第13話 塩の利いた煮込みと、三つ目の鈴
小春日和の柔らかな日差しが墓石の頭に積もった朝露を銀色に煌めかせ、静かな墓守小屋の土間にはこれまでにない芳ばしい湯気が満ちていた。
かまどの上に掛けられた鉄鍋の中では、西の村から持ち帰ったばかりの貴重な岩塩の塊を削り落とし、干し肉と根菜をじっくりと煮込んだスープが小さな気泡を立てて静かに煮崩れていた。
手入れの行き届いた素焼きの壺にたっぷりと満たされた塩の粒と、ランプ用の油を満載した瓶の列が、わずか数日前まで底をつきかけていた生活の器を確かに潤している。
「おいケイ、塩加減を見てみろ。街の飯屋なんぞには逆立ちしても敵わんが、胃袋の芯まで染み渡るくらいの塩気には仕上がってるはずだ」
使い古された木べらを握るローランドが顎で鍋を指し示しながら、珍しく満足げな喉を鳴らした。
板敷きの上で対応記録の手帳を広げていたケイは、差し出された木椀の縁に口をつけ、舌の上に広がる確かなミネラルの厚みと肉の旨味をじっくりと味わった。
「素晴らしい味付けですね。ただ塩気があるというだけでなく、身体の奥底から冷えを追い出してくれるような力強い滋味を感じます」
「ま、これだけ上等な岩塩を手に入れられたんだ、不味く作る方が難しいってもんさ。バルトの奴もギルドへ戻って無事に一杯引っ掛けてる頃だろうよ」
元騎士が手際よく木椀を三つ並べ終えたその時、静寂を破るようにして小屋の扉が勢いよく押し開けられた。
足元まで隠れる長い防寒用のコートを乱暴に脱ぎ散らしながら息を切らせて滑り込んできたのは、細いツインテールを激しく揺らしたルナだった。
上質な藍色のワンピースの胸元を激しく上下させ、土間の敷石へ手をつき真っ赤になった顔を上げた。
「ハァ、ハァ……!ケイ、ローランド!わらわは無事に、誰一人として怪しまれることなく自室の敷居を跨いでみせたぞよ!」
弾けるような勝利宣言を響かせたルナは、胸の前で握り拳を突き上げ、得意げに鼻を鳴らしてみせた。
その眩しい活気にケイは胸を撫で下ろすように息を吐き、穏やかな会釈を返した。
「えーっと、おかえりなさい、ルナさん?怪我もなく誰にも咎められずに戻られたようで安心いたしました」
「まったく、大騒ぎしながら駆け込んでくるんじゃない。貴族の小娘がそんな息を切らして墓場へ飛び込んできたら、追手でも連れてきたかと勘違いしてスコップを構えるところだったぞ」
呆れ顔を作るローランドの抗議など耳に入らない様子でルナは椅子へと崩れ落ちるように腰を下ろし、机の縁に豊かな胸元を乗せて深い息を漏らした。
「ローランドの顔馴染みの門番殿が、実に見事な手引きをしてくれたのじゃ!裏庭の生垣の隙間から猫のように潜り込み、朝の鐘が鳴り響くと同時に寝台の中へ滑り込んで、毛布を頭まで被ってやったぞよ!そのすぐ直後に侍女が部屋の扉を開けたのじゃが……『まあルナ様、今日は随分とお寝坊ですこと』と呆れられただけで不問に付されたのじゃ!」
心臓が喉から飛び出るほどの早鐘を打っていたのだと身振り手振りを交えて語る少女の瞳には、過酷な夜間逃避行を乗り切った者特有の興奮と誇らしさが満ちていた。
しかし、ローランドから差し出された温かいスープの木椀を受け取り、その立ち昇る湯気に触れた瞬間、ルナの幼い顔立ちからふっと力が抜け琥珀色を帯びた瞳に静かな揺らぎが戻ってきた。
「……それでな、ケイ。布団の温もりに包まれて一人で天井を見上げておった時にな、不思議な心地が胸の底から湧き上がってきたのじゃ」
木のスプーンを動かす手を止め、ルナは静かに視線をスープの底へと落とした。
「あの屋敷の部屋がどれほど温かくて安全な場所であったかをわらわは生まれて初めて骨身にしみて理解したのじゃ。どれほど厳格な母上に小言を言われようとも、屋根があり、冷たい風も吹き込まず、狼の遠吠えに怯えて震える必要もない。……あんなに息苦しくて飛び出したかったはずの部屋が、まるで安全な鳥籠に見えて涙が止まらなくなってしまったのじゃよ」
誰にも言えなかった本音を吐露するルナの声には、前回の逃避行で見せていた自暴自棄の響きはなく、自分の足元をしっかりと見つめ直した者の深い実感が宿っていた。
手帳を開いたまま静かに耳を傾けていたケイは、ボールペンのノック部を指先で軽く押し込み、相手の視線を優しく受け止めた。
「安全な場所の価値を再認識されたのですね。それは暗闇の冷たさと魔獣の脅威をその肌で体験したからこそ得られた極めて尊い気付きです」
