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第15話 琥珀の涙と、背を叩く尾先

 粗末な木の丸椅子に腰を下ろしたソナの背筋は、定規を当てたように真っ直ぐ張り詰めたまま微塵の弛緩も許していなかった。

 深藍色の極太水平尾は床板からわずかな高さを厳格に保ち、大地と平行を維持したまま静かにその質量を横たえている。

 琥珀色の瞳に宿る鋭い光は、机の向こうで白紙の手帳を広げるケイの指先と、その隣でおずおずと身を縮めるルナの顔を往復していた。


「……今朝の点呼の直前、自室の窓枠を乗り越えて滑り込んできたお嬢様の靴底には、街道沿いの湿地特有の赤土がびっしりとこびりついていました」


 ソナの唇から紡ぎ出された声は低く引き絞られ、氷のような冷徹さを装いながらもその奥底で微かな震えを押し殺していた。


「靴を隠そうとするぎこちない仕草、眠り込んだふりをする荒い息遣い、そして何より……服の繊維に染み付いていた野焼きの煙。どれほど世間知らずのお嬢様であっても、王都の敷地内でそのような汚れを纏うはずがありません。裏門の警備記録を密かに調べ、馴染みの老門番が昨夜から今朝にかけて怪しげな通過を見逃した事実を突き止めた時、私の頭の中は真っ白になりました」


 革手袋に包まれたソナの拳が膝の上で白くなるほど強く握り締められ、豊かな胸元を包む白シャツの布地が激しい感情の波に合わせて大きく波打った。


「門限を破って夜の荒野を徘徊するなど狂気の沙汰です。一歩間違えれば狼の群れに肉を引き裂かれ、冷たい土くれの下に埋もれていたかもしれないのですよ!それを……あろうことか、このような得体の知れない墓守の男と共謀して平然と朝帰りをしてのけるなど……!」


 激昂の言葉を叩きつけながらもソナの瞳の奥に滲み出てきたのは、主を責め立てる怒りではなく、底知れぬ破滅を想像した者が抱く、生々しい恐怖の色だった。

 事実の推移を淡々と書き留めていたケイはペンの軸を静かに止め、その怯えの核心を見据えるように視線を持ち上げた。


「ソナさん。あなたがこれほどまでに激しい動揺を露わにされているのは、単に門限を破られたという規律上の問題や護衛としての職責を問われることへの恐怖だけが理由ではないように見受けられます」

「な……何を根拠にそのような無礼を!」

「相手を責める言葉の端々に、過剰なまでの自責の響きが混ざり合っているからです。あなた自身の胸の内にある、もっと根深い痛切な引っかかりをお聞かせ願えませんか」


 感情の濁流に呑まれることなく静かに心の奥底にある急所を指し示されたソナは、息を呑んで唇を震わせた。

 否定しようと言葉を探すように宙を彷徨った彼女の視線が机の端に置かれていた手帳の片隅、ルナが描いたばかりの「大盾と焚き火に寄り添う鈴の絵」へと吸い寄せられた瞬間、張り詰めていた仮面が音を立てて崩れ去った。


「……私のせいです」


 絞り出すように零れ落ちたその一言とともに、ソナの瞳から大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちて頬を濡らした。


「お嬢様に……外の世界の街道や石造りの見張り台から昇る朝焼け、村祭りの賑わいについて語り聞かせたのは、他ならぬこの私なのです……!幼い頃に行き倒れていた私を拾い、家族のように温かく迎え入れてくださったお嬢様に喜んでほしくて私がつまらない旅の話をお聞かせしたから……そのくだらない憧れのせいで、お嬢様は夜の荒野へと飛び出してしまった……!」


 両手で顔を覆い、肩を激しく震わせるソナの姿は冷徹な護衛兵などではなく、大切な友人を自らの軽率さによって失いかけた等身大の少女そのものだった。


「もし……もし、お嬢様が魔獣に喉笛を引き裂かれて命を落としていたら、私は……私は旦那様やお屋敷に対して申し開きができないどころか、自分自身の命を断っても償いきれなかった……!怖くて……心臓が止まりそうだったのです……!」


