マイハート
脊髄の奥からハンマーで殴りつけたような音がする。
ズキン、ズキンとしなるような音。
飽きた僕の心が一定のリズムの度に、現実に引き戻されるような、非日常感を味わっていた。
苦痛を醸し出す音。
それが心臓が放っていた音だと気がつくまでは。
次第にそれが気持ちよく感じ始めた時は、周りの音が微妙に聞こえてきて、それが気になり始めてきた。まるで音に引きずられて現実の世界に引き戻された幽霊のように。
依入はどうなったんだろうか。兄貴は?メイはネイは?
心の中での関心毎が次々に沸き始めていた。
何も知らなくて良い。
何も話さなくても良い。
そう思っていたはずなのに、
無駄にも思えた日常のくだらないことが、僕の心の中で知りたいと思えることに変わり始めていた。
じんわりと目を開こうとしても、開かない。
目や耳が、外とのつながりを拒絶するかのように。
「快里。快里。俺だ、わかるか?」
揺さぶるような感覚がして、父さんの声が聞こえた気がする。焦点を結ばないが、目がほんの少しだけ開き、木漏れ日のように光が入ってきた。
こういうのは久しぶりだ。
父さんはいつも、家にはいないから。今日は病院は休みなのだろうか?いや、休みだって急患でも出れば跳んでいくだろう。こういう感じは久しぶりだから、親父には悪いがもう少し休んでいよう。たっぷり寝たような気がする割には、なぜか体がだるかったから。
「快里。快里。おい。起きろ。おい」
声質が少し高めに変わった。兄貴の声だ。多少音が親父より高いだけで、声質はほとんどそっくり。電話だと僕でも聞き間違えてしまうときがある。だけど、どうして兄貴も親父もいるんだ?そろって休みになることなんて、めったにない。
「おじさん……快里くんはもう大丈夫なんでしょ?もう2週間たつよ……。移植手術のあとってそんなに起きないもの?」
ネイの喋る声がした。
「いや……心臓移植だけならここまでは長くない。拒絶反応もほとんど起きてないし、術後経過は順調。……やはり心なんだろうか?克之」
心臓移植?
「内的意識はそろそろあるハズだよ。ほら、α波が多い。でもわからない。心……なのかな。普通の医者が聞いたらびっくりするような話だけどな。正直、依入さんの心臓を移植しても、快里の心の病気が治るとは限らないよな。ただ……」
依入の心臓?どういうこと?
「ただ?」
メイがそれに追従して聞き始めた。
兄貴が小声で何かを話した。それがすごく気になったが、何を言っているのか僕には聞こえなかった。
「おそらく……。そうね。私もそんな気がする……」
ネイが言った。
「おじさん、快里君の心臓。結局、ちゃんと動いてるの?」
メイがストレートに不躾な質問をする。
「それは大丈夫。術後経過は完璧だよ。間違いない。心臓は申し合わせて、最初からあるべき心臓だったんだからな」
最初からあるべき心臓?少しだけ反応が遅れた心臓が、ホルモンの指令を受けて、ドクドクと強く早く鼓動し始めた。快里にとって初めての経験のはずが、それがなぜか最初からそこにあったような気がした。
「人工心臓っていうのは、結局未完成だったということ?」
メイが言葉を選ばずに聞く。
「残念ながら」
厳しい顔つきをして言い放った父のその表情が、快里には簡単に想像できた。
「だけど……。今まで快里が生き続けることができたと言うだけでも、親父の研究は立派だったと思うけどな」
きっと兄貴は苦笑いをしながらフォローを入れているのだろう。快里はそんなことを考えていた。
生芽衣が話を聞きながらしゃがみ込んだ。快里と目線の高さを合わせ、うっすらと開いているような快里の目をみて、快里の力のない右手を、両手で包み込むように握った。
「快里……起きたらまた……一緒に遊ぼうね」
