BONUS STAGE うさぎというものは
タウシャ――側室筆頭――の朝は早い。
日の出の頃は下働きをする者らが活動を始める時間帯であり、側室たちはまだ夢の中だ。
タウシャはその時間に目覚める。
普段でも自分付の侍従らもまだ寝ているので、勝手に着替えて勝手に支度を終わらせる。
侍従は彼に仕えてしばらくは早起きを頑張っていたが、すぐに音を上げた。当然タウシャはそれを咎めない。
生まれ故郷のフィリアでは、帝国――皇城や後宮より貴族の朝は遅い。
やれ夜会だ舞踏会だと豪奢な遊びが深夜まで催されているからだ。
タウシャはそれに参加することは稀だったが、王弟の庶子である少女の教育係として任命されて後は、その役目を越えるほどに彼女を心配し、夜会遊びに付き従っていた。
それでも官吏としての職務を放棄したことはない。
だからタウシャは夜が白々と明けて、日が上り始めると勝手に目が覚めてしまう。
どれだけ眠る時間が遅くても。
しかもフィリアにいた頃――前妻と離別してからずっと。後宮に来てからもしばらく彼は悪夢に魘されていた。
けれど近頃ではそれも少ない。
夢の中で彼を責める声が、小さく弱くなっていた。己の勝手な願望が満たされ、自分自身勝手に赦された気でいるのだとタウシャは決定付けていた。
悪夢の中で誰に何を言われているのかも覚えていたし、これまで繰り返し繰り返し罵られてきたのだ。捨てた名で。
そんな彼が今朝のように悪夢を見て魘されない日は、隣に温もりがある日だ。
タウシャはクッションを幾つも抱えうつ伏せて寝ている大事な人の眠りを妨げないよう、陶器のような滑らかな彼女の肌にそっと夜具を掛けた。
少しでも朝の侵入を阻もうと厚みのあるカーテンに変えたが、それでも薄ぼんやりと夜の静寂の残り香を塗り替えようと朝が室内に入り込む。
それがまだすやすやと健やかに眠る女性の寝顔を浮かび上がらせていた。
帝国人にしては色素が薄く、だがフィリア人のような青みがかった白すぎる肌色とも違う。
上質なクリームかチーズのような乳白色。その美味しそうな色を堪能したくて、夜具の中に入り込んで戯れに吸い付いてみたくなる。
昨夜あれだけ貪ったというのに何とも強欲なことよ、と彼は幸せそうな微笑みと寂しそうな色をその赤くも見える瞳に乗せる。
朝が来たということは、この寝台に眠る女がタウシャだけのものでなくなる時間になったということだ。
余りに短いひととき。だからこそこの手で触れる悦びは何よりも甘美で、離れてしまうのは惜しく、他の男に渡すのは耐え難い。
けれどこれはタウシャ自身が決めたこと。
この、帝国の黒鷲と言われ類い希な美貌を持つ皇帝アレクサンドラ・ファン・メイエットを側で支え侍ると。
フィリアで血も涙もない命令をその視線だけで下したこの皇帝は、自分の国――ファン帝国では割合年相応な振る舞いをすることが多い。
こうやって今タウシャが彼女の露になった肩や頬に口付け悪戯をしているのも知らず、静かな寝息を立てて眠っている姿は18歳らしく無防備であどけない。
漆黒の艶やかな髪を一房手に取り流し、その手触りを楽しむうちにまたも劣情を催し、その熱をもて余していると忍び笑いが聞こえた。
「ふ、兎は朝から元気だの」
顔を上げれば、緩く微笑むサーシャがいた。
「仕方のない――ほら、おいで」
シーツを滑る音がして、身を捩ったサーシャの腕が夜具を捲るとタウシャの首に伸びる。
まるで小さな子を撫でるように、優しくタウシャの髪を掬い、頭のかたちに沿ってサーシャの指が滑る。
タウシャの朝は早いが、サーシャが隣にいる日は寝台から出るにはまだもう少し時間がかかるのだった。
* * * * *
タウシャの主人は身支度を整えると朝食は摂らずに、内宮の自室へと色気を振り撒きながら戻って行った。
この後宮にいる男たちと一夜の愛を交わしても、その心が捧げられているのはただひとりだけだ。
彼に嫉妬しないといえば嘘になる。
だがその嫉妬を向ける相手ごと支えると決めたのもタウシャ本人だ。
フィリアで初めて皇帝アレクサンドラを目にした時、精巧な美しい人形だと思った。
何の温度も感じない。ソフィア嬢――グラスペイル改め、現ロシュタリア女公爵の危機を救うためやって来たのだと言っていたが、そこにタウシャは皇帝の感情を見出だせなかった。
むしろ黒い悪魔と呼ばれる人形がフィリア王国を蹂躙するために魔王の力を持ってやって来たのだと言われた方がよほど信じられた。それほどまでに現実味のないものだった。
