願い……と、奇蹟……
快里が久しぶりに乗る兄のクルマの中。ブラウンの皮シートから、皮クリーナーの油成分の臭いがほんの少しした。
昼下がりだということもあって道路は空いていて、クルマは駅まではすぐについた。兄はあえて駐車場に入らずに、フロントガラスから駅の改札までが見渡せるような場所に停車した。
何も言わずにエンジンを切って止まる。快里は兄が無言でいてくれるのがうれしかった。
依入との約束を思い出す。
「下山したらガラスケースのひな人形、同じ物は無理でも似たやつを見つけてね。お雛様を祝うの」
「え?」
「笑わない。私だって、やったこと無いんだから。お母さん、何か思い出して良くなってくれるかもしれないし」
ここで僕がなにかをしたら、依子さんは依入のことを思い出せるのだろうか。あるいは、何かの奇蹟が訪れて、改札から何事もなかったかのように、依入が出てきてくれる……そんなことを願う自分がいた。
願いと、奇蹟。
いや、奇蹟なんて無い。
それは頭の中で作り出した幻想なんだと思う。
どんな幻想も作り上げられる。
どんな願いでも叶う世界に、浸らせることができる。
僕も……可能ならその世界に入りこんで、
冷たい石のなかに閉じこめられたかのように、
永遠とも思える時が、少しずつ過ぎるかのように、
固まって石になってしまいたい。
そしたら、どんなに楽だろう……。
呵責が痛くて。
恨めしいほど弱いこの体の中を横溢しても、
刹那的にでも良いから受け入れるしかなくて。
何もかもを斟酌してくれる彼女の笑顔が浮かんでも、
僕は石になることさえできない。
柔らかく心がどきっとして、
彼女の心が僕に生きなさいと言う。
どうして?と聞いても、彼女は答えてはくれない。
たとえ切なくても。
息ができないぐらいに、
胸が押しつぶされそうになったとしても。
彼女を思い出すたびに大きく息を吸って、
唾を飲み込もうとしたその時に、
涙が溢れそうになってきたとしても……。
僕は常に正しくいて、
前向きに生きなくちゃいけない。
彼女が誇れる弟と、言ってくれたから、
いつまでも誇れる人で、いつづけるために……。
いつでも、いつまでも、必ず。
祝福のように、
あるいは呪いのように。
僕の体を覆い尽くしてゆくのだ。
快里はフロントガラス越しに見える桜の花びらの舞う様子で、強く吹く春の暖かい風を感じていた。
目の奥から滲んでくる涙と、のどの奥から感じる嗚咽のようなものが体中を支配する。
このまま凍りついてしまいたい。いなくなってしまいたい。
それでも胸は柔らかく、特に寂しく鼓動して、快里自身を慰めているように思えた。
ダッシュボードにある時計は、四月三日を示していた。




