暴力と再会
暫くは、静かな日々が続き、表面上は上手くいっていた。
オトマルは給仕の仕事で夜遅くなりがちだし、酒や甘い香水の匂いを漂わせていたけれど、借金と生活費はきちんと入れている。
クロウは酒場の用心棒の仕事をしていたが、酒を飲み始めてから段々と支払いが滞るようになってきていたのだ。
「ねぇ、クロウ。これじゃああんまり返せないよ?もっと仕事を増やすか、酒代を抑えないと」
「うるせえなぁ、女が口出しするんじゃねえよ」
酒臭い息を纏わせながら、クロウはユイカの横面を叩いた。
本人は軽く叩いただけのつもりだったが、ユイカは壁にぶつかって倒れてしまう。
あ、と思った時には遅かった。
がしゃん、と卓からも食器が落ち、床に散らばる。
「ううっ、酷い……何で殴るの……もうやだ、クロウなんて嫌い!出て行って!」
頬を赤く染め、泣きながらユイカが扉を指さしたのを見て、クロウは申し訳なさより怒りが勝ってしまったのだ。
つかつかと近づくと、ユイカの髪を掴み上げながら恫喝した。
「平民女が偉そうに、指図するなって言ってんだよ」
「痛いっ、放してよ!自分だって平民だってこと、忘れたの?」
「誰のせいでこうなったと思ってんだよ!あぁ?!」
もう一度、今度は思い知らせようと赤く染まった頬を叩く。
「きゃあっ!」
「お前、何をしてるんだ……」
声をかけられて、ハッとクロウが我に返った。
オトマルもオットーも最近遅くまで仕事していて、帰りが遅かったのもあって、静かなルボルの存在も忘れていたのだ。
慌てて髪を掴んでいた手を放し、ルボルを振り返る。
「いや、この女が生意気な事を言うから、ちょっと躾けてただけだよ」
言い訳をするように半笑いで言うクロウを見て、ルボルは眉を顰めた。
「まるでお前の女みたいに言うが、ユイカは私の妻だぞ」
「……あ、……いや、でも……」
「大丈夫か?ユイカ」
気遣うようにしゃがんで頬を見れば、真っ赤に腫れ上がっている。
「少し冷やした方がいいな。まずは部屋に送ろう。立てるか?」
ユイカは何も言わずに頷き、ルボルの手を借りながらよたよたと部屋へと向かった。
引き返してきたルボルは、井戸の水を汲んで洗面器に入れると、それを持ってユイカの部屋へ向かう。
「クロウ、荷物を纏めておけ。妻に暴力を振るう男をこの家に留めておくわけにはいかない」
「ちょ、ちょっと待て……いや、待ってくれ。少し行き違いがあっただけだ」
「ユイカの頬を冷やしたら戻る。言い訳はその時に聞こう」
ルボルは冷たい目を向けて、それ以上何も言う事はない、というようにユイカの部屋へと入って行った。
弱弱しく伏しているユイカの顔をよく見れば、口元にも傷が出来ている。
「ユイカ、少し痛むかもしれないが」
「……うん、ありがとうルビー」
頬に布を当てると、少し痛そうな顔をしたが、大人しくユイカは目を閉じる。
「守れなくて、すまない」
「……うん」
「何も出来なくて、すまない」
「……うん」
「君だけが辛い思いをするくらいなら、私達を見限って自由になっても構わないよ」
それは、うっすらとユイカも考えていた事だ。
食堂で働くのは楽しかった。
亭主もおかみさんも良い人だし、お客さんだって優しい。
何もかも捨てて逃げて良いのなら、そうしたかった。
「ごめんね……考えてみる……」
ずっと一緒にいるよ、なんて軽々しくは言えない。
何もかもが変わってしまったのだ。
ユイカが明るく健気で優しく居られたのは、余裕があったからである。
オトマルやオットーはきちんと働いて金は入れているが、既に新しい女がいるのも何となく分かっていた。
けれど、それを見咎めたところで、ユイカに彼らと枕を交わす余力がない。
お洒落する余裕だってないのだ。
何よりもう、気持ちがついてこない。
婚約者達が捨てた男達は、捨てられるだけの理由があったのだと分かっている。
ルボルは、高慢さが消えて優しくなったけれど、生きる気力も失っているように見えた。
「ごめんね、ルビー……」
捨てさせたのは、自分なのに、とユイカはしゃくりあげた。
「泣くな、ユイカ。傷に障る。それに、君だけが悪いんじゃない。私達も望んで、選んだからこうなったんだ」
泣いたまま眠りに就いたユイカを暫く見守って、ルボルは居間へと戻った。
