心を取り戻すために
二日後。
克之は通常通りの激務をこなしていた。止まっていると心と体がバラバラになりそうだったからだ。駆け足で廊下を歩いていく。
「あ、先生。おかげ様で、昨日、子供が生まれたんですよ」
依子さんだ。この人も罪な人だ。自分の娘が脳死に貧しているのに、自分だけ逃げて自分の世界に閉じこもって。
「依子さん、一昨日も生んでましたよね。何人目ですか?」
意地悪そうに思わず聞く。
「あ……」
依子が急に困った顔をした。めまぐるしい勢いで頭を回転させて、理由を作ってるんだろう。
大人げない。医者がそんなことをしてどうするんだ。
「あぁ。すみません。僕の勘違いでした」
「え?あ」
克之は手のひらを返したようにあやまった。
依子は急に言葉を変えられて動揺していた。それはそうだろう。否定されたらその瞬間に、自己肯定のための理由を、現時点の自分の存在意義をかけて生み出そうとしてるのだから。
「あ……そういえば依里さん、今日は見ませんね」
依入さんなら集中治療室だよ。よっぽどそう言おうかと思ったが、克之は口をつぐんだ。
「すこし予定があって、しばらくこれないそうですよ」
「そうなんですか。残念ですね」
本当に残念そうな顔をする。あなたの娘が脳死になったのだという話をしたら、この人はどういう表情をするのだろうか。
「じゃあ、私は急いでますので、すみません」
克之は足早に去った。ここにいては今は何となく、大人でいられない気がしたからだ。
タクシーが勢いよく本間病院の前に着いたのは、その日の診察時間が終わり、夜遅く、入院患者も寝静まった時だった。スーツのまま俊克が急いで出てくる。克之は玄関まで親父を迎え出ていた。
「おかえり、みんな集中治療室だ。先に更衣室で着替えてきなよ」
克之が俊克の荷物を預かりながら言う。
二人は足早に歩きながら更衣室を経由して集中治療室まで歩いた。
「まずは藤木依入の人工呼吸器がついている状態。救急隊が到着した直後に心停止と呼吸停止が起き、そのまま蘇生まで二十六分かかった。その後人工呼吸器を通したが、うちの病院まで運ばれてしばらくしたら脳死状態に陥った。出血性ショックだ。それと、親父に電話をした後でドナー登録を行なった。個人の意志もあるが、唯一の身内の依子さんがああいう状態。法的にも完全な脳死の状態だ」
「綺麗な顔をしてるな。若い頃の依子さんにそっくりだ」
「そうかな。生きてる依入さんはもっと可愛らしかったぜ。この人は動いていたから綺麗だったんだ」
「そうか。で、快里は?」
「依入さんの心臓が、もっとも機能的に適合するレシピエントだということが認定された。隣の部屋だ」
俊克は焦点の定まらない目を開けたままにしている快里を見ると寄っていって腕をつかんだ。
「快里……。俺だ。わかるか?おい、快里」
克之は我が子と久々に向かい合う父親をそっと見ていた。
「快里が待機患者リストに登録されてるとは思わなかったよ」
克之が言う。
「快里……」
俊克は克之が言ったことに気がついてないようだ。
「親父、ダメだ。意識はない」
「脳外科的には?」
「脳に外傷はなくて、とりあえずは正常だ。そこはちゃんと担当医とも話し合ってる。ただ、そこに脳波計があるだろ?δ波が中心の徐波ばかりだが、丘波じゃない。紡錘波は見ないわけじゃないが、ほとんどない」
「ステージ4睡眠とは違うのか?」
「あぁ微弱すぎるからな。その割には波が弱すぎるんだ。しかも長い。救出されてからずっとだ。快里の脳波としては珍しいよ」
「いつもの状態とは違うのか?」
「ああ」
「ふぅむ……」
俊克は深い溜息をつき、続けた。
「何かの理由があって、脳が活動を抑えてる……と見るべきか?」
「わからないんだ。快里は色々と、特殊なんだよ。あくまでも予想ぐらいしかできない」
「予想?予想で良い、お前の予想は?」
「一番簡単に考えられるのは、認めたくないことに関してそれから逃げているという状況。依入さんが亡くなったことに対する逃げ。もしそれだとすると、基本的には依子さんと同じだよ。彼女は自分が男の子を産んだという設定のもとで、頭の中に世界観を作ってる」
「だけど、依子さんは自分の世界で生きているが、快里は違うだろう?」
