266.混乱
おそらく――
少し粘性をもった透明な液体を見ながらアキオは考える。
今、動力室に流れ込んでいるのは、防御システムとしての溶解液ではないだろう。
反物質炉は、その性質から定期的に洗浄しなければならない。
かなり面倒な作業なのだが、それを簡単に行うために、ほとんどのシステムで洗浄液で炉心を満たす方法をとっている。
その多くは、強アルカリ溶液を用いているが、中には、ガラスを溶かすフッ化水素酸を使うこともある。
いずれも、人体を容易に溶かす有害物質だ。
それが、今、大量に室内に流し込まれているのだ。
「ピアノ、ヨスル、上に避難だ」
アキオに命じられ、ピアノがヨスルを抱いて、壁の中ほどに作られた通路に飛び上がった。
「ヴァイユ」
「待ってください。もう少しです」
流れ落ちた液体が、必死に作業を行うヴァイユに迫る。
「コクーンを使って」
上からピアノが叫んだ。
「だめなの。コクーン越しではタッチパネルが操作できない」
「ヴァイユ!」
破裂音が鳴って、少女の胸から下が透明な膜につつまれる。
「とりあえず、身体の半分を包んでおこう」
少女のすぐ後ろで、アキオがアーム・バンド操作しながら言った。
ナノ・コクーンは熱には弱いが化学薬品には耐性が高い。
そして、全体を包むのは容易だが、下半身だけ包む場合には、細かく指示を与えなければならず、慣れが必要なのだ。
アキオは歩いて、流れてくる液体に近づき、足先で触れてみた。
アーム・バンドに表示される数値を見ながら言う。
「地球では見かけない物質が含まれているが、強アルカリ溶液なのは確かだ」
「ということは――」
ピアノが尋ね、
「触れれば、人間は簡単に溶けてしまうな」
「アキオ、ヴァイユ、早く上に上がって」
「待って、もう少し」
「まだ大丈夫だ。しばらくなら――3分くらいならコクーンはもつ」
だが、恐ろしい勢いで流れ込む洗浄液は、すでにヴァイユの膝より上に届いている。
「だめよ、2分経つ前に、あなたの頭より高くなるわ」
「それまでに何とかします」
「慌てるな。俺が横にいる」
アキオが少女に声をかける。
「はい」
振り返らずに首を縦に振ると、ヴァイユは目まぐるしくタッチパネルを操作し続ける。
「制御系に入りました」
その間にも、水位は上がり続けている。
ピアノは、手すりを強く握りしめて、作業する少女を見つめるが、声はかけない。
自己満足で話しかけても、邪魔になるだけなのを知っているのだ。
ついに、透明な溶解液はヴァイユの胸の高さ、つまりタッチパネルにあと少しで届く水位になる。
少女の指の動きがさらに激しくなった。
突然、部屋が美しい碧い色に包まれる。
「これは」
ヨスルがつぶやく。
この光は危険な光だ――
そう考えて、彼女は、自分が雷球以外の光を感じたことに驚く。
「チェレンコフ光だ。この程度ならしばらくは大丈夫だ」
アキオが答える。
テスラ・タワーの窓から漏れていた白い光が、水位を上げた透明な洗浄液の中を通ることで色を変えたのだ。
一般に、溶液中の光の速度は真空中より遅くなる。
ある物体から、光と電荷(電子)が出たとして、液体中を移動する光より、相対的に電荷(電子)の移動が速くなると、光のソニックブームとも呼ばれる、衝撃波を出して発光する。
これがチェレンコフ放射だ。
真水より高い表面張力があるのか、コントロール台の周りを盛り上がっていた液体が、ついにパネルに流れ込んだ時、
「おわりました」
最後のキー操作を終えたヴァイユがアキオを振り返った。
「でも――すみません、バルバロスの制御系を破壊する時間がありませんでした」
「ホイシュレッケは」
「お互いの言葉を失って、動けなくなっています」
アキオはうなずいた。
かつて極北で彼女が話してくれた地球の宗教物語にあった、天にも届くバベルの塔を破壊させるため、神が人々の言葉を通じなくして混乱させたように、ヴァイユもイナゴから共通の言葉を奪ったのだ。
「充分だ」
彼の言葉に、ヴァイユは振り返って可愛い笑顔を見せ――突然倒れた。
アキオが稲妻のように動いて、溶解液に倒れこむ少女を抱きとめる。
帽子が液体に落ち、瞬く間に溶け始めた。
アキオはヴァイユを抱き上げて、高々と飛んだ。
ピアノとヨスルのいる通路に降り立つ。
「彼女は」
ヨスルが問いかける。
アキオは、帽子を失って、直接見えるようになったヴァイユの髪抑え
に眼をやった。
「AEBが作動している」
「キラル昏睡ですか」
「そうだ」
ピアノは、目を閉じて昏睡する少女を見つめ、言う。
「アキオは、ヴァイユを連れて塹壕まで戻ってください。わたしは義姉と指令室に向かいます」
「だが――」
「動けるわたしたちより、倒れたヴァイユのことを考えてください」
アキオは少女の紅い眼を見る。
「彼女が止めてくれたから、戦車内に危険なイナゴはいません。サンクトレイカ兵は大した脅威ではありませんから、指令室に行くのはそれほど難しいことでないでしょう」
「だが――」
ピアノは、険しい顔でアキオを見ると、突然、笑顔になった。
「相変わらず心配性ですね、アキオは。わたしなら大丈夫。発作もヴァイユやミストラほど起きていませんし」
「――」
「アキオ」
「わかった。行こう」
そういうと、アキオは、ヴァイユを抱いて駆けだした。
ピアノとヨスルが後を追う。
通路を走り、階段を上がると、天井近くの出口に到着した。
アキオは、チェレンコフ光で青く輝く白い扉を、片手に持った小型斧で破壊する。
「ピアノ」
「気をつけます」
「君も」
アキオがヨスルを見る。
「大丈夫です。義妹と一緒なら」
アキオはうなずいて、ヴァイユを抱いて通路を走り去っていく。
それを見送りながらヨスルがつぶやいた。
「ピアノ、あなたの彼への――アキオへの気持ちがわかるようになってきたわ」
魔法使いの前に、ピアノが手にした銀色の針が伸びてくる。
「ダメですよ、お義姉さま。もう席はいっぱいですから」
「あら、何も欲しがらなかったあなたが、意外と執着するのね」
義姉の皮肉に、ピアノは柔らかく笑って応える。
「もちろんです。この世の中で、わたしが執着する、たったひとつの、ただひとりの人なのですから」