そこには、オットーとオトマルも戻っていて、困ったような顔をしている。
「クロウに出て行くよう言ったんですか?」
オトマルがやや不満そうにそう言い、オットーが首を傾げた。
「何かあったんですか?」
「クロウが躾と称して、ユイカに暴力を振るった」
「「え?」」
肝心な出て行けと言われた理由を聞いていなかったのか、二人は顔色を悪くした。
そして、オトマルもオットーもクロウを見る視線が明らかに変わる。
「生意気な口を利いたんだ。……俺だって働いてるってのに」
「お前はよく生意気と言う言葉を使うが、女性を見下しているのか?」
「はぁ?……いや、見下すっていうか、下だろ?」
笑い乍ら言う言葉に、うわ、と明らかにオットーが引いている。
ルボルは厳しい顔を崩さずに言う。
「お前の考えは分かった。ならば、貴族と平民どちらが上だ?」
「そりゃ貴族でしょう」
ふん、と偉そうに鼻を鳴らして答えるクロウに、もう一度ルボルは問いかけた。
「では、平民の男と、貴族の女性、どちらが上だ?」
「それは……………貴族の女性、だ」
たっぷり時間をかけて悩んだ後、押し殺すような声でクロウは答える。
「それが分かって安心したぞ。平民の男が貴族の女性に暴力を振るえば極刑になるという事は知っているな?躾と称して殴ったユイカは男爵令嬢のまま男爵夫人になった貴族だ。お前は、クロウ、除籍されてもう平民だろう」
「……あ、……」
この国では滅多に起こらないが、もしも貴族側が平民を訴えれば死刑にすらなり得る罪となる。
今の今まで忘れていたのか、クロウは蒼くなってぶるぶると震えた。
「訴えられたくなくば、今すぐ出て行け」
冷たく言われれば、選択肢はもうなかった。
クロウは慌てて、纏めた荷物を持って家から逃げるように出て行ったのである。
翌朝、三人が目にしたユイカの姿は無残なものだった。
頬は腫れ上がり、青黒く変色している。
「ご飯は用意しておいたから、お仕事行ってきますね」
「何を言っているんだ、今日は休め」
「ああ、酷い……こんな、こんな酷い暴力を振るうなんて……」
「休んだ方がいいよ。店主だって許してくれるさ」
ルボルが止め、オトマルは暴力の残滓に脅え、オットーが気遣う。
けれど、ユイカは此処にいるよりも、店で安心して過ごしたかった。
それに、急に休まれたら困るだろう、というのもある。
「大丈夫です。お店の人達は優しいから、無理せず働きます」
頬が痛くて思うように笑顔は作れないが、一刻も早くこの家から離れたかった。
急いで店に向かうユイカを見て、通りすがりの人々がぎょっとするのが分かる。
街の外れとはいえ、治安が悪いわけではない。
可憐な女性が頬を腫らしていたら、驚くのは当然の反応だった。
「あんた、そ、その顔はどうしたんだい!」
「何て事しやがる……!」
店に入ると、店主夫婦がユイカを迎えて驚いたようにそう言葉をかけた。
みるみると目に涙を溜めるおかみさんを見て。
ああ、こんな風に心配された事なかったなあ、とユイカは心の中が温かくなった。
「ちょっと、殴られてしまっ……あれ……」
無意識にぽろぽろと涙が零れ、身体が震え始めて、そんなユイカをおかみさんがぎゅっと抱きしめる。
頭を撫でられれば、そのぬくもりに安心して、ユイカは子供のようにわあわあと泣き始めた。
騎士団に突き出してやる!と憤る店主を止め、おかみさんがユイカの頬を冷やしながら言う。
「やったのは旦那かい?」
「……ううん、居候の、人。女が生意気だって怒られて」
「このまま此処に住むといいよ。けれど神殿に逃げ込む事も出来るんだ。治療もしてくれるから、一度行っておいで。一人になって考えて、それでも此処に戻ってくれるなら、うちの娘になりな。こんな酷い事をする奴も、止めない旦那もあんたには必要ないよ!アタシは娘が欲しかったんさね」
太陽のようなおかみさんの笑顔に、ユイカは顔を歪ませてまた泣きじゃくった。
ここで医者を呼ぶよりは、神殿で治療を受けた方が負担が少ない。
迷惑をかけない為にも、ユイカは神殿へと向かった。
「あら……?ユイカさん、貴女……」
そこで再会したのは、リューリエだった。
ルボルが置物じゃなくなりました。脱皮。




