選択できない人の矛盾
術後5週間。
誰かがリンゴを剥いている音がして目が覚めた。メイだ。入院中は決まってリンゴが出てくるらしい。
「あ。口の中切ってないよね?」
免疫抑制剤を投与されているので、病院内でも限られた場所しか出回れない。当然、食べられるものも限られている。
「あぁリンゴ?大丈夫だとおもうけど」
果実や花にふれたりすることで、感染症になることもあるらしい。
「じゃあ、はい、快里」
フォークにリンゴをつけて、メイが快里に食べさせようとした。
「いいよ。フォークぐらい自分で持つから」
「なんでよ。喜びなさいよ」
じとっとした目でメイが快里をみた。快里もつられてじっと見てしまう。
沈黙。
「ははっ、なんて目、してるんだよ」
「ふふ」
どちらからか笑い始めてしまった。久しぶりだ。メイと普通にしてられるのは。
快里はぼんやりとカレンダーを見ていた。
ここのところ、毎日のようにネイもメイが来ている。学校が春休みに入っていることもあるけれど、それにしても来すぎだ。
「メイ、すること無いの?」
「うん……ないよ。少なくてもこれ以上大切なことはないもん」
メイは笑いながら答える。
「部活は?」
「もう終了。今年は3年生だよ。快里」
「そうだっけ」
「勉強しないとならないね」
「そうだよ。大丈夫?」
「どうだろ。快里には教えてもらう予定だから。あ……、快里はどこの大学に行くの?……やっぱり医大?」
急に脈が速くなってきた。よく考えてみたら、そういことを考えたことがない。
「ど、どうだろう?僕は親父や兄貴とは毛色が違うからなぁ」
「でも……。快里、頭いいし。あたし結構偏差値低いから、いっしょの大学には行けそうにないね」
目をつぶると、心臓がどきどきといっているのがわかる。
「ネイにも言われたよ」
考えてみるとずっと緩やかな時を一緒にいられるわけないんだ。どんなものには終焉がある。リーシャとの時間も、依入との時間もあっという間に過ぎてしまった。
たまたま、メイとネイとは一緒にいられる時間が長かった。それは偶然の運命だったのかもしれない。
気がつくと、メイが目の奥をのぞき込むような顔をしていた。
「快里。それまで一緒にいっぱい遊ぼうね」
「そっそうだね」
突然アップになったメイに驚く。今日は……。妙に心が落ち着かない気がする。取り繕うのがなかなか難しい。
「変わったね、快里」
「そ……そうかな」
「うん、良い方にね。そうネイが三時過ぎにくるって言ってたよ。ネイ、いま予備校に行ってるからね。大変そう」
メイが話ながら、窓の外を見た。快里もつられて窓の外を見ると、桜が美しく咲いていた。
快里の部屋はちょうど中庭に面したところなので、桜が良く見えるのだ。
山に登った頃は桜のつぼみが出てくるかなと思わせるような時期だったのに、意識を失っている間に、あっという間に時が過ぎてしまった。
一瞬とも思えるほど、一月にも満たない間のはずなのに、周りに変わらずにあるように見えた物が様変わりした。依入が死んで、ただその心だけが脈々と僕という生命を育んでいる……。
コンコン。
「はーい」
メイが快里より先にドアのほうを向いて言った。
「どうだ、調子は」
兄貴はここのところ、時間を見つけては様子を見に来てくれる。それが、血が繋がってないことに対して、何かを気にしているようにも見えたし、そもそも、そういうようなことは考えていないようにも見えた。
「なんだ、兄ちゃんか」
「なんだとはひどいな。ネイちゃんじゃなくて残念だったのか?」
「そ、そんなことはないよ」
快里は、図星かもしれないと、思わず感じていた。
「私がいるのにねー」
克之は快里があわてる様子を見ながら、口元をゆるめて優しそうに笑った。人間らしく振る舞う快里が、かわいくて仕方がないのかもしれない。
「その様子なら、元気そうだな」
「ところで兄ちゃん、依子さんの調子は?」
快里が話をそらした。
「会ってみるか?」
克之は突然険しい顔をした。そして寂しい顔をしていう。
「おまえの母さんだしな」
メイもつられて神妙な顔つきになる。
「どうしたの?」
