マッド(3
「……サリーに会いたい」
マッドはベッドの上で小さく呟いた。
もう幾晩も越えたが、ここはいまだ見慣れぬ部屋、寝慣れぬ寝具の上、そして無いことに慣れない右腕を彼は押さえた。
全てに慣れる気がしない。痛みは治まらない。まだ落ちた腕が付いている感覚がある。
思わず動かそうとしては思ったように動けず、無いことに気付いてその度絶望する。意識を取り戻してからずっと繰返していて、彼は頭がおかしくなりそうだった。
――もうなっているのかもな。
彼は諦めたように力なく笑む。
起き上がろうと力を入れたが、上手く入らず横になったまま室内を見回す。
ベッドの周りはぐるりと目の大きな網のようなもので囲まれている。
その隙間から見える範囲には何もない。酒の臭いが強い。恐らく痛みで暴れるマッドに中和剤として酒を飲ませたのだろう。
左手でなくなった場所を確かめる。
斬られて落ちたのは肘から下だった筈だが、肩の辺りからすでにない。心細くて寒々しい気持ちになる。
熱い涙が堪えきれず両の目から溢れ流れた。マッドの心とは逆に室内は外の光を受け入れて明るいことが余計に彼を鬱々とさせた。
「……何で、何でなんだ、何でこんな、目に……」
ない腕を擦るようにして、ある筈の壁がないために身体に左手が触れる度にビクリと震えてしまう。
「剣が握れない……」
「お加減はいかがですか」
マッドは慌てて声のした方に顔を向ける。誰もいないと思ってポツポツ零していたのに、部屋の扉は開かれていてそこには小さな椅子に座っているリュイがいた。
「本日陛下から皆様の様子を見に行くよう承りましたので……」
リュイは椅子を持って立ち上がると、マッドの側に寄る。
「……はっ、何だその服装は。お前はもうご立派な帝国の犬か」
マッドは先ほどまで泣いていたため声が少し震えたが、ぎっとリュイを睨み付ける。
「……この裏切り者が」
マッドの言葉に、彼の顔が一瞬歪んだ。それに気を良くしたのか八つ当たりか。マッドの口からは彼を、帝国を責める文句が次々と並べられる。
リュイは黙ってそれを聞きながら、手元の紙に何やら書き付けていた。
時折表情が痛みをこらえたようになるのを見て、満足はしないが、マッドは少しだけ胸の空く思いがする。
リュイは書いていた手を止め、真っ直ぐマッドの目を見た。
「なあ、マッド。お前どうしてあの時陛下に向かっていこうとしたんだ」
リュイの口調は身内だけの時の砕けたものになっていた。リュイはクリスタの乳兄弟で公にはきちんと礼儀を弁えているが、幼馴染3人だけの時は気安い話し方になる。
「あれは向こうが侮辱してきたからだ。きっと隣のあの女、ソフィアが皇帝を誑かしたんだ」
「……ソフィア様は皇帝陛下と縁戚なんだよ」
「だから何だ。王国は禁止しているが帝国じゃあ動物のように近親婚もできるんだろ? デキてたっておかしくはない。しかもクリスタの婚約者だぞ、あの女狐は」
「……帝国は近親婚を奨励しているわけじゃない。帝国は多様性を認める国で、一部民族の風習を禁止してないだけだよ。それより不貞を疑うならクリスタの方が良くなかったろう? 俺はずっとお前たちに止めろと言ってきたのに」
リュイが力なく言うと、マッドが噛みつく。
「サリーを苛めていたんだぞ、あの女は」
「それもサリーの言い分だけだったろ。なあ、良く考えてみろよ。ロイス殿はまあ……置いといて。お前、クリスタ、ヘリングさん、更に俺にまで色目を使う女だぞサリーは」
マッドがその言葉で憤怒に燃える。
「……っ! サリーを侮辱するな!」
「熱がまだ下がってないのに興奮させて済まない。だが今だからこそ聞いておく。お前はサリーとどうなりたかったんだ。クリスタといちゃついて、俺を追いかけ回し、ヘリングさんやロイス殿ともくっついてる。あの女の振る舞いは庶民でも普通ならやらない。あれは――」
「言うな!!」
マッドは聞きたくなくて耳を塞ぎたかった。そうすることが出来ないから、今すぐリュイを蹴り倒して殴ってしまいたいがそれも出来ない。熱があるとリュイは言っていたがそのせいだろうかと、マッドは忌々しく彼を睨むことしか出来ない。
「……サリーがクリスタと婚姻したらお前はどうするつもりだったんだ。諦められたのか? サリーはアレでも王族、お前とは婚姻出来ない。もし彼女と一線を越えたとしても、無理だ」
