過不足の愛(3
リュイが目を覚ますと、隣で少々深酒をしたらしいサーシャがすやすやと寝息を立てていた。
隣で寝ていると思っていなかった彼は驚いて思わず叫びそうになる。口に手を当てて声を我慢し、麗しき皇帝陛下の寝顔を観察する。
眠るサーシャは16歳の年相応の幼さが残っている。
普段の人形のような、同じ人とは思えない美しさも良いけれど、この可愛らしい寝顔も良いなとリュイはニヤニヤしながら見つめていた。
そこに、そっと玉が入ってきた。
「お目覚めになられたとコろ失礼致しまス」
リュイは玉を手で制して、そっと寝台から降りた。
隣室にそのまま移動する。ソファに腰掛け、玉にも座るよう勧める。リュイ付の宦官が漱ぎ用の水桶と盥を持ち、リュイが口を漱ぎ終えると静かにその場を離れた。
「――クリスタは」
「ご希望通りに、滞りなク」
「……そうか」
リュイは目を閉じると大きく息を吸い、ゆっくり吐く。
「こちらを」
玉はリュイに封のされた手紙と小箱を渡した。
「クリスタからか」
「はい。恙無く事が済めバ、ご正室にと」
リュイは小箱を開いた。中にはリスのブローチが入っていた。
「……これは」
彼の忘れていた記憶が呼び起こされる。
――サーシャはあの時の。
あれはリュイにとってクリスタとの楽しい思い出だったが10歳の記憶はあちこち欠けている。
クリスタに言われて必死で少女たちを助けに行かされたことなどその1つだ。
ましてお礼を貰ったことも。それを余りにもクリスタが欲しそうにするから譲ったことも。
リュイは懐かしく思い出す。王子であるクリスタは何でも持っていたのに、リュイの貰った物を羨ましそうに見るなんて初めてだったなとしんみりする。
何でも持ってる癖に、とあの時はあまりいい気持ちで譲ったわけではない。
これがクリスタの手に渡ったのは、勘違いが勘違いを呼んでしまいどうしようもなくなった後で、そのせいでクリスタとソフィアは不幸な婚約をすることになる。
クリスタはサーシャをソフィアと間違った。
その後グラスペイル公爵家の名で手紙とブローチが届いたが、手紙は王家に。ブローチはリュイを名指しだったことと、手紙にそれについて書かれていなかったことを考えれば、公爵家及びソフィアが贈った訳ではないということだ。だとするとそれはサーシャからということになる。
後宮がリス宮と呼ばれるくらいだ。時期的にも一目惚れしてもらえたのはあの時だろう。自惚れではないはずだ。とリュイは結論付けた。
あの時のクリスタの様子で、ソフィアを想っているのだとあの場に居たものは皆そう感じた。
だが顔合わせで別人だ、名前を勘違いしていたとクリスタは気付いた。
それなのにこのリスのブローチを彼は処分せずに持っていたのだ、ずっと。サーシャが贈ったものだとは分かっていなかったのに。
しかも今ここにあるということは、クリスタが身に付けていて、この後宮に入れられた際、上手く持ち込んだのだろう。
クリスタは胸に込み上げるものをぐっと堪えた。
あの時何か1つでも違っていたら、今サーシャの隣にいたのはクリスタだったかもしれない。
そこまで考えてリュイは自己嫌悪に陥る。
――そもそも最初にクリスタが勘違いするきっかけを作ったのは迂闊な自分だ。
リスのブローチを手で玩んでいたが、箱にそっと戻した。次いで手紙の封を切る。
手紙の内容は短い。
『親愛なるリュイ
ありがとう
陛下の時間を譲ってくれたこと
リュイは知らないかもしれないけれど
私は君をずっと本当の家族だと思ってきた
皇配の務めをしっかりと』
リュイは手紙を数回読み直した。どこにもクリスタの本心がないように感じてしまい、小さく溜息が落ちた。
リュイを疎ましく思ったこともあったろう。
サーシャとソフィアを勘違いするきっかけとなったリュイを憎んだだろう。
サーシャに選ばれ、隣に立ったリュイを妬ましく思っただろう。
それらを全て綺麗に隠して、クリスタは行ってしまった。
リュイは手紙を握りしめる。
「ご正室様……リュイ様、もし陛下が先にクリスタと出会われていても、きっと陛下はリュイ様を選ばれておりましたヨ」