「その点に関しては俺もそう思う。それに……快里にこうなる兆候が出ていたのは、もっと前だった。だから依入さんの死が誘因にはなっていても素因ではないと思うんだ」
「ふむ」
相づちを打った俊克を確認すると、克之は椅子から立ち上がった。
「快里に異常が現れたのは、今、考えるとずっとずっと前なんだ。覚えている限り、ずいぶん昔から集中力が尋常ではないほどある子だった。集中してた時は、いつもこんな感じの状態だった。ほとんど外部刺激を取り入れず、自分の世界に入り込む」
「そうだったな」
「たとえばシゾの患者に、健常者ならあっというまに寝てしまう量の睡眠薬の類を投与しても、負荷を感じつつも頭をフル回転させることが可能なんだ。ある局所的な極めて鋭いベクトルにおいて、その瞬間、大天才になるんだよ。快里が見た目昏睡してるように見えて集中している時は、ある意味でそれにかなり近いかな」
「それであんなに頭の回転が早かったのか」
「普通はある一方向のベクトルにだけ大天才になるんだけどな。その大天才の時間は、どんどん長くなっていった。あっちの世界とこっちの世界の比率がどんどん変わっていく。それが今の結果だ。快里は前からそれを、ずっと予測していた。いつか、あっちの世界から帰ってこれないようになるんじゃないかって」
「だけど普通の人は、考えている最中といえども、刺激を与えたら気がつくだろう?その説明は?」
「JCSの判定だとIII-200。対外的な反応だと昏睡だよ。脳外科の担当ともよく話してるんだが、それだと脳波は振幅が弱くなって、周期性のあるスパイクやシャープウェーブがでたりするはずなんだよ。快里の場合は、とにかく振幅が強い速波が多いんだ。もちろん、α波が中心なんだが、目を閉じてるわりにβ波もでるからな。つまり見た目や反応は昏睡してるんだが、頭が強い覚醒状態でブン回ってる。だったらと思って、ちょっと前に、ある一定量の睡眠薬を投与したんだが、脳波がなかなか睡眠状態に落ちなかった。量によるから最後は落ちたけどね。ただ……」
話しがあまりに推定になりはじめたので克之の滑舌が悪くなった。
「ただ、なんだ?」
「これはおそらくだけれど……。明らかに仮定だけれど……。ある種のDIDに近い症状なんだと思う」
「DID?解離性同一性障害か?そうじゃないだろう?そんな兆候、いつ出てたんだ?見たことがないぞ」
「だから仮定なんだ。実際、DSMを使って判定をしたが、結果はシロだった」
「じゃあ、何でそんな風に思うんだ?」
「快里の人格は二つある。普段、裏にいる人格。そして普段、表にいる人格。裏にいる人格には、人格がないんだ。人格がない人格を持った二重人格なんだ」
「どういう意味だ?」
「普段、表に出ている人格が、もって生まれた人格というわけじゃない。もって生まれた人格をオリジナル。普段、表に出ている人格をホストというんだ。快里のオリジナルには、人格がない。DIDがどのように脳を使っているのかはよくわかってないんだけど、おそらく快里のオリジナルは大脳をわずかしか使ってない。そのほとんどが小脳と脳幹だけの存在なんだ。生きるための生体システムだけ」
「生きるための生体システムだけ?」
「そう」
克之は首を目を開けたままにしている快里に向けて言った。
「快里は今、本間快里のオリジナルの人格じゃないかと思うんだ。大脳にほとんど根付かず、脳幹と小脳だけの存在。そして我々が普段見ていたホストである本間快里は、そのほとんどが、大脳上で作られた存在。彼はすべての生命維持活動をオリジナルに任せていたから、基本的には大脳という巨大コンピュータの元で、作られた人格という考え方ができる」
「あまり、人間をコンピュータと照らし合わせるのは、好きじゃないな」
「コンピュータのアーキテクチャ技法は、人間が人間の脳の構造を模倣して作り上げたようなものなんだから、元が人間で模倣がコンピュータさ。そう思えば不思議じゃない。俺が作った人工知能リーシャは最後に知能体として収束していったんだ。生命として根付かない知能体は、生きる意味を失うと収束していくというのが、いまの俺の考え方だ。そして快里はリーシャに親近感を抱いていた。リーシャは生命の維持という大役を持ってないパーソナリティだから、我々よりも論理的思考という意味においては、なんの束縛もされてなかった。快里をリーシャと同じように考えることはできない。だけど、もしホストの快里が大脳の大半に根付いた人格で、オリジナルの人格が生命維持の大役を受け持っていたとすると、快里もリーシャと同じように、生命に束縛されない知能体であり続けたということになる」
