第18話 泥濘の修道衣と、読めない紙片
晩秋の冷たい雨が、色褪せた濡れ落ち葉を名もなき盛り土の表面へと容赦なく叩きつけていた。
灰色の雲が低く垂れ込める共同墓地の片隅で、粗末な棺が泥水の溜まった穴の底へとゆっくり下ろされていくのを泥にまみれた法衣をまとった若い見習い修道士が、濡れた両手を固く胸の前で組みながら見届けていた。
凍えるような西風が吹き抜けるたびに細く尖った顎をガチガチと鳴らし、青白い唇から途切れ途切れの祈りの句を絞り出していた青年は、最後の土が盛られた瞬間、緊張の糸がぷつりと切れたようにその場へ崩れ落ちた。
泥濘の中へと沈みかけた痩せ細った身体を間一髪のところで受け止めたのは、手入れ用のスコップを地面に突き立てて駆け寄ったローランドの無骨な腕だった。
「おい、しっかりしろ!……チッ、身体が氷のように冷え切ってやがる。息も浅い、飢えと疲労で今にも心臓が止まりそうだぞ」
元騎士の鋭い怒声を受け、板壁の泥塗りを点検していたケイは即座に駆け寄り、青年の冷え切った両足を抱え上げた。
二人がかりで運び込まれた墓守小屋の土間は、塗り直したばかりの泥壁と軒下に高く積まれた薪の山に守られ、外の冷気から切り離された確かな温もりを保っていた。
かまどの前へ運び込まれ、乾いた毛布にくるまれた見習い修道士は、熱い白湯の注がれた素焼きの器を唇に近づけられても頑なに奥歯を噛み締めて首を横に振った。
泥水に汚れた頬を伝って零れ落ちた大粒の涙が、窪んだ胸元へと染み込んでいく。
「い、いただけません……。私のような出来損ないが、このような温かいものを胃に入れていいはずがないのです……!」
震える喉から絞り出された声には、単なる衰弱を越えた生々しい自己嫌悪と罪悪感が色濃く滲んでいた。
「教会の広場には……今日も炊き出しの鍋が空になってしまい、一口の麦粥すら口にできずに雨の中を追い返された人々が何十人もいたのです。震える子供を抱いた母親の……『神の慈悲など嘘ばかりだ』という恨めしい瞳が頭から離れません。神の愛を取り次ぐべき聖職者でありながら、私は人々を救うどころか冷たい言葉で追い払うことしかできない……!救えないのは私の祈りが足りないからです。私の信仰が未熟で、心の底に邪念があるからに違いありません……!」
頭を抱えてすすり泣く青年の細い手首には、骨の形が浮き彫りになるほど肉が落ちていた。自らを極限まで飢餓に追い込んでいたことは、その青白い皮膚を見れば明白だった。
信仰の純粋さゆえに自らを責め苛み、破滅へと向かうその痛々しい姿をケイは静かな眼差しで見つめていた。
かつて理不尽な苦情や仕組みの不備に押し潰され、「自分が悪いからだ」「もっと身を削らなければ」と追い詰められて自滅していった部下たちの姿が、目の前で泣き崩れる若い修道士の肩と重なり合っていた。
信仰を否定することも、安易な慰めを投げかけることも、相手の苦しみを解く鍵にはならない。
ケイは胸ポケットからボールペンを抜き取り、カチリと澄んだ音を立ててノック部を押し込んだ。
「エルノさん、あなたの信仰の尊さや教会が行っている炊き出しという施しの価値について議論するつもりはありません。ただ、起きてしまった事象の輪郭を一つずつ切り分けて確認させてください」
「な、何を……確認するというのです……?目の前で飢えている人々を救えなかったという罪は、何を取り繕っても消えはしません……!」
「今日、あなたの教会の炊事場で煮炊きされた麦の量は、どのくらいの大きさの袋で、いくつありましたか」
感情を交えずに、ただ目の前の事実の分量を問うケイの平板な声音に、エルノは虚を突かれたように涙で濡れた瞳を持ち上げた。
「……え?袋の数……ですか?そ、それは……大聖堂から小教会へ割り振られる決まりですから、大人の膝丈ほどある粗麻の袋で、二つです」
「その二袋の大麦を水と根菜で煮崩し、鉄の大鍋を満たした場合、一杯の木椀で注ぎ分けられる限界の分量は、およそ何人分になりますか」
「……薄く伸ばして配っても、せいぜい百人分が限界です」
「では、今朝の冷え込む雨の中、炊き出しの列に集まっていた平民の方々は、およそ何人おられましたか」
「それは……晩秋の寒さで日雇いの仕事が途絶えた者たちも押し寄せていましたから、百五十人……いえ、二百人近くはいたはずです」
