術後経過
心臓移植が終わって1週間ほどの間、快里には免疫抑制剤が投与され続けていた。克之にメイとネイから、見舞いに行きたいというメールが何度も送られてきていたが、毎回、断るメールを入れていた。
克之は時間を作っては、快里のいるICUまで足を運び、様子を見に来ていた。自分自身は精神科医なので、この治療には参加できない。自分が参加するのは、快里が目覚めてからだと思っていた。ただ、本当に目覚めることができるのか、そのことにすごく不安を感じていた。
特に術後、身内の体中の至る所からチューブが生えていた時は、見ていられないほど、それがいたたまれなくなってくる。血が繋がっていないけれど、やはり自分の弟なのだ。
幸いなところ、今のところは急性拒絶反応が起きているように見えない。HLA型が一致したとはいえ油断は禁物だし、慢性拒絶が起きても不思議はない。免疫抑制剤を投与しつつも、徐々に当り量を見つけていくことになる。しばらくは外には出れないが、そろそろ最初の心筋生検を経て、一般病棟に移動することができても良いはずだ。
もっとも、意識は全く戻ってきてないのだが。
一定のリズムを刻む心電図。
通常、人の心臓は自律神経の支配と血液中のホルモンの影響を受けて心拍数が変わる。しかし、移植された心臓では自律神経の支配がない。レシピエントとの神経の接続がないからだ。ただ、快里は本物の心臓を経験したことがない。だから神経支配のない心臓は別に新しいことじゃないだろう。それでもホルモンの量によって運動や多少の感情による変化が、心臓にも出るはずだから、快里の精神状態にはプラスに働くに違いない。
克之は病室を後にした。ICUを出て自分の診察室まで戻らなくてはならない。今日中の仕事はまだ山ほどある。特に依子さんの様子を見なければならない。ただ克之は、依子さんの病状は快里の病状次第で変わってくるのではないかという気もしていた。
1週間後。
快里は個室だがレシピエント用の一般病棟に移動した。もっとも快里の場合は、退院まで個室の場合が多いのだが。今までも作り物の心臓の調子が時々悪くなったりしたので、よくICUと一般病棟を往復することがあったのだ。特にレシピエント用の個室の一つは快里の部屋といっても良いような部屋になっていた。
病室には毎日のようにメイとネイが来ては様子を見ていた。免疫抑制剤を投与しながら様子を見ているので、見舞いの王道である果物や花は禁物だ。メイとネイはかつて何回か快里が入院した時のことを知っているから、いまさらそんな物は持ってきたりはしないのだが。
手術以前との違いは目を閉じて普通に寝ているように見えること。それがなんとなく、目覚めれば普通に話し出すような雰囲気を醸し出していた。
「快里、なかなか起きないね」
色白で痩せた快里の顔を見ながら、メイが言った。
ネイは頷くと、快里の顔にかかっていた髪をよけ、掛け布団をきちんと整理した。
コンコン。
「ネイちゃん、メイちゃん。毎日ご苦労だね」
扉を叩きながら病室に克之が入ってくる。
「あ、お兄さんこんにちは」
ネイが気がついて椅子取り出そうとするが、克之は『いらないよ』というジェスチャーをしてそのまま病室のカーテンを空けた。
「もう空けて良いの?」
メイが質問をする。
「多分ね、もう光が入った方が良いと思うんだ」
克之が険しい顔をしながら脳波計をみたり、快里の顔を見たりした。
「ちょっとだけな」
快里に声を掛けるようにそう言うと、時計をみて今の時間をメモし、点滴の栓を閉めた。
「え?カツユキ、そんなことして良いの?」
「この点滴は栄養なんだ。もちろん止め続けると餓死してしまうよ。でも栄養がずっと流れていくと、快里の脳味噌はずっと考え続けるんじゃないかって。そう思ってね。仮説だけどね」
ネイがとても心配している顔をしているのをみて、克之が言葉を続けた。
「大丈夫、普段だってずっと飯を悔い続けてるわけじゃないだろ?ちゃんと様子をみてるよ。それと、脳波が大分変わってきたんだよ。手術前は振幅が弱い徐波が多かったけれど、今日は調子が良いのか、振幅が強い速波が多いんだ。これは以前の快里の瞑想状態に近いのさ」
メイは椅子を出すと快里の右に座った。
「快里……聞こえてるのかな?」
「どうだろうな。聞こえてるかもしれないな」
克之は、物思いにふけったように快里を見ると話し始めた。
「普通さ。人にとって、誰かとコミュニケーションをとるというのが、最上位の割り込みなんだよ。人間の赤ちゃんは人とコミュニケーションが取れないと死んでしまうからさ。だからリーシャを作る時に、人とコミュニケーションを取らないとならないように作ったんだ。そしたらリーシャが言ってたんだ。そうプログラムをされていたのだとしても、それが『愛』なんだと思うってさ。俺は考えもつかなかったけれど。人が人とコミュニケーションを取りたいと思う、それが人間に与えられた『愛』なんだろうな」
克之は快里をじっと見ながら呟くように言った。
「じゃ。快里に一生懸命、話しかければいいの?」
メイがそう答える。
「そうかもな。でもこの前、話したとおりで、快里は生命の維持と、人格が切り離されてしまってるから、もしかしたら耳も聞こえてないかも知れない。点滴を切ったのはね。エネルギーを経つためなんだ。もちろん死んでしまうまでエネルギーを経つわけじゃ無いけど、ご飯がなければ普通の人はご飯を探すだろ?」
「おなかすいちゃうもんね」
「あぁ。人間である以前に生命の根幹だよね。考えるってことは大脳に大量の糖分が必要なんだ。快里は思考の渦の中に入るけれど、エネルギーが足りなくなれば、生命の維持活動の方が、多分、優先されるはず。普通ならね。リーシャには効かないけれど、快里は生きてるからね」
「快里くん、人間離れしてるけど……」
ネイが心配そうだ。
「リーシャと一緒にしちゃダメだよ。」
メイが不服そうにいう。
「まぁ、そうだな。でも、リーシャを作ったおかげで気がついたことが一杯あるんだよ」
克之は笑いながら言葉を続けた。
「だから点滴を止めるのはちょっとだけさ。上手くいけばうれしいなってね。それから依入さんの心臓が入ったから何かが変わったかも知れないし。もうちょっとしたら親父が回診に来るからね。それまでね」