克之は一気に話をしながら、父親の反応を待った。
「実際、あいつは生きることに関して非常にクールだった。ホストは生きることに必死じゃないからな。集中するときは、表に快里のオリジナルが出てきていた。裏に快里のホストが隠れて、大脳のほぼすべてを使って、邪魔されることなしに思考を膨らませることができていたんだとおもう。それが、快里が天才的だった最大の理由だ。だけど快里はリーシャと同じように、論理的な破綻、つまり生きるということに対する固執が無かったんだ。その結果、ホストの快里が役割を終えたと考えて活動を停止し、オリジナルの快里だけが残った。それが今の状況なんだと思う」
「だいぶ突飛な考え方にも聞こえるが……。その考えで、どうして心臓を移植すれば良いと考えた?お前の専門じゃないだろう?」
「その前に。電話で言ってた快里と依入さんが双子だっていうのは?それを教えてくれ」
「あぁ……。お前にはすべて話しておくべきだな。快里だけじゃなくて依子さんとも関係があるからな。快里と依入は、二十五年前に依子さんが生んだんだ。父親は藤木快。ただ、当時二十五才だった依子さんが妊婦の間に、旦那さんの藤木快君がバイクの交通事故で亡くなった」
「え?……ちょっと待ってくれよ。じゃあ、俺と快里はまったく血のつながりが無いってこと?兄弟じゃないじゃないか」
「血が繋がってないのは兄弟じゃないのか?育ての親は親じゃないのか?快里は藤木快里じゃない。私が父親だ」
「……確かに。だけど、このことは依子さんは知ってるのか?」
「いや……。確かに快里は依入と一緒に生まれた。だがほぼ、死産で生まれたんだ」
「え?」
「快里には心臓がなかった。正確には心臓に近い物があったんだが、実際には機能してなかった。あの当時、私は心臓外科医としてどうにかやって行けそうな自信がつき始めていたころだ。産婦人科から連絡があってエコーをみたとき、快里の心臓はほとんど鼓動してないことがわかっていた。依子さんが依入と快里を生んだときには、私も同席した。そして、ほとんど死産と言って良い状態で生まれた快里を、私が人工心臓をつけて血液を無理矢理循環させたんだ。依子さんが、亡くなった藤木君が望んでいたこともあって、男の子を欲しがっていたことは知っていた。それでも男の子は死産だったんだ。私は何とかして、快里に生きる方法を与えてあげようと思った。だが心臓は機能していないし、無いに等しい。機能する見込みもない。事実上死んでいると言って良かった」
「それじゃ、母胎の中では何故生きてたんだ?」
「奇跡と言えることがあった。快里と依入は二卵性双生児でありながら、二人は癒着していた。いや、癒着は正しくないな。体の一部を共有するシャム双生児というわけじゃないから。快里の体から血管というかへその緒のようなものが、羊膜を貫通して依入の体に繋がってたんだ。生物が生きるための手段を選んだのか、事実上、依入の心臓は、自分自身と快里の二人を養ってたんだ」
「そんなことが?」
「それがどういうことか、良くわからない。そんな例はどんな文献を読んでもなかった」
「だけど、血液が相互に流れるといっても、血液型とか免疫型が同じじゃないとむりだろう?」
「実は血液型はもちろん、免疫のHLA型が完璧に一緒だったんだ。血液型と違って、HLA型は型の数が多い。他人だとまず滅多に適合はしないよな。型の数が一致するのは一卵性ぐらいだ。確かに血液が依入の心臓を経て快里に流れ込むためには、免疫型も一緒じゃないとならない。どちらかが合わせたのか、たまたまの偶然が重なったために、血管が快里から依入まで繋がったのか。何せあの子達のHLA型自体、珍しい型だからな」
「依入さんと快里は……、普通の二卵性の双子よりも結びつきが強かったんだ」
「そうとも言えるな。だけど現実問題として血管が繋がっている状態で、二人が成長することはできない。傷ができて感染症になるかもわからないしな。それに、そのままでは依入の心臓への負担が大きすぎるから、数日ももたないだろう。依入から快里を切り離せば、依入は100%問題なく生きられる。だけど快里は100%間違いなく死ぬ。結局、二人を摘出する時に、快里を切り離し、快里は死産ということになった。それは私が執刀したんだ」
