第10話 弾む銀鈴と、薄暮の足止め
朝霧が晴れ渡り、高く澄み渡った青空が広がる墓場の片隅で、粗末な木車の車輪がギシリと軋んだ音を立てた。
前日にバルトとの間で結ばれた約束を受け、木車の上には墓参り客からいただいたお供え分けの余りである穀物の麻袋と乾燥肉が手際よく積み込まれていた。
「王都の中の市場で手放せれば、わざわざ街道を歩く苦労も減るのですが」
「街の小綺麗な商人どもが、墓守の持ち込んだ供え物なんぞまともに買い取るかよ。死人の腐敗と疫病が染み付いた不浄の品だと塩を撒かれて追い払われるのがオチだし、お前さんみたいな身分証も持たない行き倒れが市場をうろついてみろ、衛兵に首根っこを掴まれて地下牢へ放り込まれるのが関の山だ。……外の村の連中なら多少気味悪がりはしても、生き延びるための実利を重んじて物々交換に応じてくれる」
小屋の入り口で使い古されたスコップの刃を研ぎながら、ローランドは鼻を鳴らして冷ややかな現実の仕組みを言い含めた。
腰に手を当てて見送りに立つ元騎士に対し、ケイは深く会釈を返し、荷車の取っ手を握り直した。
「留守中の小屋と墓場をよろしくお願いいたします」
「気にするな、俺が半日ここを空けてみろ、野犬や墓荒らしどもが穴を穿り返して死人たちがお祭り騒ぎだ。それに俺は冷たい土くれを見張るのが生業の男だからな。陽の当たる街道なんぞ今更歩く気も起きんよ」
自嘲気味に口端を吊り上げるローランドの背中を見送り、三人は朝露に濡れた共同墓地を後にして王都の西へと続く街道へと踏み出した。
巨大な石造りの城壁を背にして一歩外の大地を踏みしめた瞬間、ルナの全身から弾けるような歓喜が溢れ出した。
足元まで隠れる長いフード付きコートの前を少しだけ開き、彼女は跳ねるような小走りで街道の脇道へと駆け出していく。
短めの裾から覗く健康的で引き締まった素足が軽やかに躍動するたび、腰に結ばれた銀の鈴がチリンチリンと秋の澄んだ空気を震わせて涼やかな音色を響かせていた。
「ケイ、見てみるのじゃ!本当に王都の壁の外にも道がどこまでも続いておるぞよ!屋敷の護衛兵たちが話しておった通りの立派な並木道じゃな!」
フードの隙間から細く長いツインテールを跳ねさせ、ルナは道端に咲く淡い紫色の野花に顔を近づけては、まるで初めて外界の光を浴びた小鳥のように爛々と瞳を輝かせた。
走ったり飛び跳ねたりすることが大好きな彼女にとって、厳しい淑女教育で縛り付けられていた屋敷の檻を抜け出し、お気に入りの動きやすい装いで大地を駆け抜けるこの瞬間は、何ものにも代えがたい冒険そのものだった。
「ルナさん、あまり先へ駆け出さないでください。足元の石で転んでしまいますよ」
「平気じゃ平気じゃ!わらわの足は屋敷の庭の生垣だって一っ飛びに越えられるのじゃから!……あそこに見える煙の立ち昇る場所が、目指す村かの!?」
楽しげに振り返って手を振る少女の眩しい活気に、ケイは苦笑交じりの息を漏らしながらも自分の足腰の限界に早くも直面していた。
現代日本の空調の効いた室内で受話器とパソコンに向き合い続けてきたデスクワーカーの身体にとって、未舗装の砂利道を踏みしめながら重い木車を押す動作は、想像を絶する負荷となって襲いかかってきた。
擦れ慣れていない安靴の革が踵の皮膚を無慈悲に削り取り、滲み出た血の熱さと腰に走る鈍い軋みによって、息は早くも乱れ始めていた。
「おい小僧、無理に荷車を腕力で押そうとするな。肩の力を抜いて腰の重心を前に傾けて車輪を転がせ」
巨大な黒鉄の大盾を背負ったバルトが歩調を緩め、無骨な手を伸ばして荷車の柄を片手で軽く押し上げてくれた。
銀等級の熟練者が持つ長年の過酷な踏破から培われた無駄のない身体の使い方は、見る者すべてを納得させる説得力に満ちていた。
正午を回る頃に辿り着いた村は、粗末な丸太小屋と痩せた畑が連なる貧しくもたくましい人々の営みの場だった。
墓守の使いという身元に村人たちは露骨な警戒を浮かべ、遠巻きに冷たい視線を向けてきたものの、木車に積まれた乾燥豆と良質な黒パンの現物を見せると背に腹は代えられないとばかりに奥から貴重な岩塩の塊と素焼き瓶に入ったランプ用の油を差し出してきた。
無事に物資の交換を終えた瞬間、村の鍛冶場の脇で農具の鉄鍬を巡って激しい口論を繰り広げていた親子が、ケイの視界へと飛び込んできた。
壊れた道具を買い直す路銀がないと喚く若者と、騙し騙し使い続けるしかないと頑なに怒鳴り返す父親の姿に、ケイは職業病のように足を止めてしまった。
相手の言い分を遮らず、感情的な罵倒の裏に隠された困窮と焦りを淡々と整理し、村の廃材を利用した一時的な補修の選択肢を提示する。
親子の胸のつかえが下り、安堵の息を漏らすのを見届けた頃には、傾き始めた太陽が西の稜線を不穏な茜色へと染め上げていた。