伏し目がちに一言、呟くようにいう。普段のメイじゃないような優しそうな声。そこには希望と絶望が同居しているような、そんな願いがひたひたと紡ぎ込まれていた。
快里はこの声がなんだか寂しくて、きゅんと胸が締め付けられるような感じを覚えた。
味わったことがない感覚。なんだろう。考えていることすべてを覆して、それがすべてを決めてしまうような感覚。体が、脳に話しかけているようだ。
『メイちゃんの目を見てあげて』
快里の頭の中でそう言う声がした気がした。
稲委が生芽衣に変わってしゃがみ込むと、同じように快里と目線の高さを合わせた。ネイには力無く半開きになった快里の目が痛々しく見えていた。快里の左手を優しく両手で包み込むようにして、言った。
「私……まだ、快里くんに言ってないことがいっぱいあるのに……」
最後まで言い終わらないうちに、ネイの目からぼろぼろと涙がこぼれてきた。
『僕は人でなくなってしまうようなそんな気持ちがする時があるんだよ』
稲委はその言葉を強く思い出していた。『物』にでもなってしまったような快里の目。快里がいつか言ったことが現実になってしまったような絶望を感じていた。
言葉よりも多く、稲委の涙が静かに物を訴えていた。
快里はまどろみの中にいた。
「かいり〜。ひまわりいっぱい咲いたよ」
「かいりくん。みて、ほらほら。あたしたちよりずっとせいたかのっぽだよ」
白い服を着た二人が、ひまわりのまねをして揺れて見えた。
快里はメビウスの輪の世界にいるような錯覚を受け、このままこの中に閉じ込められていたほうが幸せかも知れないという感じさえしていた。
『家族がいて、と言っても私にはお母さんだけだけど、それからいつか大切な人ができたらその大切な人がいて、友達がいて。それだけで十分、幸せかな……。快里くんは何が幸せなの?』
ふと依入が言っていた言葉が頭の中で響いた。そして再び、頭の中で声が聞こえた。
『快里……、待ってる人がいるんだよ……』
待ってる人……。定まらない頭で漠然と考える。ふいに、快里の焦点の定まらない瞳がキュッと閉じた。
そしてゆっくりと目を開けると、焦点の合わない目に双子が映り込んだ。
「快里?」
「快里く……」
メイとネイの目が自分の目だけをじっと見ていることに気がついた。
二人の口元が同じようにふわっとゆっくりゆるんだと思うと、目の内側から鼻筋にかけてすっと涙がこぼれ落ちた。同じように口元が震えて、歯がかちかちと言っていた。
見たことがない情景。焦点がじわじわと合ってきて、涙で顔をぐちゃぐちゃにしたメイとネイがそこに写った。
小さいころはよく見た二人の泣き顔を思い出す。いつも大した意味も無く泣いていたものだが、いつしか涙を見せることが無くなっていた。次に二人の泣き顔を見るときは、本当に悲しいときなのだろうな。快里は過ぎた日に、そんなことを考えたことを思い出した。
どうしてこんなにドキドキするんだろう。この情景が、今までに感じたことがないほどに、胸をいっそう苦しめた。
「快里?快里?ねぇ。快里?」
メイの声が、一生懸命すぎて、滲み出るような申し出のようにも感じた。
快里は右手をゆっくりとメイの頭に持っていき、そして頭を優しく撫でてあげた。
「メイ……大丈夫だよ、僕は……」
瞳だけを動かしネイの方を見た。
「泣き虫だな……ネイも……」
ゆっくりと左手を動かし、ネイの頬を伝う涙を拭った。
「快里くん……」
ネイが手をぎゅっと握りしめた。
「でも、大丈夫だよ」
そこには何とも言えない色の空間が広がっていた。メイ、ネイ、兄貴と親父が、自分を囲んで、なんだかわからないような喜びの色を顔に滲ませていた。
快里はただそんなことよりもなによりも、そういう雰囲気を感じられるようになっていた自分に驚いていた。




