本格的な寒風が吹き荒れる前の共同墓地の片隅で、前代未聞の冬支度が始まった。
ルナは上等な革靴を脱ぎ捨てて素足に藁草履を引っかけ、井戸端から運んできた水と赤土、そして刻んだ乾燥藁を木桶の中で懸命に混ぜ合わせ、両手を泥まみれにしながら板壁の隙間へと擦り込んでいった。
跳ね上がった泥が頬や白い太ももを汚すのも気に留めず、冷たい風の侵入を防ぐために無心で作業に没頭する少女の横顔には、屋敷の自室で縁談の影に怯えていた頃の脆弱さは微塵も残されていなかった。
周囲の作業を圧倒的な効率で押し進めたのは、不服そうな表情を崩さないまま作業に加わったソナの驚異的な身体能力だった。
大の大人が二人掛かりでようやく持ち上げるような湿り気を帯びた巨木の丸太を彼女は細く引き締まった両腕で軽々と抱え上げ、薪割り用の平石の上へと次々に据え付けていく。
薪を積み上げる作業においては、仙骨から真っ直ぐに伸びる深藍色の極太水平尾が驚くべき器用さを発揮していた。
大地と平行を保ったまま滑らかにしなる尾の先端が崩れかけた薪の列を下からそっと支え上げ、寸分の狂いもない見事な防風壁を小屋の北壁に沿って築き上げていく。
「……ソナさん、本当に助かります。あなたの体幹と腕力がなければこの量を積み終えることは到底不可能でした」
木枠に泥を運ぶ手伝いをしていたケイが謝意を伝えると、ソナは瞳をわずかに泳がせ、唇を尖らせてそっぽを向いた。
「べ、別にあなたのために力を貸しているわけではありません。お嬢様が泥まみれになって風邪を引かれては困るから手早く終わらせているだけです。それにこの尾は重いものを支えることくらい子供の頃から慣れっこですから」
強がりを口にしながらも彼女の深藍色の水平尾の先端は嬉しそうに微かな弧を描き、ケイの腰のあたりをトントンとリズミカルに叩いて親愛の振動を伝えていた。
陽が天頂を過ぎ、冷たさを増した西風が木立を揺らし始める頃、小屋の修繕は目覚ましい速度で完成を迎えていた。
北側の壁は軒下まで隙間なく積み上げられた薪の山によって強固な断熱壁へと変わり、風の通り道となっていた板戸の合わせ目や壁の裂け目には、ルナが練り上げた粘り強い泥が均一に塗り込められていた。
屋根の杉皮もローランドの手によって新しく張り替えられ、吹き込んできていた隙間風は一筋たりとも土間へ侵入できなくなっていた。
「上出来だ。これなら真冬の吹雪が吹き荒れようと凍え死ぬ心配はねえな」
泥のついた手を井戸水で洗い流したローランドが、顎で土間の長椅子を指し示した。
使い古された作業着を泥だらけにし、心地よい疲労感に肩を上下させていたルナとソナは、吸い寄せられるように土間へと上がり込み長椅子へと腰を下ろした。
木製扉が閉じられた土間の内部は先ほどまでの冷たい風が嘘のように遮断され、かまどから立ち昇る火の温もりが部屋の隅々まで柔らかく満ち渡っていた。
かまどの鉄鍋から湯気の立つ野草茶を柄杓で掬い上げたローランドが、木棚から取り出した四つの素焼きの器を長机の上へと無造作に並べていった。
欠けた大椀の隣に、ケイのための平らな器、そしてルナの前に置かれた愛らしい小ぶりの器と、ソナの前に置かれたどっしりと深みのある器。
「お前さんたちの分だ。勝手に人の小屋へ上がり込んでくる以上、自分の器くらい自分で管理しな」
乱暴に差し出された温かい茶の湯気を見つめ、ルナは目を大きく見開き、泥のついた両手でそっと小ぶりの湯呑を包み込んだ。
自分の掌の形に驚くほど自然に馴染むその素朴な器の温もりに触れた瞬間、少女の瞳にじわりと温かい光が溢れ出していった。
「わらわの器……?ここに、わらわの居場所を置いてくれるのかの……?」
「お嬢様だけではありませんよ。なぜか私の分まで一番頑丈そうなものが用意されていますが……」
ソナもまた、大振りの湯呑の縁を革手袋の指先で撫で回し、驚きと戸惑いの入り混じった吐息を漏らしていた。
屋敷では身分を隔てる壁によって常に一歩引いた場所に立たされていた護衛の少女にとって、主と同じ机の上に並び立つ自分のための器という存在は、胸の奥を激しく揺さぶるほどの手応えを持っていた。
「居場所の権利は、今日の労働で十分に支払われたのではないでしょうか」
ケイは自らの湯呑を取り上げ、二人の驚きを穏やかに解きほぐすように微笑みかけた。
「客としてではなく、共に生活を守る仲間としてこの場にいてくださることを歓迎いたします」
ケイの言葉に、ルナは泣き笑いのような眩しい笑顔を咲かせ、熱い茶を両手で啜って満足げな息を吐き出した。
ソナもまた照れ隠しのように俯きながら茶を喉へと流し込み、その腰から伸びる極太水平尾が嬉しさを隠しきれずに床板の上で微かに揺らめいていた。
茶を飲み干したルナは、卓の隅に置かれていたインク壺へと手を伸ばした。
羽ペンの軸を迷いのない手つきで握り締め、ケイが膝の上に広げた手帳の余白へと身を乗り出す。
木漏れ日の差し込む白紙の上へと走る羽ペンの先から新しく積み上げられた薪の山と、湯気を立てる四つの素焼きの湯呑、そしてその温もりに寄り添うように寄り添う四つ目の愛らしい銀鈴の絵が、生き生きとした線となって浮かび上がっていった。
「四つ目の鈴の完成じゃ!これで冬がどれほど冷たい牙を剥いてこようとも、この小屋の温もりは誰にも奪えぬぞよ!」
胸を張るルナの誇らしげな声と、それをからかうローランドの乾いた笑い声が、修繕を終えたばかりの土間に心地よく反響していた。
厳しい冬の訪れを前に名もなき墓場の片隅にある小さな相談所は、それぞれの孤独を包み込む確かな港として揺るぎない土台を築き上げていた。