だが、思い返せばタウシャはあの日あの時あの人形の美しさに瞬間で魅了された。悪魔に魅入られたのではなく、自らその手に堕ちることを願ったのだろうと納得している。
タウシャは食事が乗せられた小卓に肘をつき、その掌に顎を置き目を閉じて物思いに耽っていた。
ふう、と息を吐くと姿勢を正し、薄く焼かれた麦パンに胡瓜を発酵させた乳と果実油であえたものを乗せて軽く巻いて口に運ぶ。
室内は侍従たちによって重いカーテンと窓が開けられ、すっかり登った太陽の光と爽やかな空気が部屋を満たしていた。
先刻まであったサーシャが好んで付けている柑橘の香
りも情事の残り香も随分薄らいでいた。
寝台にはまだ色濃く残っているだろうが、侍従や下働きの者たちの手によってそれも綺麗に消えてしまう。
サーシャが愛するただ一人、その彼とのいわゆる結婚後一年経っても彼女が身籠った証はなかった。
それで約束通りタウシャとの初夜を迎えたのだ。
役職として後宮での側室筆頭という立場は与えられていたが、現実的にはまだサーシャと褥を共にしていなかったので、その日が来てくれるなとも来てほしいとも何とも複雑な相反する気持ちを彼は持て余していた。
紳士であろうと我慢していたが、結局箍が外れたように前後不覚で求めた内に初夜が終わり、愛する女を共有するという何とも言い表しようのない気持ちを抱え、正室――皇配であるリュイと顔を合わせた時には彼から抑えきれない嫉妬を受けた。直接言われたわけでも何かされたわけでもない。こちらに寄越す視線に、行動のひとつひとつに現れているのだから。
リュイ本人は堪えているつもりだろうし、タウシャにぶつける気はないのは理解っている。
それらを踏まえた上での自分たちの関係であったし、当然リュイの気持ちに同意する。
だがタウシャは一方で、だからこそリュイ一人の道も示されていたのにそれを蹴ったのだ、そら見たことかと思っている自分がいることに失望した。
愛されているリュイへの嫉妬心は実際深い。だが後宮の主として彼に仕えることに一切の不満はない。
そういうお互いどうにもならないものを共有しながら二年。
最初の一年はリュイのみ。三ヶ月空けてからタウシャが大体毎月十日間ほど伽をこなすことになってまたおよそ一年が過ぎた。
後宮に側室を増やすことをよしとしない皇帝の意に反し、男は少しずつだが増えていく。
どうしても受け入れざるを得ないところから送られてくるせいだ。
彼らと伽をするかどうかはサーシャの心ひとつなので、後宮入りしたからと言って皇帝の寵愛どころか一夜の情けすらも必ず与えられるとは限らない。
今のところ実際伽を命じられるのは正室であるリュイ、時々タウシャの二人だけ。
タウシャの場合は実績があった。
今や罪悪感を呼び起こすだけの、思い出の中の彼女に子を孕ませたという実績が。
そして既婚者であった過去が。
それでもサーシャに懐妊の様子はない。
嫉妬もそうだが自分がリュイよりもそちらに自信を持っていたことにも呆れる。と、タウシャは朝食をあらかた片付けたところで自嘲の笑みを零した。
(陛下の愛は全てリュイ様のものなのだから。せめて一番に授かる子くらいはと強欲になったのが神に見抜かれているのか……それとも子殺しの私には二度と子を与えぬという罰なのか)
サーシャは子について『家畜や犬猫の仔でもあるまいし、早々に授かるとは限らぬ。天が我らの仲を子に邪魔させるには早いと言うておるのだろ』とうるさ型に詰め寄られてはそう語って笑っている。
どうしてあんなに惹き付けられたのだろうか。
どうして嫉妬してしまうくらい狂おしい気持ちになるのだろうか。
サーシャは自分だけのものではないと分かっていたのに。
――愛してしまったのだろう。
タウシャは重く溜息を吐くと、着替えるために立ち上がった。
* * * * *
この夜もサーシャはタウシャの部屋へと足を運んだ。
営みが終わった後に、タウシャはサーシャが薄物を羽織ろうと起き上がるのを珍しく止め、背後から腕の中に包み込んで抱き締め寝台に横たわる。
微かに驚いた声がして、次いでくぐもった笑い声がする。
「陛下……今夜はこのまま……」
「……どうした? タウシャ」
腕の中でサーシャがぐいぐいと身動ぎ、抱かれたまま向かい合う形を取る。タウシャを見つめるサーシャの瞳が灯りできらりと光って見えた。