淡々と問いかけに答えさせながら、ケイは手帳の白紙へと正確にその数量を速記していった。
紙面の上で黒い線が規則正しく並び終えた時、ケイはペン先を止め、青年の怯える眼差しを真っ直ぐに見据えた。
「粗麻の袋二つから作られた百人分の粥を二百人の胃袋へ過不足なく行き渡らせることは、通常の方法では不可能です。現場の大鍋の底が尽き、半数の人々を追い返さざるを得なかったのは、あなたの信仰心が薄いからでも、神の愛が不足しているからでもありません。ただ大聖堂から運び込まれた大麦の量が集まった人々の肉体が必要とする総量に満たなかったという計量の結果です」
冷徹でありながら、痛みの本質を事実の枠組みへと落とし込むケイの言葉に、エルノは息を呑んで言葉を失った。
「あなたは自らの祈りの不足という内面の罪にすり替えることで、不可抗力である物理的な不足の責任を一身に背負い込もうとしています。それは謙虚さではなく、生身の人間の限界を無視した傲慢に他なりません。その青白い皮膚を見れば、あなたが自分の食事を抜いて飢えた人々へ差し出した行為は明白です。尊い行為ですが、その結果としてあなたがこうして冷たい泥の上で餓死すれば、明日の朝、大鍋に薪をくべて柄杓を握る人間が一人消え、救われるはずだった百人の口に粥が届かなくなるという客観的な結果を招くだけです」
机の向こうから鉄鍋をかき混ぜていたローランドが、低く乾いた笑い声を添えた。
「ケイの言う通りだぜ、見習い坊主。軍隊じゃあな、補給の荷車を無視して勝手に飯を抜き、行軍の途中で行き倒れる兵隊を『聖人』とは呼ばん。大馬鹿野郎と呼ぶんだ。お前さんが明日もその手で柄杓を握り続けたいなら、まずは自分の身体という一番身近な持ち場を守り抜け」
厳しい現実の論理を突きつけられ、エルノの肩が小さく震えた。
自分を神の代行者であるかのように錯覚し、世界の理不尽を一身に背負い込もうとしていた己の未熟さが、二人の言葉によって静かに白日の下に晒されていた。
ケイは手帳の白紙の端を指先でつまむと、静かな手つきで一枚の紙片を綺麗に切り離した。
机の上に置かれたその小さな白紙の上へ、ボールペンの先端が滑らかに沈み込んでいく。
黒いインクが刻み込んでいったのは、この世界の公用語でも、教会の厳格な聖句でもなかった。
細かく角ばった線と曲線が入り組んだ、極東の島国で培われた現代日本語の文字列。
『有限の器であることを受け入れよ。自らを薪にしてはならない。明日も鍋の前に立ち続けることこそが、現場の責任である』
異世界人であるエルノにはそれが何を意味する文字なのか、天地の向きすら判別することはできない。
しかし、インクの乾ききらないその紙片を両手で差し出された時、青年の胸の奥底へ言葉を越えた重みが確かに染み渡っていった。
「エルノさん、これをお持ち帰りください」
「これは……?見たこともない文字ですが、何と書かれているのですか……?」
「読めなくて構いません。意味を頭で理解する必要もありません。これはあなたが神の教義と過酷な現実の狭間で押し潰されそうになった時、あなたがただの有限な生身の人間であることを思い出すための輪郭を留めたお守りです。自分の命を削って奇跡を起こそうとする衝動に駆られたなら、胸元のこの紙片に触れ、あなたの身体が明日も誰かに粥を配るための大切な道具であることを思い出してください」
差し出された粗末な紙片をエルノは震える両の手のひらで、壊れ物を扱うようにそっと包み込んだ。
神の奇跡を説く教会の分厚い経典よりも、異国の奇妙な文字で刻まれたその冷たい紙の感触が、いまの青年の足元を何よりも強く大地へと繋ぎ止めていた。
「……私は、生きていていいのですね。明日も……あの鍋の前に立って、柄杓を握っていいのですね」
「そのために、まずはその身体に燃料を補給してください」
ケイの穏やかな促しに、エルノは溢れ出る涙を拭おうともせず、差し出されていた木椀を両手でしっかりと抱え上げた。
ローランドが煮込んだ熱いスープを一口すすった瞬間、良質な岩塩の滋味が青年の渇ききった喉を通り、冷え切っていた内臓の隅々へと確かな熱を届けていった。
土間の静寂の中で青年の嗚咽と、命を繋ぎ止める確かな飲み込む音だけが静かに響き渡っていた。
手帳の余白にボールペンを走らせたケイは、胸元へと大事そうに紙片をしまい込む若い修道士の姿を、ただ穏やかな眼差しで見守り続けていた。




