第9話 銀の古傷と、酒場の片隅
日の柔らかな陽光が墓の頭を撫でる朝、小屋の土間では生活の行き詰まりが小さな器の底に現れていた。
かまどの脇に並べられた素焼きの壺を傾けたケイは、底に張り付いたわずかな塩の粒を見つめ、静かに眉根を寄せた。
墓参り客からいただくお供え分けによって、黒パンや乾燥させた豆類には事欠かなくなっていたものの、日々の煮炊きに欠かせない塩やランプを灯すための油、土を掘る道具を繕うための留め具は、自分たちの手で外から調達してくるほかなかった。
「ローランドさん、近隣の農村まで足を延ばし、お供え分けの余りを生活物資と交換してまいりたいのですが」
「断る。お前さんだけで街道へ出たら、野盗か野獣の格好の餌食になって、帰ってくる頃には穴の住人だ」
鉄鍋を布で拭っていたローランドは、ケイの申し出を一言の下に切り捨て、呆れたように手袋を投げ出した。
机の端に腰掛けていたルナが、ワンピースの裾を揺らしながら不服そうに丸い頬を膨らませる。
「むぅ、ローランドは大袈裟じゃぞよ!昼間の街道であれば、荷車を行き交わせる農夫たちもおるはずじゃ。わらわの足なら少々の危険など跳び越えてみせるのじゃ!」
「跳び越えられるか大馬鹿野郎。王都の城壁を一歩出れば、そこは魔物の徘徊する荒野だぞ。貴族の小娘が足首を丸出しにして歩いてみろ、血の匂いを嗅ぎつけた飢えた狼の群れが一瞬で飛びかかってくる」
元騎士の容赦ない恫喝にルナは腰の銀鈴をかすかに震わせ、身をすくめて口を噤んだ。ケイは手帳をポケットに収めたまま、極めて平板な調子で現実的な課題を口にした。
「護衛が必要なことは理解いたしました。ただ、ギルドで正式な依頼を出して護衛を雇うほどの路銀は、今の私たちの木箱には残されておりません」
「金なら心配いらん。腕は銀等級の折り紙付きだが、口下手で愛想がなさすぎて仕事にあぶれ、酒場で埃を被ってる偏屈な知り合いがいる。お前さんたちのその奇妙な紙束で、あいつの頭の固さを少しばかり解きほぐしてやってくれ」
ローランドが差し出してきたのは、古びた真鍮のコインが一枚と、城壁沿いの路地裏にある安酒場の名前だった。
王都の外壁に張り付くように建てられたその酒場は、昼間から獣の脂と安酒のツンとした匂いが立ち込め、荒くれ者たちの怒号が飛び交っていた。
ルナは足元まで隠れる長いフード付きコートを目深に被り、ケイの背後にぴたりと張り付きながら、物珍しそうに酒場の奥へと視線を巡らせている。
この世界における冒険者の序列は、十の等級に厳格に分かれていた。
国家の存亡に関わる災厄を払う英雄にのみ許された最高位の『白金』を頂点とし、それに次ぐ屈指の歴戦者たる『白銀』、都市防衛の中核を担う上位の『金』、そして現場の叩き上げとして最も頼りにされる『銀』へと並び順の通りに高ランクが定められ、その下に駆け出しから一人前を目指す等級が厳格に連なっている。
その中で上位の一角を占める『銀』といえば、数多の修羅場を潜り抜けてきた歴戦の猛者であり、本来であれば若手の引率や難関討伐の要として引く手あまたのはずの立場だった。
しかし、薄暗い酒場の最奥、油染みのついた円卓に一人で腰掛けていた大男の周囲には、人を寄せ付けない重苦しい静寂だけが澱のように沈んでいた。
壁に立て掛けられた人間ほどの大きさを持つ黒鉄の大盾には、無数の魔物の爪痕が刻み込まれ、手入れの行き届いた輝きを鈍く放っている。
「……おい見ろよ、あの『臆病者のバルト』だぜ」
「銀等級の癖に、先日のゴブリン討伐でも安全確認ばかりに時間をかけて獲物を取り逃がしたらしい」
「若手の功名心を邪魔する老兵は、とっとと引退すりゃいいのによ」
カウンターの端で安酒を呷る若い軽装の戦士たちが、わざと聞こえるような声で嘲笑を投げかけていた。
大男――バルトは、無精髭に覆われた無骨な顎を引き、蔑むの言葉を気にする素振りすら見せずに、ひび割れた木杯の濁り酒を黙々と喉へ流し込んでいる。
ケイはルナを手招きし、相手の視界を塞がない斜め手前の粗末な椅子へと静かに腰を下ろした。
酒場特有の喧騒から一歩引いた位置で、胸ポケットからボールペンを抜き取り、手帳の表紙を掌で押さえる。
「バルトさんですね。ローランドさんからあなたのお力をお借りできるかもしれないと伺ってまいりました」
