契約は無効ですー公爵令息レオナードと伯爵令嬢エステル
「貴方の両親もわたくしの両親も貴方の浮気を咎めないから、わたくしは自分で自分の身を守ることにいたしましたの。それが、その婚約契約書と婚前契約書でございますわ。貴方は結婚してから愛人を抱えると要望を出して、わたくしは受け入れざるを得なかったのですもの。婚約においての契約は一つ、不貞を働かない事。これは婚前契約にある結婚後のお話に関わる事でございました。愛人を持っても良いが、子供を作るのは妻であるわたくしが嫡子を儲けた後にする事」
「ああ、分かっている。私と君の子供だけが、公爵家を継げるという契約だろう?」
妻としての役割を求めて、尊厳を守らない男と交わす口約束程軽い物はない。
きちんと法的に縛らなければ、全てを奪われても太刀打ち出来ないのだ。
特に後継者争いは、その最たるものである。
「ええそうでございます。嫡子でなくても、男でなくてもわたくしと貴方の子供だけが、公爵家の後継となれるという契約。こちらに、公爵様と夫人と国王陛下の署名がある正式な契約でございます」
「くどい!だから、何だ、お前を優先した約定だろう?!」
首をこてん、と傾げて、エステルは不思議そうにレオナードを見る。
まるで感情の籠っていないその目を見て、何故かレオナードは背筋が凍るようだった。
「ええでも、公爵夫人はこういった契約をなさっておいでではなかった」
「だから、何故、父上と母上の話になる」
「ずっと愛人のままでいても良いという女性ばかりではないのでございますよ」
ニヤリと冷たく、エステルの唇が弧を描く。
淑女らしからぬ残酷な笑み。
「な……?……は?……」
「まだお分かりではございませんか。フリージア様は男子を儲けたから、公爵夫人を追い出して、その座にご自分がお座りになる予定なのでございますよ。勿論、後継の座は貴方に与えられませんの」
「な、何を言ってる、は、母上がそんな事を許すなど……」
今度こそ、エステルは胸を押さえて、高らかに笑い声を上げた。
「あっははは、あはは……すみませんはしたない笑い方をして……でもだって…うふふ、散々女性を蔑ろにして、権利を取り上げておきながら、女性に頼るのでございますか……ふふふっ、お父上が許した事を、お母上が覆した事が今迄ございまして?」
「………あ、……」
思い当たった様に記憶を探るが、父の言う事に逆らった母など見た事がない。
愛人がいるのが当たり前と、母も認めていたのだ。
「でも、待ってくれないか?その後継の話は、リーボット嬢とレオナードの子供にしか権利が無いのでは?」
横から口を挟んだのは、侯爵令息のオトマル・アベスカだ。
パッと希望が点った瞳で、レオナードもエステルを見る。
エステルも、くすくすと嬉しそうに笑って答えた。
「やはり、第三者の冷静な視点でしたら気づくものでございますね。ええ、そうです。わたくしとの結婚だけが、それを阻止する事が出来たのでございますよ」
「……おお、エステル、君は救いの女神だ……」
感極まったように手を伸ばすレオナードから、エステルは数歩下がって身を躱した。
「申し上げましたでしょう。阻止する事が出来た、だけでございます。結婚すれば、でございますわ」
「私と君は結婚するじゃないか!」
崖っぷちに立たされて初めて、レオニードは真っすぐにエステルを見た。
だが、エステルはそんなレオニードを意に介した風もなく。
「いたしませんわ」
「何故、君は私を…」
「愛していた、などとは仰いませんよね?何故愛人を持つという殿方を愛さねばなりませんの。今まで散々冷遇したくせに、本当に……。百歩譲ってわたくしが貴方を愛していたとして、今までの酷い仕打ちに助けようという気が起きる訳もないでしょう?」
散々、レオニードはエステルを軽んじてきた。
贈り物は行事ごとにしてはいたが、執事に用意させた物で自分が選んだ物ではない。
それどころか、何を贈ったのかも把握していなかった。
添える手紙も定型文だけの短い物を、代筆させただけ。
どうせ妻となるのだから、機嫌を取る必要はない、と。
父の遊興を見ながら育ち、学園には愛人候補を探しに来ていたと言われても否定できない。
だから、ユイカと。
「不貞は婚約破棄の理由になりますの。婚約が破棄になれば、当然結婚は無効でございますわ。結婚が無効なら、婚前契約は意味をなさないのがお分かり頂けますね?」
「待て、待ってくれ、不貞など……」
言いかけたレオナードがハッとして、ユイカを見る。
正しくは、ユイカの抱えた書類に視線を向けた。
ユイカが抱えたせいで皺くちゃになっているが、彼女は誰にも見せまいとぎゅっと抱きしめたまま座り込んでいる。
だが、誰よりレオナードはそこに真実が書いてあることを知っていた。
何故なら、不貞をしたのは事実だからだ。
「ええ、王家の調査員の調査書はれっきとした証拠になりますわ。それも最上位の。つまり、貴方の不貞は国王陛下もご存知だという事でございますの」
だが、でも、エステルさえ……。
「……君が、結婚を承諾してくれれば、良いのだろう?愛人は、持たないことにする。誓うよ、だから」
「今更貴方の約束なんて信じられると思いまして?それにこれは政略でございますもの。わたくしは貴方など愛していないし、どうなろうと知った事ではございません」
シン、と静まり返った会場に、ゆっくりとレオナードが崩れ落ちる。
それを冷たい目で見ながら、エステルは続けて言った。
「いえ、政略だからではございませんわね。政略でも誠意をもって歩み寄って下さる方でしたら、お支えいたしましたよ。立場を守る為に共に戦うことも、厭いませんでした。ですが、そうはなりませんでした。既に、公爵閣下とお話をして、わたくしにも夫人にも十分な慰謝料を約束してくださったので、正式な契約書も既に作成してありますの」
「……君は、母上と仲が良かったと思った……」
ぽつりと、呟いた言葉は、初めてレオニードが語った本音かもしれない。
エステルは、ええ、と頷いた。
「ですから、もう呼べないけれどお義母様も自由になれるのでございます。後の面倒はわたくしが看ますからご安心なさって。今まで自由も尊厳も奪われるままだったのでございますもの。これからは幸せな人生を歩んで頂きたいですわ。それなので、アンボルシュ公爵令息、貴方も夫人に対して迷惑をかけないでくださいますね」
それは、父と母からの突然の断絶だ。
婚約者を失うだけでなく、レオナードは文字通り全てを失ってしまった。
婚約は破棄され、契約は無効になり、両親は離婚をして。
父が許せば補佐として働くことも出来るが、機嫌を損ねたら平民に落とされるだろう。
今まで他人の運命を思うがままにしてきたレオナードに贈られた罰だ。
「わたくしの罪は、諦めた事でございますわね。愛を乞わず、ただ壊れるに任せました。ですから、アロッホ嬢に嫌がらせなどする理由がないのでございます。アンボルシュ公爵令息は、幾人も愛人を抱える予定なので、その一人でしかないと思っておりましたから」
冷たい目で射抜かれて、ユイカはまた一つ落胆した。
目の前で、キラキラ光っていた宝物が、偽物だと言われて価値を落としたような。
けれど…その罪には自分も関わっている。
「じゃあまさか、君か……?」
オトマルが声を発して、一人の令嬢を見た。
明るい橙の髪に、澄んだ空のような青い瞳の令嬢は、きょとん、とオトマルを見返す。
「わたくし、ですか?何故でしょう」
オトマルの婚約者、ヘイディ・バリーク子爵令嬢である。
エステルはレオナードの母を義母として面倒みる感じです。