 痛切な自己嫌悪と後悔の叫びが土間に響き渡る中、ルナが息を呑みたまらず丸椅子の横へと駆け寄った。

 裾を揺らしながら膝をついたルナは泣き崩れるソナの手を両手で包み込み、自らの額をその震える指先へと押し当てた。


「ソナ、顔を上げるのじゃ……!決してソナのせいなどではないぞよ!お主が教えてくれた外の景色は、息苦しかったわらわの胸を救ってくれた唯一の光じゃった。夜の街道へ出たのも、己の未熟さを知らずに浮かれて門限を破ってしまったのも、すべてはわらわ自身の甘えと浅慮が招いた結果なのじゃ!」


 主としての威厳を取り繕うことなく自らの過ちを認めて必死に訴えかけるルナの姿を見届けながら、ケイは手帳の上でボールペンのノック部を静かに押し込んだ。


「ソナさん、事実を整理しましょう。あなたが外の世界の美しさを語ったことと、ルナさんが夜宿という危険に直面したことの間には、直接の因果関係はありません」

「ですが……私が話さなければ、お嬢様が外へ出ようなどと……」

「いいえ、ルナさんが外の世界を目指したのは、敷かれたレールに塗りつぶされることを恐れ、自らの足で未来を切り拓こうとした彼女自身の意志による選択です。あなたが手渡したのは破滅への引き金ではなく、暗闇の中で立ち止まっていた彼女の足元を照らす最初の灯火でした。他人の抱いた希望の責任をすべて自分が背負い込もうとするのは、思い上がりに他なりません」


 冷徹でありながら痛みの本質を正確に解きほぐすケイの言葉に、ソナは涙で濡れた瞳を大きく見開いた。


「ルナさんは本物の暗闇と魔獣の恐怖を肌で学び、屋敷という防壁のありがたさを骨身にしみて理解しました。その上でなお彼女は自らの力と知恵を蓄え、いつか外へ踏み出したいと願っています。無知な逃亡者から現実を見据える旅人へと彼女を成長させたのは、あなたが灯したその憧れがあったからこそです。自分を責めるのはおやめください。あなたの職能と情愛は、何一つ間違っていません」


 感情を排し、事実だけを鏡のように映し出して己の存在を根底から肯定された瞬間、ソナの喉の奥から小さな嗚咽が漏れ出た。

 張り詰めていた心の重荷が綺麗に解け落ち、彼女は子供のように袖口で涙を拭いながら力なく息を吐き出した。


「……ずるい人ですね。そんな風に整然と並べられたら、言い返す言葉も見つかりません」


 不満を訴えるように尖らせたソナの唇がふにゃりと柔らかく緩み、年相応の幼さを残した愛らしい笑顔へと変わっていく。

 感情の弛緩に連動するように腰から伸びていた深藍色の極太水平尾の先端が、ふわりと持ち上がった。

 大地と平行を保ったまま滑らかにしなったその重厚な尾の先が、卓の向こうに座るケイの背中をトントンと親愛を込めて優しく叩いた。

 仲間との交信で示す、深い安堵と信頼のスキンシップだった。


「お前さんたちの湿っぽい問答を聞いてるだけで、こっちの肩まで凝って仕方がないぜ。ほら、冷めないうちに腹へ入れな」


 かまどから戻ってきたローランドが、湯気の立ち昇る素焼きの器をソナの前へと無造作に置いた。

 開拓村の良質な岩塩で味付けされた温かいスープの香りが、泣き腫らしたソナの鼻腔をくすぐる。


「……いただきます。あの、お嬢様を助けてくださったこと……礼を言います」


 素直に一口すすったソナの琥珀色の瞳が、滋味深い塩気に驚いたように丸くなった。

 その愛らしい表情を見守りながら、ルナは腰の銀鈴を嬉しそうに鳴らし、ケイもまた手帳の白紙へと静かにペン先を沈めた。


『専属護衛兵ソナ、点呼の痕跡より来訪。主従の対話を経て、外泊の事実および精神的成長を共有。以後の警護における情報連携を確立』


 事実だけを淡々と紡ぎ出す黒いインクの線の隣で、ソナの水平尾が楽しげに微かな風の渦を巻いていた。

 冷たい墓場の片隅にある小さな相談所はまた一人、自らの言葉を取り戻した確かな仲間をその食卓へと迎え入れていた。


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