第11話 岩陰の焚き火と、朝露の通用門
岩棚の隙間へと深々と打ち込まれた黒鉄の大盾が夜を切り裂く冷たい木枯らしを遮り、わずかに残された窪みの中にささやかな防空壕を作り出していた。
煙の立たない乾燥した小枝の焚き火がパチリと小さな火の粉を散らしながら、身を寄せ合う三人の疲れた横顔を淡い朱色に染め上げている。
大盾の向こう側からは枯草を踏みしだく無数の足音と、喉の奥を鳴らす獣の湿った息遣いが途切れることなく風に乗って運ばれていた。
夜行性の餓狼たちが放つ独特の生臭い体臭と、遠くの森から響き渡る不気味な遠吠えを耳にするたび、ルナは防寒着の裾を両手で固く引き絞り、顎が鳴るほどの震えを必死で抑え込んでいた。
「わらわは……とんでもない思い上がりをしておったのじゃ。屋敷の生垣を飛び越えたくらいで、外の世界を一人で旅できる気になって……その実、夜の闇一つで足腰が立たなくなるただの愚か者じゃった」
膝を胸元へ抱え込んだルナの瞳から大粒の涙が零れ落ち、焚き火の熱気で乾きかけた岩肌へと黒い染みを作っていった。
昼間に王都の外壁を背にして駆け出していた時のあの眩しい全能感は、本物の死の気配を前にして完全に消え去り、取り返しのつかない罪悪感となって少女の心を容赦なく打ちのめしていた。
「ケイの足を痛めさせ、バルトに命懸けの警戒を強いて、その上わらわは門限を破ってすべてを台無しにしてしまったのじゃ。明日の朝、屋敷に帰ったところで弁明など通るはずがないし、父上たちから二度と外へ出られぬよう屋敷に閉じ込められるに決まっておるぞよ……!」
己の浅慮を責め立て破滅の結末を口にして身を縮める少女の姿を、ケイは手帳を開いたまま静かに見つめていた。
かつてコールセンターの現場で取り返しのつかない不祥事や失敗を起こしてパニックに陥り、自暴自棄になって泣き崩れていた部下たちの姿が目の前の小さな肩の震えと重なり合っていた。
感情が臨界点を超えて溢れ出している相手に対して安易な慰めや同情を投げかける行為は、かえって自己憐憫を深めさせ、現実を見つめる力を奪ってしまう。
ケイは胸ポケットからボールペンを抜き取り、カチリと澄んだ音を立ててノック部を押し込んだ。
「ルナさん、取り返しがつかないという判断は、事実に基づいたものではありません。状況を一つずつ切り分けて確認しましょう」
「で、でも……わらわが愚かだったせいで、こんな恐ろしい場所に取り残されて……」
「結果として夜宿を余儀なくされたことは事実ですが、私たちは誰一人として怪我を負っていませんし、貴重な塩と油も無事に木車の上に守られています。未知の危険に対して恐怖を覚えるのは、生き物が命を繋ぐために備えている極めて正常で合理的な防衛本能です。昼間の根拠のない万能感を失ったことは、決して後退ではありません。あなたは今日、外の世界が持つ本物の過酷さを肌で学び、最初の一歩を正しく踏み出したのです」
感情の刃を交えずに起きてしまった事象の輪郭を冷静に定義し直すケイの声音は、冷え切った岩陰の空気に静かな落ち着きをもたらしていった。
否定も罵倒もされず、己の恐怖すらも前進の過程として肯定されたことにルナが息を呑んだ瞬間、焚き火の向こうから低く濁った笑い声が静かに響いた。
「小娘、この盾に刻まれた傷跡をよく見てみろ」
小枝を火にくべていたバルトが、岩肌に固定された人間ほどの大盾の表面を無骨な革手袋の指先で撫で回していた。
無数の爪痕や牙の削り跡が重なり合い、金属の光沢を鈍く濁らせているその無骨な防壁を見つめながら、歴戦の狩人は煙の向こうから静かな眼差しを投げかけてきた。
「最初から夜の荒野を平気な顔で歩ける奴なんざ、この世に一人もいねえよ。俺だって十代の頃、初めての街道警備で狼の群れに囲まれた夜は、恐怖のあまり小便を漏らしかけて剣すら抜けなかった。死ぬのが心底怖かったからこそ俺は功名を競う派手な剣を捨てて、誰よりも重くて頑丈なこの盾を背負う道を選んだんだ。臆病であることは恥じゃない。臆病だからこそ風下を嗅ぎ、危険の気配を察知して、こうして生き延びることができるのさ」
世間から腰抜けと誹謗されながらも、誰よりも確実に仲間を生還させてきた銀等級冒険者の言葉には、机上の空論を寄せ付けない圧倒的な説得力が宿っていた。
職人としての誇りを取り戻した大男の無骨な励ましにルナは濡れた瞳を大きく見開き、胸元に当てた自分の小さな両手をじっと見つめ直した。
「怖がることを……恥じる必要はないのじゃな……?」
「その通りです。明日の朝、通用門が開いた瞬間に駆け込む道筋は、まだ確実に残されています。失われていない可能性を自ら手放すのはやめましょう。まずはこの焚き火の温もりを受け入れ、体力を温存してください」
