依入の記憶の断片
母を治すには、少なくても自分が快ではなく、快里として見てもらう必要がある。快里はそう考えていることを克之と話していた。
依入のことを思い出してもらうのは、それからだろう。依入の心が僕の心だとするのならば何かが伝わるはずじゃないだろうか。
「兄ちゃん、どう思う?」
「そうだな……。現実を見るという意味で、少なくても今よりもマシにはなるかもしれないな。状況はここのところ進展がないし、薬を入れたところで解決するとは思えないしな」
克之と快里は色々なケースを話し合った。快里を息子だと認めない場合に依子が考えること。認めた場合、依子が考えること。受け入れた場合に、彼女の記憶の中に起きる変化などなど。
賭けでもあるが、今よりは良い記憶回路になるのではないか?二人で考えた結論はそこだった。
快里は内線で依子に電話をかけた。
「はい、藤木ですけど」
深呼吸して快里が話す。
「……ねぇ、母さん。……快里だけど、庭に桜が咲いてるんだ。散歩しない?」
言葉を選んで反応を待つ。快里は口の中が粘ついてきて、手に汗が滲んできた。
ひと呼吸、ふた呼吸、み呼吸めの沈黙。
「……快里?」
「お母さん。そうだよ、快里だよ」
「快里……。どこにいるの?」
「すぐ近く。中庭にきれいな桜が咲いてるんだ。散歩しない?」
「そうなの?行きましょう。珍しいわね。あなたが誘ってくれるなんて」
「待ってて母さん、今からそっちに行くから」
快里は薄手のジャンパーを羽織って、急いで母の病室まで歩いた。
『藤木依子』と書かれた表札がある病室の目の前まで来たところで、ノックをしようとして汗ばむ。また父と間違えられたらどうしようか・・そしたら自分はどうかえしたらいいのだろう?
唾を飲みながら目を強くつぶる。ひと呼吸。母の名の表札を見ながら、意を決してノックをした。
コンコン
「はい。快里?」
依子の声がした。
「うん。母さん」
「入ってらっしゃい」
快里は拳を握りしめ固唾をのんだ。そして扉を開けた。
「快里……?」
少しだけ怪訝そうな顔をして依子はこちらを見た。
「お母さん……」
思わず口から言葉が出る。
沈黙。時計の音が耳障りに感じた。
そして……。何度目かの秒針を刻む音を聞いた後に、ふと母の顔色が代わり笑顔になった。
「どうしたの?快里、そんな深刻な顔して」
緊張が解ける。
「あ、うぅん。何でもない。桜が咲いてるんだ、綺麗だよ、行こう」
「そうね」
依子は依入に似た笑顔をして笑った。
快里は依子を連れ出すと、病室の無機質な扉を閉めようとしつつ、いったん中を覗いた。
依子が快里だと言って可愛がっていた古びた人形は、ロッカーの上に元から忘れられていたように置かれていた。たぶん依子がおいたのだろう。それは彼女なりの設定、そして選んだ現在にそぐわない存在が、排除されたということかもしれない。
快里にはまるで、人形が自分に笑いかけているような気がした。
依入……。
ふと口に出さないように注意して心の中でつぶやいた。
病院の中庭には八本ぐらいの桜が植えられていた。中程の噴水までアスファルトで遊歩道が造られている。病院の中庭ということもあって、意外にも先客がいない。面している病室が、ICUか移植患者用の部屋、あるいは個室だから、目立たないのかもしれない。
桜は八分咲きといったところだが、それを独り占め、いや二人で見ていられることが幸せに感じた。桜の花びら一つ一つが、ソメイヨシノ独特の淡いピンク色、桜色で心の中をじんわりと染めようとする。
快里は桜を見上げて、その桜色を自分の心の中にじゅっと吸収しようとした。それが依入に対するお礼のような、そんな気がしたからだ。
花びらが少しだけふんわりと舞っていた。
「綺麗ね」
依子がふとこぼす。
「そうだね。桜のピンクって、ほんとに綺麗だよね」
「そうじゃないわよ。ほら、これよ」
依子はアスファルトで舗装された道ばたに咲く、一輪の黄色い花を見てそう言った。アスファルトの間のわずかな隙間から、その花は健気にも萌え出て、風に揺れていた。
桜という強烈な存在感のある綺麗な花の下で、小さな草が黄色い小さな花をつけている。その花がなんて言う名前かもわからない。
「綺麗だと思わない?快里」
胸がぎゅっと締め付けられる思いがする。目立たない物に心を引き寄せられる母と、それを求めていた自分の心。
「そうだね。母さん。よく見つけたね。今まで気にもとめたことが無かったよ」
「そぅお?あなた、昔からこういうお花をよく見つけていたわよ。時々、摘んできて叱ったもの」
依入のことだ。
「どうして?」
「だってお花が可哀相でしょ?ここに咲いていればみんなが見てくれるもの」
再び、花の方を向いた。
「今日はこんなに風が強いのに、あなたもがんばっているのね。綺麗に花を咲かせて、誰に見てもらいたいと思っているの?」
依子は微笑んでほんの少し花びらに触れたが、なにかを考えて手を引っ込めた。
「これじゃ、依入と同じになっちゃうわ。さわっちゃうと痛んじゃうかもしれないからね。そっとしておいてあげましょう」
……依入?
胸が詰まる思いがした。
「お母さん……、今なんて言った?」
「これじゃ、あなたと同じになっちゃうからって言ったのよ。聞こえなかった?」
笑いながら続ける。
「皮肉よ。ひ・に・く」
快里はすこし目を閉じて話した。
「……そうだね。寒いから早く病院に帰ろうよ。お茶を入れるよ」
依入を思い出したわけじゃなかった。
快里は自分自身でも依入のことを完全に受け止めきれてない。そして心が弱いこの母が依入のことを受け入れられるかが心配なのだ。それでも僕のことを息子だと見てくれたということは、過去から現在に帰ってきたということだ。前進はしている。おそらく母の頭の中では、藤木依子は藤木快里を育てたことになっているのだろう。
でもお母さんが依入のことを忘れたままじゃ、可哀相だ。
いつか、母さんが元気になってから話さないとならない。そして必ず思い出してもらわないとならない。
あなたには愛娘がいた。
そしてあなたは確かに双子を生んだのだということを。




