あなただけのためには生きられない(2
リュイは後宮にロイスを呼びに来ていた。
これは本来侍従である彼の仕事ではないが、主に行けと言われれば否とは言えない。
サーシャからは『慌てずゆっくりと来い、語り合いたいこともあろ』と言われている。これはおそらくロイスと話をしろと言うことだろう。昨晩はマッドとヘリングの乱入で有耶無耶になったが、ロイスの身の振り方はリュイに一任されている。
とは言えリュイはまだ皇帝付の侍従であって、正室でもない。彼女の言葉と素振りから寵愛を頂いているのは分かるし、どこで見初められたか、本人の申告を信じるならば6年も片想いしてもらえている。
これは僥倖と言うのだろうか、まるでよくできた成り上がり物語だとリュイは思う。
しかも女性が苦手なリュイにとって、サーシャには普通の女性に感じる嫌なところをなぜか感じない。
彼女とならば通常の夫婦生活が送れるのかもしれないが、あまりにも彼女は畏れ多い立場すぎる。
それでも昨夜の一瞬、甘やかな香りとともに、サーシャのゆっくり目の伏せられる瞬間を思い出し、あれは参ったと両手で顔を覆う。
リュイは思わず王国の神に謝罪する、が直ぐに頭をぶんぶん振った。
王国は男神ではなくその対となる処女神を奉る一神教。
神がソレであるから、姦淫に耽ることを罪とし、男は誠実女は貞淑であれという教えである。庶民間ではそこまで言われないが、高位貴族にいく毎に貴き血が濃いため未婚女性の処女性は厳しく求められる。
そのため帝国のような多神教、性に奔放であり、女性には処女性よりも多産な経産婦を重んじていることを内心軽蔑している。
であるのに。
王国では貞淑たれと言われる貴族の子女からどれだけ誘われたか。サリーは元庶民だが、色仕掛けで迫られることなどしょっちゅうだった。
彼女たちの裏には母の壮絶な最期の姿と、冷たく蔑んだ目をして憎々しげに母を見る王妃が過り、リュイは吐き気を催すほどだった。
そういう裏を見てきているために、リュイの信仰心は薄い。
普段全く神など気にしていないのに、神に赦しを得る言葉が出るのは不思議だ、と彼はうっすら苦く笑んだ。
後宮の入り口を守る兵たちに、椅子を勧められありがたく座る。
リュイは彼らの守る入り口とその周囲を感慨深く見た。
サーシャの後宮はシンプルだった。
歴代皇帝は自分の宮を与えられる。その中に後宮を作るのだが、自分以外の異性の侵入と側室たちの逃亡を阻むため幾つもの壁で仕切る。そして帝国の力を見せつけるかのように外装内装を派手に豪奢に飾り立てる。
だがこの後宮は彼女の性質なのか、他のように極彩色の壁画や彫刻などの派手な装飾はない。
対照的な図案の彫刻が茶に塗られた壁に控えめに、けれど繊細にバランスよく配置されている。
ふと気になって思わず立ち上がり、壁に近寄ってみたり離れてみたり、目を眇めながら見ていると声を掛けられた。
「何をなさっておいでか、リュイ様」
それは待っていたロイスの声で、堪えられない笑いが含まれていた。
「ロイス殿、陛下からのお呼びです」
「ええ、お伺いしております。でもまさかリュイ様が案内人とは」
「ロイス殿、様はやめてください……」
消え入りそうな小さな悲鳴のような訴えにロイスは赤く見える瞳を細めて小さく微笑む。
「しかしながら、ご正室になられることは確定でしょう? 大変名誉なことですよ、帝国の皇帝陛下に望んでもらえるなど……ところで何をご覧に?」
「分かってはいるのですが、畏れ多すぎて。そして、その壁の彫刻を見ていました。細かく細工してあるのですが、何の意匠かと思って」
「ああ、リスですね。この後宮はリス宮とも言われているようですよ?」
ふふ、とおかしそうにロイスが笑う。まるで子供が悪巧みしているような顔に、リュイは首を傾げた。
「リス……」
