過不足の愛(1
皇帝アレクサンドルの兄、冷血宰相と呼ばれ官たちから恐れられているリュシアン・メイエットことルキは現在衣装部屋で滂沱の涙を流している。
ちなみに冷血宰相などと呼ばれてはいるが、彼はまだ宰相ではない。可愛い妹を傍で支える宰相となるべく勉強中の身だ。
「サーシャ……美しい、サーシャ……素晴らしい……」
「ルキ、そんなに泣かれると本番では目が溶けて流れてしまう」
サーシャは侍女が差し出した手布でルキの目元を拭ってやる。
サーシャの衣装部屋はルキが担当している。
侍女などは着せる手伝いをするのみで、儀式における衣服の指定、装飾品の指定はサーシャ本人の希望がない限り全てルキの仕事だ。
そして彼はただいま婚礼衣装を合わせていた。
サーシャが今試しに着ている金色の婚礼衣装には薄いさらさらとした織物が縫い付けられている。
布で隠されているのは胸と、下腹部。後はこの薄い織物と、下腹部を隠す垂れが付いている。脚の部分も薄い織物がやはりふんわりと付けられていた。
ファン帝国での婚礼衣装は華美な刺繍や装飾を施した露出度の非常に高いものだ。
サーシャは自身の凹凸のなさに辟易して、軍服の礼装仕様で良いと言ったのだが、これはルキのみならず侍女たちからも、もちろん母親である先の皇后、兄弟姉妹全てが反対した。
一人だけ「いいと思う」と言ってのけた強者がいた。帝国に報告に来ていた長兄のバリスだ。言った後にダーニャから何度も殴られていたのをサーシャが止めた。
先日無事サーシャの夫、皇配となることを承知したリュイとの正式な婚約を内外に発表した。
帝国内にリュイを問題にする者はいない。
なぜならサーシャはリュイを皇配にするために、前フィリア王の隠し子であることを公表し、正当な現フィリア王として立てた――本人に無断で。
更にこれまで大昔の皇帝の決まりによって手に入れることが出来なかったフィリア王国を完全に帝国領地にすることができたのだ。それもフィリア王となったリュイの名前を使って。
かなりの強行及び過密スケジュールで、かなり周りに無茶を強いたとは思っているが、後悔など彼女はしていない。
リュイを手に入れるため、周囲を黙らせるためにこれまでサーシャは軍を率いて武功を挙げ、姉のように慕うソーニャを人質に取られフィリアごときに侮られてもずっと黙っていたのだ。
それがやっと報われる。6年だ。
サーシャは、鏡に映る婚礼衣装を着た己を見て艶やかに笑う。
帝国では処女性など飯の種にもならぬと、リュイが返事を出したその夜に初夜を済ませた。
と言っても、さすがにリュイの心の準備は間に合わなかったようで上手く行ったとは言い辛い――隣室に玉が控えているのが余計に彼を追い詰めた――が、いちゃいちゃできただけでもサーシャは幸せだった。
それから毎晩サーシャはリュイと寝室を共にしていて、結局済ませるものは済ませた。
それは皇族も中枢に関わる者も皆知っているので、婚約発表が済むと今度はできるだけ早く婚儀を終えねば皇帝の腹が膨らんで衣装が合わなくなる恐れがある。だから婚儀を急げ、それは全員一致の意見だった。
サーシャは初夜の前に玉から婚儀が終わるまで避妊を勧められたが拒否した。
『出来るか出来ないかも分からぬのに避妊してどうする。出来ればむしろ万々歳ではないか。どうせ婚儀が終われば各国から献上品が届くのだ。手を付けねばならないのなら、腹が膨れて相手が出来ぬほうが都合が良い』
サーシャはそう言って笑い飛ばした。
「早く腹が膨らめば良いのにな」
「もう入っているならめでたいことだ、祝いが増える。きっとサーシャに似て可愛い」
ルキはやっと涙を止めたのに、何を想像したのかまた泣き出す。
「ルキ、あなたはそんなに泣き虫だったか?」
「嬉しくて、サーシャ、兄は嬉しい!」
「ダーニャもそれだけ喜んでくれたならな」
苦笑するサーシャに、ルキはどこか諦めたような口調で言った。
「……ダーニャは変態だからな。それよりサーシャ、金も良いが赤はどうだ? サーシャには何色でも似合う」