ケイの促しにルナは小さく鼻をすすり、こくりと力強く頷きを返した。
凍えていた指先を炎にかざし、温かい吐息を漏らす彼女の横顔には最初の逃避行で見せていた自暴自棄の影はなく、現実を受け入れて前を向こうとする小さな誇らしさが宿っていた。
手帳の白紙にペン先を走らせ、荒野での越夜と安全の確保という事実を淡々と書き留めたケイは、隣で静かに息を整え始めた少女の肩へ自らの厚手の羽織りものをそっと掛け直してやった。
岩棚の隙間から差し込む風の冷たさが和らぎ、東の地平が藍色から淡い白銀色へと移ろい始めた頃、外を取り囲んでいた魔獣の気配が急速に潮を引くように薄れていった。
夜行性の獣たちが日光を嫌って鬱蒼とした雑木林の深奥へと退いていくのをバルトは鼻を鳴らして慎重に確かめると、楔のように打ち込んでいた大盾を岩肌から力強く引き抜いた。
「奴らは引いたぞ。門番の交代刻限まで時間がない、一気に街道を駆け抜けるぞ」
大男の鋭い合図とともに、三人は朝霧の立ち込める砂利道へと踏み出した。
昨日の無理が祟り、擦れ慣れていない安靴の踵から走る激痛にケイの足取りは思わず千鳥足になりかけたが、バルトが無言で木車の柄を片手で軽々と引き上げ、推進力の大部分をその逞しい肩で肩代わりしてくれた。
ルナもまた、腰の銀鈴が鳴り響いて周囲の警戒を乱さぬよう小さな手のひらで鈴の腹をしっかりと包み込みながら、引き締まった素足で朝露の残る轍を懸命に蹴り進んでいく。
王都の西側を囲む巨大な石造りの城壁が朝焼けの光を浴びて眼前に迫った時、裏門の詰所からは朝の交代を告げる鐘の音が小さく響き始めていた。
重厚な鉄格子の落とされた通用口の脇、冷たい石壁の死角に身を滑り込ませたバルトは懐から取り出した真鍮の古びたコインを小窓の格子へと差し入れ、独特のリズムで三度、金具を打ち鳴らした。
鉄扉の覗き窓が軋んだ音を立てて細く開き、眠気味を帯びた年配の衛兵が怪訝な面持ちで外の気配を窺った。
コインの刻印を一瞥した老兵の眉がわずかに跳ね上がり、ローランドの名を口にするまでもなく無言のまま重々しいかんぬきが外される音が静寂を破った。
「急ぎな、次の交代の隊長が詰め所を出るまで、あと数分もありゃしねえぞ」
擦れた声で囁く老兵の脇をすり抜け、三人は滑り込むようにして王都の内側へと足を踏み入れた。
夜明け前の静けさに包まれた外縁の路地裏でルナは深く被っていたフードをさらに引き下げ、二人に向き直って深々と頭を下げた。
「ケイ、バルト、本当にありがとうぞよ……!わらわは屋敷の自室へ戻り、今日のことをしっかりと心に刻んでおくのじゃ。……墓場小屋には、また必ず顔を出すからのう!」
小走りで裏通りの角を曲がり、屋敷の生垣の隙間へと猫のように軽やかに飛び込んでいく少女の後ろ姿を二人は朝の冷気の中で静かに見送った。
点呼を告げる鐘が鳴り渡る中、自室へと無事に滑り込んだであろう気配を感じ取り、ケイは深く胸の奥底に溜まっていた重たい息を吐き出した。
荷車を軋ませながら墓地の細道へと戻ってきた頃には、朝日が名もなき盛り土の列を優しく照らし出していた。
小屋の入り口では使い古されたスコップの刃を布で拭っていたローランドが、顎をしゃくって二人を出迎えた。
「無様に狼の腹に収まることもなくきっちり朝帰りとはいい度胸だな。で、お嬢さんは無事に鳥籠へ滑り込めたのか?」
「ええ、ローランドさんの古いお知り合いのおかげで、点呼の前に裏庭へ戻ることができました」
「なら上出来だ。お前さんのその酷い歩き方を見る限り、途中で荷車ごと転がり落ちるかと思ったがな。……入れ、湯は沸いてる」
元騎士のぶっきらぼうな労いに背中を押され、ケイは土間の長椅子へと崩れ落ちるように腰を下ろした。
木車から下ろされた貴重な塩の塊と素焼きの油瓶が、朝の光を浴びて卓の端で確かな存在感を放っている。
バルトもまた大盾を壁際へと立て掛け、差し出された熱い野草茶を満足げに喉へと流し込んでいた。
ケイは痛む足を休ませながら内ポケットから取り出した手帳を板敷きの上に広げた。ボールペンのペン先が、余白の残されたページへと滑らかに沈み込んでいく。
『近隣農村への物資調達完了。街道における夜行性魔獣の回避および岩陰での越夜。全員無事に王都へ帰還』
事実だけを淡々と紡ぎ出す黒いインクの線の隣には、まだルナの描いた愛らしい鈴の絵が前回のまま静かに揺れていた。
未知の暗闇を越え、過酷な現実をその肌で知った少女が、次にこの白紙へどんな鈴を描き足すのか。
痛む身体の奥底に広がる確かな充実感を噛み締めながら、ケイは朝の澄んだ光に包まれた手帳を静かに掌で閉じた。