リス――リスに何か引っ掛かりを感じる。何かリスに関係してる何かあったはず。リュイの記憶のどこかにリスがいる。
「陛下の想い人の象徴だそうですよ、愛されてますねリュイ様は」
どこか寂しそうにロイスは微笑みながら伝える。
「後宮に使われている色と装飾は中も全てこの意匠です。茶色は言うまでもなくあなたの髪と瞳のお色。陛下があなたをイメージしてリスを題材にした彫刻にされたと聞きました。前にいらした時にはお気付きになられなかったのですね」
リュイは驚きで、やっとやっと言葉を紡いだ。
「……陛下は、陛下のための後宮なのに……私を」
「考えようによっては『重い』とも取れるでしょう。ですがアレクサンドル様は帝国の皇帝陛下です。その彼女があなたへの愛の証としてこの後宮を飾った。これは前例がないことなのだそうですよ」
後宮は皇帝ただ一人だけのもの。政治的な思惑や個人的な愛憎もあるが、そこには隣に立つ王妃や皇配のことは本来一切配慮されない。
それをサーシャは正室となるリュイに委ねたのだ。
リュイが望むままに閉じることも良しと。
閉じれば後宮はリュイの宮にする、そういう事だと痛感する。
「リュイ様、参りますか」
「その前に少しお話を致しませんか?」
不思議そうに頷くロイスを伴い、後宮からサーシャのいる庭園に向かう途中、渡り廊下に面した中庭に2人は足を踏み入れた。
護衛が一人、2人からやや離れたところで立っている。護衛兼見張りだ。
サーシャからはリュイにそういう者が付くことは従者となるその日に予め言われていた。
サーシャ本人は彼を信用しているが、同じ目で見る者ばかりでないこと、万が一にも命を狙う者がいるかもしれないことなど説明されたが、今となっては王国出身者と言うより正室候補という肩書きが大きいのだと腑に落ちる。
中庭には素朴な造りの小さなテーブルセットがあり、2人はそこに掛けた。リュイが深呼吸して話し始める。
「ロイス殿は死罪をお望みでしたが、それは許さないとのことです。今後は――」
リュイは言いあぐねた。
サーシャからロイスを呼ぶように言われた時に、伝えよと言われていたのは2つ。
ロイスを死罪にしないこと。もうひとつは――。
リュイはごくりと生唾を呑んだ。今から言うことはいつか自らの首を締めることになるかもしれない、彼には選択権があった。だが、その選択をするには時間が足りない。
サーシャからもっと早くに聞いていたら、サーシャがもっと早くに迎えてくれていれば、サーシャにもっと早く出会っていれば。
彼の、彼らの人生を左右しかねないこの重大な選択をさせる皇帝に恨み言を言いたくて仕方ない。
全てサーシャのせいにしたい。
リュイを見初めなければ、リュイを放っておいてくれたら、王国で諌められなかった彼らと共に処分してくれていれば。
リュイは内心頭を抱える。要は責任を取りたくないのだ。自分の心が決まるまで待つと言うサーシャの言葉に嘘はないだろう。
だが絶対にリュイは正室となる。これは覆らない。
だからこそリュイ自身のためによく考えて今後について答えを出さねばならない。
ロイスが心配そうにリュイを見る。
王国にいた時にはこんな風にお互いを気遣うことはなかった。
あちらでのロイスはサリーの教育係でもあり庇護者だった。本人の話からサリーへ欲望や恋情があったわけでも、グラスペイル公爵家に一物あったわけでもないと知っている。
「……ロイス殿は、王国に心を残した方がいらっしゃいますか?」
ようやく絞り出したリュイの言葉はロイスを思いがけず動揺させる。
「……それは」
「ロイス殿――いえ、ロイス。私と共に陛下にお仕えしませんか? できればあなたには側室筆頭として私と共に後宮を仕切ってほしい」
そう言って頭を下げるリュイに、ロイスの動揺で揺れていた瞳はゆるゆると大きく見開かれていく。