「……俺はただ彼女の側にいられたら……それにクリスタはサリーが本命じゃないって言ってただろ。婚約を失くしたいからサリーを使うって」
マッドが目を閉じれば、サリーの笑顔が見える。マッドの軽い冗談に膨れっ面をして見せたり、焼き菓子を差し出してくる時の顔、『美味しい?』と心配そうに聞いてくる声まで聞こえてくる。
一線を越えてはいない。いないが、頬に掠めるような口づけを落とした時のサリーの照れた顔、啄むような口づけに上気した頬、貪るような口づけには熱に潤んで蕩けた瞳があった。きっと自分も蕩けた顔をしていただろう、とマッドは胸の高鳴りと共に思い出す。思い出せば熱く疼く。疼くそこは熱のせいか違和感がある。
マッドが甘く楽しい想い出に浸っているところをリュイの声が彼を現実に引き戻す。
「お前が馬鹿にしたソフィア様と皇帝陛下より、サリーとクリスタの方がイトコだからより血が近い……しかもお前知らなかったのか? クリスタはサリーと本当に婚姻するつもりだったんだぞ……」
「う、嘘だ! お前はそんな嘘をついてまで俺を傷つけたいか! 腕を失ったのにまだ……皇帝か、あいつが俺を脅威と思ってるんだな!? だからお前にそんな事を言わせて――」
「いいか、マッド。まずはそこからだ」
リュイは帝国のおかげで他国との戦争を抑えられていること、騎士団に負傷者が出ない代わりに帝国兵に負傷者や戦死する者がいることを話す。
「正直言うと、俺は騎士団じゃないからそんなに帝国に守られているとは知らなかった。王国はずっと帝国を下に見ていたし。それを危ういと思う人は王宮内にも多かったようだ」
マッドは騎士団にいた頃にその話を聞いたことがある。リュイは生意気なアイツと同じことを言うのかと腹立たしく聞く。
「でも凱旋していたじゃないか……あれは嘘だったと言うのか」
凱旋はアイツの言っていたような王国民への『国を守っているアピール』などではない。あれは確かに騎士団が王国騎士団として立派に戦った証だ。
「凱旋は、王が騎士団にやらせてるんだよ」
だがリュイの言葉は鋭い刃となってマッドの胸を真っ直ぐ貫いた。
「帝国と王国は友好国として長かったけれど、王国は長引く戦に耐えられなくなってた。友好国というだけでは兵を置けない帝国が、形だけ属国というものにして中身は友好国のままでいようということにした」
だけどね、とリュイは言い淀み、小さく息を吐く。
「王国は帝国への恩を仇で返すような真似ばかりした。ソフィア様の婚約もそうだ。元々は帝国で婚約内定していた相手がいて、社交界も帝国で参加していたのにそれをひっくり返した。本来なら先に相談しなければいけない帝国を無視しての事後報告だ」
だからこそ6年前に皇位に就いた現皇帝は、属国を形だけでなく実質なものにすると王国側に通達した。
それでも変わらぬ舐めた態度に業を煮やし、あまつさえ縁戚であるソフィアを貶めるような茶番劇の開幕を知り、皇帝は王国の腐敗を切り捨てるために駆け付けたのだ。
だが、話を聞いてもマッドは低く唸るしか出来ない。
帝国は王国に使われる側だった筈だ、リュイが言った話など嘘だと彼は呟く。
リュイはしばらくそれを黙って聞いていた。何度も何かを言いかけては止めしていたが、やがて手元の紙の一番下から一枚引っ張り出すと、それをマッドの枕元に置き、口を開いた。
「最後に伝えておくことがある……『マッド・デグス、その性質より陛下の傍に侍る事を禁ず。陛下及びソフィア・ロシュタリア嬢への愚行愚挙、狼藉を鑑みて王国へ戻すことも市井に降ることも許さず。よって宦官として後宮の下働きに処す』」
「……どういう事だ? かんがん?」
「男として役に立たない処理をされたということだ。身体が治り次第、この部屋から出ることになるから。そういう腹積もりにしておいて」
リュイはそう言うと、椅子を元あった場所に戻し部屋から出ていった。と同時に扉が閉められる。
「男として役に立たない……?」
マッドは先ほど違和感があった股間に手を伸ばした。
* * * * *
リュイが去ったすぐ後から、悲痛な叫びと泣き喚く声が中から長く扉の側に控えている兵士の耳に聞こえたが、彼はそれに同情する気持ちは一切持てなかった。
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