静かな呼びかけに、大男の太い眉がわずかに動いた。濁り酒を飲み干したバルトは、木杯をドンと卓に叩きつけ、擦れた低い声で二人を睨みつけた。
「ローランドの使いか。あいつが墓守なんぞに身をやつしているのは風の噂で聞いていたが、連れてきたのが素人の小僧と、身元の怪しい小娘とはな。俺は見ての通り、腰抜けの烙印を押されて干された銀等級崩れだ。誰の護衛をする気も起きん」
初対面の相手を突き放すような敵意の籠もった言葉にも、ケイの心はさざ波一つ立たなかった。
怒りの奥底にあるのは他者への攻撃ではなく、守るべき規範を理解されないことへの深い疲弊と諦念である事実が、相手の握りしめた拳の震えから克明に浮かび上がってくる。
「腰抜けと周囲から呼ばれているのですね。では、先日の討伐で安全確認に時間を費やされた理由を少しだけ聞かせていただけないでしょうか」
「……何だと?」
「笑ったり非難したりはいたしません。あなたがその黒鉄の大盾を構え何を警戒して足を止めたのか、事実だけをお話しいただけませんか」
手帳を開き、ボールペンのノック部を静かに押し込むケイの澄んだ眼差しに、バルトは毒気を抜かれたように息を詰まらせた。
嘲笑でも同情でもない、ただ純粋な事実の確認を求める態度に、頑なだった大男の唇が、ぽつりと言葉を零し始める。
「……獲物はただのゴブリンの群れじゃなかった。風下に微かな腐臭が混ざっていた。死体喰いの魔獣が近くに潜んでいる兆候だったんだ。若い連中は功名に目が眩んで突撃しようとしていたが、突っ込めば退路を断たれて全滅していた。だから俺が盾で進路を塞ぎ、撤退を命じた。それだけのことだ」
獲物を逃したという非難の裏側に隠されていたのは、全滅の危機を察知し、仲間を確実に生還させるための冷徹な判断だった。
手帳にペン先を走らせ、事実を余白へと書き留めながら、ケイは静かに顔を上げた。
「素晴らしい観察力と状況判断ですね。あなたは獲物を逃したのではなく、不確実な危険から全員の命を守り抜いたのです」
「だが、結果として敵も死ななかったせいで、周囲には俺の判断がただの臆病風にしか見えなかったのさ。手柄を逃した若手からは恨まれ使い物にならんと言われる始末だ。……命を懸けて盾を構えるのが、酷く馬鹿らしくなった」
大男の吐息には、職人としての誇りを踏みにじられた者の深い苦渋が滲んでいた。
その痛切な響きに、背後で見守っていたルナがたまらず身を乗り出した。フードの隙間から細いツインテールが揺れ、腰の銀鈴が澄んだ音を零す。
「馬鹿らしいことなどあるものか!生き残ってこそ次の朝を迎えることができるのじゃ!命を軽んじて手柄ばかりを追う者たちの方が、よほど愚か者に決まっておるぞよ!」
少女の混じり気のない怒りと鈴の音に、バルトは目を丸くして呆然とルナを見つめた。
その動揺を受け止めるように、ケイは手帳に書き留めた記録をペンの背で指し示し、極めて落ち着いた声音で本題を切り出した。
「バルトさん、周囲の評価とあなたの価値は切り離して考えるべきです。あなたのその徹底した慎重さは、冒険者として最も価値のある『生還率の高さ』を担保する技術そのものです」
「価値……?」
「はい。私たちは今、近隣の農村まで生活物資を調達しに行くための護衛を必要としています。十分な金銭を報酬として支払うことはできません。ですが、墓場小屋の温かいスープと黒パン、そして何より……私たちの命をあなたのその慎重で確かな盾に預けたいのです。どうかお力を貸していただけないでしょうか」
手帳を閉じ、ケイは深く誠心誠意の礼を込めて頭を下げた。
金銭による雇用ではなく、己の最も誇るべき技術を必要として頭を下げる見知らぬ青年の姿に、バルトは長いあいだ言葉を失っていた。
やがて大男の喉の奥から乾いた笑いが小さく漏れ出た。
「……墓守の居候の分際で口の回る奴だな。ローランドの奴、とんでもない奴を拾い上げやがった」
バルトは腰を上げ、壁に立て掛けてあった巨大な黒鉄の大盾を片腕で軽々と持ち上げた。
「いいだろう。美味い黒パンに免じて近隣の村までの往復、お前さんたちの命をこの盾で守り切ってやる。銀の看板が伊達じゃないってところを見せてやるよ」
薄暗い酒場の片隅で確かな絆の糸が一本、静かに結ばれた。
こうして墓場小屋の小さな相談所は、最も頼もしい護衛をその背中に得て、外の世界への第一歩を踏み出すこととなった。