タウシャの嫉妬も何もかも見透かすような彼女に彼は頭をその白い首筋に当てる。
「なあ、タウシャ。私の白兎よ」
首の重みと男の想いを受け止めて、サーシャはやや甘く囁く。
「知っておるか? 兎はな、性欲も強く繁殖力も高い」
ふふふ、と含み笑う声にタウシャは目を閉じ彼女を抱く腕の力を強めた。
「へいか……」
「思い悩まずとも良い。私に子が出来ぬのはお前たちのせいではない。わざわざそうしておるのだ」
「……え」
タウシャは顔を上げるとポカンと口を開けていた。まるで頭を殴られたような衝撃がその言葉にあった。
サーシャが彼の下唇を食む。顔を離すと小さく笑う。
「――まだたかだか二年、子を成すには早い。今出来るのは得策ではないのだ。何にでも機会、時期というものがある。いかな帝国と言えども私の力の及ばぬところもあれば、私を良しとせぬ者は多くある。言わずにおられれば良かったが、お前には伝えておくべきだったな」
「……リュイ様には」
「あれには言っておらぬよ。わかっておろうが、私はリュイを愛している。あれの素直なところをだ。父親が屑だと知っていたのに真っ直ぐ育ったところ、無謀でも炎の中に飛び込んでくるところを。悲しむ顔は見たくない。だがな――」
それまで蕩けるような女の顔だったのが、すうっと冷たい色を帯び上に立つ者になる。
「国とあれを天秤にかければ、どうしても国に傾くのよ。国と愛する者は比べるものではなく、そもそも同じ位置に置けないものだからおかしな話ではあるが」
言葉と共に細い指がタウシャのこめかみから顎へと滑り落ちる。
「……だが、私はそれを天秤に乗せなければならない立場なのだよ。身体を合わせると男女の差にかかわらず、相手は己のモノという感覚になるという。お前たちは奴隷、側室、男、臣下。そういう全てひっくるめた意味で私だけのものだ。対して私はお前たちのものではない。国だけのもの」
サーシャの指はそのままタウシャの首から胸元へと移動し鎖骨の間の窪みで止まる。
ぐ、と押され痛みを感じて眉を顰めるとサーシャの挑むような目と見つめあった。
「タウシャ、私の可愛い可愛い白兎。どれだけお前が本当の兎のように嫉妬深い男であろうとも、お前はお前自身の存在意義を違えぬと信じている。リュイと同じ愛は渡せぬが、お前を惜しむほどには心を砕いておるつもりだが?」
ああ、とタウシャは零れた吐息を震えさせた。
信じている、サーシャのその言葉は彼の心を満たした。確かにリュイに比べればそれは愛とは違うのだろう。けれどもタウシャは皇帝の側室ではあるものの立場としては臣下なのだ。
そして正室のために立ち回るのが一番の仕事なのだ。サーシャの伽に侍るのは本来はタウシャに与えられた役割ではない。
そして側室として抱き合い温めあってサーシャの中に精を吐いていようがいまいが、単なる便利な道具であり彼女の手足でしかない。けれどもタウシャの生命も魂も全ては彼女のためのもの。サーシャだけの。
「……嫉妬から妙な事を考えるな、お前がリュイの心を不安にさせるな。今はどうしても余所から来た愚物どもを見極め、場合によっては伽をせねばならぬこともある。そのための慣らしだよ」
サーシャにはタウシャの心の驕りが見えていたのだろうか、と彼は恥じ入った。
タウシャはリュイを支えるためにこの役目を飲んだ。リュイがサーシャのために心の血を吐く辛苦の道――愛する女を共有など本来は誰だってしたくない――を共に歩むと決めたのに、経験のある自分の方が男として優秀なのではないかと奥底で彼を見下していたことを見抜かれていたのかもしれない、と考え浮かんだ。
「女というものは、役目であってもどうしても嫌な男とは閨事などしたくないものだ……しかしながら」
サーシャはタウシャの髪に手を入れ、この二年で伸びたそれを優しく梳きながら言う。
「……幸運なことにそういう経験はしなくて良いことになっている。自分が良しとした男を好きにできる資格と権力があるのだ」
タウシャはそこに確実な『愛』という言葉がなくても、それと同じだけの重みを感じ取った。
心の奥が熱く痺れるまま、乙女のように目元を染め上げ、サーシャの唇に己のそれをゆっくりと重ねた。
ひな祭りに関係ないという。
たくさんある中から見つけて読んで頂きありがとうございます。
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©️2023-桜江