サーシャはふむ、と腕を組んで考える。
「リュイはな、私がソーニャのために王国へ行った際の衣装にさせようと思っているんだが、それと合わせたいのだ」
ああ、とルキは数回首を縦に振った。
「アレも良かった。帝国の礼装軍服にフィリアの様式を取り入れたやつだな? うん、確かにアレはいい。リュイはフィリア王でもあるからあの衣装は良いな……婚儀が終われば帝国でフィリア風が流行るかもしれん」
ルキもふむ、と腕を組んでサーシャを上から下まで見る。
「とすると、黒かな。金はサーシャに似合うが、合わせるとなると派手すぎてバランスが悪い気がする。赤もそうなるとダメだな。アレは黒地に銀糸。フィリアは銀の刺繍と帽子に黒い羽を付けたはず……銀でもサーシャだけが目立つな、やはり黒か」
ルキはぶつぶつ早口で呟き、側に控えている侍女にあれこれと注文を付けた。
それが終わるとサーシャに婚礼衣装を脱ぐよう伝える。
「サーシャ、もし腹にいたら一大事だ、温めておけ」
「そんな鳥の雛でもあるまいし」
「いや、妊婦に冷えは禁物と聞いたことがある」
「まだ妊婦になってはおらぬよ、膨れたら良いなと……」
「ベラ! ベラ! サーシャに温かい茶を! 冷えては大変だ!」
ルキは暴走しがちだ。サーシャは苦笑しながら、衣装を侍女に脱がせてもらう。
ベラが呆れた表情を隠さずに、それでも茶の準備をしてルキの元にやって来た。
「リュシアン様ぁ、気が早すぎですー。間違って皆様に伝わったらどうするんですかあ? デリケートな問題なんですよう?」
「む? そうか、確かにそうだが、もしかしたらいるかもしれないじゃないか、私の姪か甥が。姪が」
「リュシアン様は優しいのはいいんですけどお、陛下のことになると頭悪くなるのだけどうにかなりませんかねー」
ベラはそう言って溜息を吐くと、サーシャに向かう。
「陛下ぁ、側室筆頭様から伝言でございますー」
「白兎から? 何と?」
「……リュイ様の御身に害ありと」
それを聞いてサーシャの顔色が変わる。
「リュイは?」
「ご無事ですー」
それを聞いてサーシャはほっと安堵する。
「バカは処分だ、もう我慢ならぬ。リュイとタウシャにそう伝えよ、私はこちらが片付いたら参るとも」
「畏まりましたぁ」
ベラはお茶の乗ったワゴンをカラカラとサーシャの前に置くと、一礼して部屋を辞した。
サーシャは舌打ちする。
「何を考えているのだ奴らは」
「最後の情けというやつだろう、あまり怒ってやるな」
ルキはサーシャの頭をそっと撫でる。サーシャは苛ついたように息を大きく吐いた。
* * * * *
「リュイ、加減はどうだ?」
寝台で横になっているリュイの側にサーシャは腰掛ける。リュイの額に掛かる髪をそっと払いながら彼女は優しく言った。
「……申し訳ございません」
リュイはそう言って閉じた目蓋を震わせる。顔色は悪い。
「お前たちの企みなどに乗る気はないのだが?」
「……申し訳、ございません……」
リュイは繰り返し謝罪すると、眠りに落ちた。
「玉」
サーシャは玉を冷たい声音で呼ぶ。
部屋の前で待機していた玉はしずしずとサーシャの前に進むと静かに跪いた。
「正室の具合は」
「……じきに良くなられるかト」
「何があった」
「クリスタが業務を放棄シ、それを注意なサれた筆頭様に歯向かいましテ。ご正室様は筆頭様を庇われまして少々怪我をされた次第でございまス」
「……は! 護衛の首が幾つか飛ぶな。分かっていてやっておるのか? こいつらは。もっと怜悧な者たちだと思っていたが私の買い被りだったか玉?」
サーシャが薄く嗤いながら言うも玉は顔を上げない。
「……お前もか玉」
「ボクの唯一、ボクの北辰は陛下ただお一人でございます」
サーシャの目が眇められる。
「それで?」
「しかしながら男として彼らの気持ちも理解して余りあるものでございます」
「――私にどうしろと言うのだ」
「……リュイ様の願いを聞き届けて頂けますよう」
普段の軽い調子を打ち消している玉はじっと跪いたままで、サーシャは大きく舌打ちをした。