玉が細い目をさらに細くし、遠くを見るように言う。
「……そうだろうか」
「そうです」
リュイは玉に下がるよう伝え、その姿が見えなくなると声を押し殺して泣いた。
* * * * *
この夜サーシャは後宮に訪れなかった。
代わりにリュイと白兎宛に彼女の名で上等な蒸留酒が届けられた。
玉を交えた3人はリュイの部屋から露台に出るとカップを持ち上げ、死者を悼む。
露台から見る夜空は星が無数に散らばりきらきらと煌めいていた。
玉が見上げて呟く。
「私ノ生まれ故郷でハ、死者を海に流シ、彼らは天へト還りまス。ヒトは天から来テ海を通リ、天へ還ル」
玉はすっと手で空を指し、地を指し、また空を指す。
「そうか、ならばクリスタは空にいるのか」
リュイの問いに玉は頷く。
「星の1つになりまス」
タウシャも見上げる。
3人はしばらく黙って夜空を見上げていたが、タウシャが玉に話しかけた。
「そう言えば、海とは広い湖のようだと聞いたことはあります」
「湖よりモット大きいですヨ。海をご覧になったコトはお二人とモ?」
リュイとタウシャは頷いた。
フィリア王国には海がない。大陸のほぼ中央、周囲は他国領と険しい山岳や崖、深い森に覆われている。
物語に聞いたことはあっても、どのようなものか分からず、全て想像でしかない。
「何やら大きな軟体生物がいて、数百人は乗る海を行く馬車を襲うのだとか」
「そうなのですか? でも湖にもそのような生き物が棲むらしいです」
タウシャの話に、興奮気味にリュイも言い出す。
玉はそれぞれの話に否定はせず、うんうんと頷く。
「そのような大キな生物を見たことはありまセンが、夜光虫を見たことはありまス」
「夜光虫?」
リュイが聞き返す。
玉はカップの中身を飲み干すと答えた。
「海の中には光ル虫がいるんでス、ソレを夜光虫ト呼びまス」
玉の言葉を2人は黙って聞いていた。
「海に死者ヲ流すので、夜光虫は彼らの魂ト。それガ天へと飛んで星になるト」
すごい、とリュイの口から感嘆の声が漏れた。玉はそれに軽く笑む。
「星空とはまた違うノですが、私には海も夜空に見えまシタ――だから飛び込んデみまシたが、私は天に飛べず、あの輝く星にはなれませんでした」
玉は言ってまた空を見上げた。
リュイとタウシャは黙って玉を見つめる。
「天にはね、明けても沈まず動かない唯ひとつの星があるんです。彼はその星の許へと侍ることが許された。彼はきっと今心安らかで幸せですよ」
いつもとは違う様子で話す玉の言葉を聞きながら、2人は星空を見つめて彼を探した。
* * * * *
「見ろ、流星だ」
主でもある妹の愉しげな言葉に、ベラも空を見上げる。
サーシャが珍しく夜の庭で涼むと言い出し、ベラと侍女数人を連れて庭園で夜空を愛でていた。
こういう時は無礼講だ。侍女たちは、寝椅子に転がるサーシャと共に席に着いての飲食が許されていて、果実酒が振る舞われていた。
「陛下あ、見えませんわぁー」
「ははは! 流星は一瞬だからな、残念だったなベラ」
「どちらの方向ですう? 落ちた方に雨が降るかもですよう」
帝国では流れ星が落ちた方向は翌日雨が降ると言われている。サーシャはあちらだ、とベラに指差した後に黙った。
ベラがサーシャを見つめると、サーシャはそれに気付いて苦笑する。
「いや、おばあ様の言葉を思い出していたのだ」
「先の皇太后様の」
「おばあ様の一族の話では、人は死ぬと星になるのだと。ならばあの流星が落ちた先で降る雨はアレの涙かもしれんなと」
ふふ、とサーシャが含み笑う。
「……柄にもなく感傷的なことを言ったな」
ベラはそれに返事をせず、デキャンタからカップに酒を移してサーシャに渡す。
「――存外アレと過ごした夜は、悪くなくてな。リュイからもアレぐらいの熱が欲しいと思ってしまったよ……成り行き上仕方ないとは言え、愛称ではなく本来の名をリュイより先に呼ばうのを許してしまったことが少し切なく悔やまれるのだ」
サーシャは果実酒を飲み干して星空を見上げる。
ベラも何も言わず、共に夜空を見る。
侍女たちの語り合い笑い合う小さく密やかな声が、夜の静けさの中に響いていた。