「……どうとも、言えない。俺には……。な」
「それって……」
克之は快里にそう言うとドアを開け、『来い』というサインを指でして出て行った。有無をいわさずに言われたので、快里はその辺にあったカーディガンを着た。スリッパを引きずって廊下にでようとして、快里はメイの方を振り向く。
「あ、アタシは、待ってるから、気にせずいってきて」
克之としては快里を気遣ってゆっくり歩いているつもりなのだろう。が、頭の回転が速い人はスイッチが入ると歩くのが自然と速くなる。
「ちょっと待ってよ」
快里はたまらなくなって声をかけた。
「ああ、すまん」
「どういうこと?」
もちろん依子さんのことだ。
「まだ自分の世界にいるよ。まぁ見た方が手っ取り早いんだろうけど」
克之は依子さんの病室をノックした。はいと返事のする声がする。この声を限りでは、何も問題を抱えてないように感じる。
「あら。先生。お久しぶり」
「えぇと。昨日あったばかりですよ」
「そうだったかしら。ねえ先生見て。可愛いでしょう?男の子よ。おかげさまで昨日無事に生まれたのよ。快、あなた。見て。あなたに似ていて可愛いでしょう?」
依子はぼろぼろになった人形を大事に抱いたまま、それを快里に見せた。
まだ僕のことを自分の夫だと思ってたんだ。
快里は『そうだね』と合わせてしまうべきか僕はあなたの息子なんだと言うべきかわからなかった。
考えて見たら最初にあったとき、自分が依子さんに流されなければどうなったんだろう?
そのままでいれたのだろうか?
唾を飲み込んで焦って沈黙してしまう。快里は助けを求めて、克之の方を見た。
克之は冷静な顔つきで、何も答えられないという意味合いを込めて首を横に振った。
「かいくん。パパにこんどお風呂入れてもらおうねぇ。パパ、いっぱい覚えないといけないよねぇ。かいくんのオムツとか変えるんだもんねぇ」
依子は彼女の赤ん坊に話しかけた。
「ほら、抱いてあげて。まだ首も腰も据わってないから気をつけて」
彼女は彼女の赤ちゃんに話しかけながら、自分の架空の夫に話しかけていた。人形を大事に抱いて、快里にそれを抱かせようとした。
「かいくんは快里にあげることにしたのよ。あなたはこれからパパなんだから」
話しかけられても困ってしまう。
自分がなんて言って良いかわからない。胸が詰まる想いがした。彼女には……。依入のことがすっかり無かったことになっていた。二十五年もたった二人で一緒にいたのに……。
僕にだって兄貴や親父との想い出は切ないほどたくさんある。
依入との想い出、楽しいこと、つらいことを二人で乗り切って生きていたはずなのに、依子さんの頭の中では依入が無かったことになっている……。
やり切れないような怒りが、自分の内面からしみ出してきているのを感じていた。
「ねんねんね。ねんねんね。かぃりとえぃりはどこ行った?遠いお山の日が暮れても、かぃりとえぃりは寝られんよ。ねんねんね。ねんねんね。かぁかととぉとはどこ行った?明かりが消えても夢見ても、あなたの隣についてるよ」
依子はやさしそうに我が子に向かって子守歌を歌い始めた。
「!」
快里はドアを開けて外に飛び出した。
「おい!」
克之が急いで追いかけてきた。快里は廊下の角を曲がると立ち止まり、両手を握りしめながらうつむいた。
「僕と依入のための子守歌だ」
「あぁ」
「僕と依入の名前が歌になってる。特徴的な少し外れた音程で……。懐かしくて、それが切なくて」
快里は次から次へと思うことをぶちまけるように話し始めた。
「おい、快里、おい。お前は聞いたことがないだろ?」
「あ」
何かに気がついたように克之の顔を見る。
「わかんない。……でも、この歌は子供の頃、聞いたことがあるんだ」
「え?俺も聞いたことが無いんだぞ」
「だけど……あるんだ。依入が死ぬ前に少し歌ってくれた」
「あぁ、その時の話か……俺はてっきり……」
「でも……。そのときもなんとなく懐かしいって思ってたんだ。僕は……、父さんの所に聞きに行ってくる」
快里は、駆け足だけれどゆっくり俊克の診察室に向かって歩いていった。