「うむ……。でもな、ケイ。部屋の温もりに泣くほど感謝しながらも、わらわの胸の奥底にあった『外の世界を見たい』という想いは少しも消えてはおらなかったのじゃ。それどころか、あんなに恐ろしい夜を過ごしたというのに……あの焚き火の温かさやバルトの構えてくれた大盾の重厚さ、そしてケイが語りかけてくれた言葉のすべてが、頭から離れなくなってしまったのじゃよ」
矛盾した感情に戸惑うように眉尻を下げるルナに対し、ケイは手帳に挟んだペンの背で紙面を軽く叩き、穏やかな微笑みを浮かべた。
「矛盾などしていませんよ、ルナさん。あなたは無謀な逃亡者から本当の旅人への第一歩を踏み出したのです」
「本当の旅人……?わらわのような世間知らずがかの?」
「かつてのあなたの憧れは、背後の現実から目を逸らすための無知な逃走劇に過ぎませんでした。しかし今のあなたは外の世界が持つ冷酷な危険と屋敷という防壁が持つ確かな恩恵の双方を正しく理解しています。危険を知った上でなお自分の意志で前を向こうとする姿勢こそが、本物の覚悟というものです。屋敷をただ嫌って飛び出すのではなく、その安全な鳥籠の中で知恵と力を蓄え、半年後の縁談に対抗するための準備を整える。そのための猶予が、あなたにはしっかりと残されています」
感情の濁流に足を取られそうになる少女の心を冷徹でありながら確かな論理で拾い上げていくケイの言葉に、ルナの瞳へじわりと温かい光が灯っていった。
木椀のスープを一口飲み込んだルナは、舌の上に広がる芳醇な塩気と滋味に目を丸くし、それから泣き笑いのような晴れやかな笑顔を咲かせた。
「……美味しいのじゃ!塩の味が実によく利いておって岩陰の焚き火を思い出すような深い温もりがあるぞよ!」
「開拓村の連中からせしめてきた上等な岩塩だからな。お嬢さんが震え上がったおかげで、この小屋の飯もしばらくは人並みの味になりそうだぜ」
ローランドがからかい交じりに鼻を鳴らす中、ルナは卓の端に置かれていたインク壺へと手を伸ばし、使い慣れた羽ペンの切っ先を慎重に浸した。
手帳の白紙の余白、前回の記録のすぐ隣へと身を乗り出したルナは藍色のワンピースの裾を揺らしながら、細く長いツインテールを跳ねさせて羽ペンを走らせていく。
木漏れ日の差し込む紙面の上に浮かび上がってきたのは、無骨な大盾の陰でパチパチと爆ぜる小さな焚き火と、その炎の明かりに照らされながら仲良く肩を寄せ合って揺れる小さな丸い銀鈴の絵だった。
これまで描かれてきた単独の鈴とは異なり、厳しい夜の試練を共に乗り越えた仲間たちの気配を宿したその愛らしい挿絵は、無機質だったはずの対応記録に色鮮やかな生命の息吹を吹き込んでいた。
「ふふ、三つ目の鈴の完成じゃ!この絵を見返せば、どれほど暗い夜が訪れようとも火を囲んで夜明けを待つ勇気が湧いてくるはずじゃからのう!」
満足げに息を吐いたルナが羽ペンを置いたその瞬間、土間の空気がわずかに張り詰めた。
かまどの火種を払っていたローランドが動かしていた手をぴたりと止め、板壁の隙間を通して小屋の外へと鋭い視線を向けたのだ。
かつて数多の戦場を駆け抜けてきた元騎士特有の気配を察知した瞬間の研ぎ澄まされた緊張感が、室内の穏やかな温度を一瞬にして塗り替えていく。
その異様な変化に気づいたケイもまた、バルトから教わった感覚を呼び覚ますように、背筋を伸ばして耳を澄ませた。
風に乗って届いたのは、乾いた草葉を踏みしだく音ではなかった。
微かな衣擦れの気配とともに普通の人間とも野生の魔獣とも異なる、信じがたいほど重厚でしなやかな何者かの質量が、小屋の外壁に沿って静かに滑り込んでくる独特の空気の乱れ。
板壁のすぐ向こう側、風下の死角に何者かが身を潜め、中の会話の一言一句にじっと耳を澄ませている気配が冷たい影となって静かに横たわっていた。
「……ローランドさん?」
「静かにしろ。どうやらお嬢さんの朝帰りに首を傾げていたのは、屋敷の侍女だけじゃなかったらしいぜ」
ローランドが低く乾いた囁き声を落とし、壁に立て掛けられていた手入れ用のスコップの柄へと、音もなく無骨な手を伸ばした。
何気なく木椀を置こうとしていたルナが二人のただならぬ空気に息を呑み、腰の銀鈴を慌てて小さな手の中で包み込む。
静まり返った小屋の薄暗い土間に外の隙間風が微かに吹き込み、板戸の立て付けをギシリと小さく軋ませていた。
お読みいただきありがとうございます。
連休中も更新予定です。




