226.心が二つある大きな、
ぼんやりとした意識が次第にはっきりしてきて、彼女は気づく。
ああ、今日もあの人がやってきてくれたのだ、と。
彼は、横になって眠る彼女の頭もとに腰かけると、やさしく首に掌を当ててくれる。
それだけで、彼女は幸せに胸がいっぱいになって、このまま死んでしまっても良いと思ってしまうのだ。
でも、自分が死んでしまえばきっと彼は悲しむだろう。
いつものように彼は無口だ。
だけど、彼女は、彼の心にはたくさんの言葉が渦巻いているのを知っている。
彼の掌を通して、それらが流れ込んでくるからだ。
彼女は眼を開けて彼をみた。
彼も彼女を見つめる。
それだけで良い。
言葉はいらない。
初めて彼と会ったあの日からずっとそうだ。
あの時以来、ケルビの少女、個体識別名ラピィはずっとアキオに恋したままだ。
世に知られてはいないが、ケルビは、動物と接触して、その思考を感じることができる。
さらに、ケルビ同士は、植物の生体波動を媒介させて離れた場所でも意思疎通ができる。
そして、何より、ケルビの知能は人間より高い――
ヒトより早く、ドラスの後継者としてドラス・ジュノスによって進化させられたケルビは、その強大な体力、再生力が足枷となって、ドラスの後継種となれなかった
死に対する危機感が致命的に欠落しているため、向上心が発生しなかったのだ。
体内での老廃物再利用による食事回数の減少、睡眠の不要、強靭な筋力、生体波動の利用による遠距離会話、300年に達する寿命――
様々な能力を詰め込んで巨体となったケルビを、ドラス・ジュノスは徐々に小さく改良して、最終的にヒト・サイズにする予定だった。
しかし、すべての物事に対して――自分の命に対してさえも、鷹揚すぎる性質は、ジュノスの眼鏡にかなわず、ケルビは、改良半ばで、いち種族としてこの星に放たれることとなった。
生命を自分の都合で勝手に改造する一方で、公平な思考もするジュノスは、解放にあたって、ケルビたち――そのころは数十体にすぎなかったが――に尋ねた。
なにか望みはあるか、と。
ケルビの思考を統括する一体が応えた――
ない、ただ放っておいてくれ、と。
以来、ケルビたちは、馬車を牽く馬として扱われながら、後から台頭してきた人間と折り合って、うまくやってきたのだった。
自分たちより程度の低いヒトを、支配しようなどと思わない。
支配など面倒なだけだ。
馬車を牽くことなど、彼らにとってはなんでもないし、たまに何か勘違いしたヒトが、ケルビを閉じ込めたり、傷つけて苛むと、その村ごと消滅させるだけだ。
ヒトは、それを勝手に夜盗の仕業だと勘違いしてくれる。
従順で温厚、低知能のケルビが、ヒトに逆らうとは夢にも思わないのだ。
彼女は、これまで48年、いくつかの傭兵団を渡り歩いてきた。
生まれ落ちて1週間でほぼ成体となり、様々な知識を、植物の生体波動でゆるく繋がった仲間から自然に教えられるケルビには、親子の情というものがほとんどない。
彼女も、生まれてすぐに親元を離れ、最初の傭兵団でラピィと名付けられて、馬車を牽き始めると、それで人生が完結したように感じていた。
3つ目の傭兵団で、ヒト科の女としては、異常なほど大きなマキイという少女が、彼女の世話係になった。
マキイは、彼女の手入れをしながら、身の上話をする。
同種には言えない苦悩も、言葉を理解しない動物のケルビには話すことができたのだろう。
彼女は、この小さく、か弱く、儚く、短命な生き物が好きになった。
ゆえに、マキイが危険を冒して他の傭兵団に殴り込んだ際には、仲間に生体波動通話で語りかけて、火事から逃れる体を装って建物を破壊してもらった。
結果的に、それが原因で、マキイは無謀なゴラン退治に派遣されることになったが、幸いにも馬車を彼女が牽くことになったので、ラピィは、女傭兵だけは助けようと考えたのだった。
ゴラン数体など、何ほどでもない。
体力において、ケルビはゴランに負けないし、電球も効かない。
地上のあらゆる動物、魔獣の上に位置する存在としてドラッド・ジュノスが造ったのだから当然だ。
そもそも、ゴランは、知能は低いが、ケルビの厄介さを身をもって知っているため、彼らには手を出さない。
もし、本当にケルビを怒らせたら、連絡を取り合った群れが、怒涛のように押し寄せて、たちまちゴランを踏みつぶしてしまうからだ。
だが、少し油断した隙に、不意打ちで馬車が倒されてしまった。
留め具から逃れようとするうちに、彼女は信じられない光景を目撃する。
これまで耳にしたことがないような轟音が轟いて、ゴランの頭が消滅したのだ。
魔獣を殺したのは、細長い武器を持つヒト族の男だった。
次の瞬間、隠れていた最後のゴランの手でマキイは倒されてしまった。
彼女は動けない。
敵か味方か分からない男の武器が凄まじい威力を持つことを理解しているからだ。
おそらく、顔を完全に破壊された少女はもう助からないだろう。
ラピィは、傭兵団による探索が始まるまで、森の中に潜むことにして、密かに留め具を外すと現場を離れた。
ヒトの命は儚く短い。
残念ながら、彼女にはどうすることもできないのだ。
だが――翌日、彼女はマキィと再会した。
驚くべきことに、あれほどの傷を受けながら少女は死ななかったのだ。
何か彼女の知らない技術で治療が施されたのだろう。
さらに、少女は容姿が変わっていた。
肌に触れて、その思考を感じるまで、マキイであるとは思えないほどに。
そしてその後――
ケルビ種の少女、ラピィは、生まれて初めて、膝が震えるほどの衝撃を受けることになった。
「帰ったよ」
少女の言葉で、男が振り向いた。
昨日、ゴランを一瞬で倒し、おそらくマキイを治療した男だ。
マキイの思考から危険な人物でないことは分かっていたので、ラピィは、彼が近づき、彼女の首に掌を触れるに任せる。
彼の手が触れた瞬間、彼女の全身を衝撃が駆け抜けた。
これほど、大きな容量を持つ精神を感じたことがなかったからだ。
男にはふたつの大きな心があった。
戦いに満ちた心と、喪失感と悲しみに満ちた心の――
男の生きてきた人生、戦いの記憶、悲しみの後の静かな余韻が、大きな川の流れのように彼女の心を押し流していく。
この人は違う。
単なるヒトではない。
もっと大きな――
震える気持ちで彼女はそう思う。
「大きいな――そして美しい」
初めて耳にする男の声は、深く、優しく、彼女の心を貫いた。
ラピイの少女は、この時、運命的な恋に落ちたのだった。