「ケイ、大変じゃ、早く戻らねば通用門が閉まってしまうぞよ……!」
ルナの焦りを帯びた声に急かされるようにして村を後にしたものの、帰路の街道には急速に夜の帳が降り注ぎ始めていた。
夕暮れ前の明るかった景色は一変し、街道を囲む木々はざわざわと不穏なざわめきを立て、冷たい夜風が吹き抜けていく。
焦燥感から痛む足を引きずり早足で進もうとするケイたちの前に、突然、黒鉄の壁のような巨躯が立ち塞がった。
バルトが足元の土煙を蹴り落とし、巨大な大盾を道の中央へ深々と突き立てて静止の合図を送っていた。
「ここまでだ。これ以上、進むことはできん」
擦れた低い声には先ほどまでの穏やかな引率者の気配はなく、歴戦の狩人特有の研ぎ澄まされた緊張感が張り詰めていた。
「……風下を嗅いでみろ、闇の中で首を食いちぎられるぞ」
言われて息を殺したケイの鼻腔をかすめたのは、枯草の匂いに混ざり合う胸が悪くなるような獣の生臭い体臭と、腐肉の異臭だった。
街道沿いの鬱蒼とした雑木林の奥深く、夕闇に溶け込んだ木の根元に、ぼんやりと不気味な青白い燐光が幾重にも瞬いている。
「夜行性の餓狼の群れだ。飢えたやつらが風下に陣取って獲物を待っている。昼間ならともかく、視界の利かない夜の街道で荷物を抱えた素人二人を連れて強行突破すれば十中八九、大盾の隙間を抜かれて誰かの喉笛が裂ける。……悔しいだろうが、ここで足を止めるぞ」
銀冒険者の冷徹な状況判断が下された瞬間、ルナの顔からさっと血の気が引いていった。
衝動的に屋敷を飛び出した前回の夜とは異なり、今夜は日帰りの外出という建前で部屋を抜け出してきたのだ。
王都の通用門が閉ざされ朝まで帰宅できなくなれば令嬢としての言い訳は破綻し、明日の朝には近郊一帯へ捜索隊が放たれることになる。
昼間のあの無邪気なワクワク感は跡形もなく消え去り、底知れぬ破滅の恐怖が少女の小さな身体を容赦なく打ちのめしていた。
「そ、そんな……!門限を破れば、わらわはもう……屋敷におられなくなってしまうのじゃ……!」
恐怖に震えるルナの膝が折れ、地面へと崩れ落ちそうになった瞬間、ケイは痛む足の激痛を堪えて彼女の細い肩を抱き留めた。
街道脇の巨大な岩棚の窪みへと二人を誘導したバルトは、黒鉄の大盾を岩の隙間へと楔のように打ち込み、外の風と獣の視線を完全に遮断する頑丈な防壁を瞬く間に構築してみせた。
「騒ぐな小娘、声を荒らげれば奴らが寄ってくる。夜風を防ぐ枯れ枝を集めてくるから、身を縮めて待っていろ」
手早く周囲の安全を確認したバルトが、音もなく夜の茂みへと消えていく。
冷え切った岩肌に背中を預け、生まれて初めて経験する荒野の漆黒の暗闇と、遠くで響く魔獣の不気味な遠吠えに、ケイ自身の指先も小刻みに震えていた。
しかし、隣で膝を抱え涙を堪えている少女の姿を目にした瞬間、胸の奥底にあった空っぽの器が、静かに静寂を取り戻していった。
ケイは上着の内ポケットから使い慣れた手帳を取り出し、胸元からボールペンを静かに抜き取った。
カチリと鳴った小さなノック音が闇に閉ざされた岩陰に、日常の温もりを告げる確かな合図として響き渡る。
「ルナさん、足元が冷えます。まずは私の防寒着を足元へ掛けて深呼吸をしてください」
「ケイ……わらわは取り返しのつかぬことをしてしまったのじゃ……。浮かれて村まで付いてきて、そのせいで門限を破って……もう、おしまいじゃ……」
絶望に呑み込まれ、自責の念に押し潰されそうなルナの濡れた瞳をケイはペンを構えたまま真っ直ぐに見つめ返した。
「起きてしまった事実を後悔しても失われた時間は戻りません。いま大切なのはこの夜を無事に生き延び、明日の朝一番で通用門へ滑り込むための余白を確保することです」
「明日の朝……?」
「はい。夜明けと同時に門が開いた瞬間、ローランドさんの顔馴染みの門番を頼って屋敷の裏庭へ戻れば、朝の点呼には辛うじて間に合う可能性が残されています。そのためには今夜、寒さと恐怖に体力を奪われるわけにはいきません。……事実を整理しましょう。敵は魔獣の群れ、味方は銀の盾を持つバルトさん、そして私たちは風を凌げる安全な岩陰にいます。破滅と決めつけるには、まだ状況証拠が足りませんよ」
淡々とした調子で現実の輪郭を切り分け、絶望の濁流から救い上げていくケイの言葉に、ルナは息を詰まらせ、それから震える手で己の太ももをぎゅっと抱きしめた。
戻ってきたバルトが煙の立たない乾燥した樹脂の多い小枝に火を灯し、岩陰の中央へ小さな焚き火の温もりをもたらす。
パチパチと爆ぜる微かな炎が、手帳の白紙と身を寄せ合う三人の顔を優しく照らし出していた。
初めての街道の夜、遠くで響く飢えた獣の遠吠えに耳を澄ませながら、ケイは手帳の白紙を指先で見つめ明日の朝への確かな足場を静かに心の中に築き上げていた。