「それは依子さんはしってるのか?」
「もちろん。我々では決断はできないから、結局、私が男の子を諦めてもらうように説得した。そのままでは両方死んでしまうが、男の子を諦めれば女の子は健康体として生きられると。法律的はどうかわからないし、人道的もどうなのかわからない。ただその判断は、その時点、いや今思っても、最良だったと思ってる」
「じゃあ依子さんは、自分が快里を見殺しにしたと思っているんだ」
「……そうかもしれないな」
「親父……。多分、それが依子さんの心の根っこにあるトラウマだ。不可解なことが多いと思ったんだ。ずっと依子さんの想像の世界かと思ってたが、なぜその想像の世界が生まれたのかがわからなかった。それは真実だったんだ」
「あぁ。だが私は何とかして、快里を依子さんに届けたいと思ったんだ。藤木君は私の中学時代からの友人だからな。彼が亡くなる前から男の子が欲しかったことは、私も知ってたんだ。それで快里に施せることはないかと、模索した。そのとき思いついたのが、なんとかして小型の全置換型人工心臓《Total Artificial Heart》を作るということだった」
「親父が研究してる人工心臓か?」
「あぁ。でも全置換型人工心臓は当時もまだ不完全で、脳に影響を与えたり他の合併症を引き起こすこと多いからな。それどころか体外に大きな機械を置かないとならない。あの研究結果はある意味で、生体実験のようなことを繰り返して得た産物だったんだ。その対象が快里だった。そして、最初の小型の全置換型人工心臓ができるまでに八年かかった」
「八年?その間快里は?」
「人工冬眠に近い状態で保存した」
「じゃあ、依入さんと快里の年の差が八年なのは、その間の年なんだ」
「あぁ。だけど初期はいつ人工心臓が止まってもおかしくなかったからな。だから快里を手元に置いておく必要があった。それでとりあえず依子さんには話せずに、私が育てることにしたんだ」
「親父……俺はてっきり快里のは、補助人工心臓《Ventricular Assist Device》だと思ってた……」
「あぁ……VADなら機能が弱くても自分の心臓があるからな。正直、自分が開発したTAHで何年生きられるかわからないし、何かの偶然でHLAが適合するドナーが現れるかも知れない。だから快里は移植待機者として登録をしてあったんだ。もっとも、二人の免疫のHLA型は珍しいケースだったから、探してもみつからないとは思ってたが」
「それですでに快里が登録されていたんだ」
「あぁ」
「じゃあやっぱり、依入さんの心臓を移植することで、少なくても肉体的には、快里は健康になりうるということなのか……」
「HLA型が一緒だとはいえ、移植は綱渡りだがな。まぁ、そういうことになるだろう。しかし、この状態が元に戻るとは思えない」
俊克は首を振って、意識のない快里の方を向いた。
「いや、おそらく元に戻る」
「なぜ?」
「わかったことがある。もちろん仮説にすぎないんだが、快里が分類不能の解離性障害に陥る原因ができたのは、生命維持のための培養液につかっていた時期だ。親父は知ってた?快里は無音無明。そう言う空間でも精神を正常を保つことができるんだ。快里が精神状態を保つことができるのは、培養液につかってた時が同じような状態だからじゃないかな。俺の予想では快里の脳は培養液に入っていたとき、緩やかに動いていたんだ」
「培養液の中……耳などの機関が機能してなければ、確かに無明無音だよな……」
「その間も体と脳は徐々に成長してたんだ。特に脳。だから快里は本当に小さい時期から物覚えが早かったし、話し始めるのも早かった」
「それとDissociate Disorders《解離性障害》との関係は?」
「当然人工冬眠のために、生命維持活動、脳幹の動きは、ほとんど止められていたんだと思う。俺はこの辺りは専門じゃないので詳しくはわからないけれど。培養液の中でも脳の成長が育まれていたとすると、その脳へは生命活動からのインプット、アウトプットが全くなかったことになる。それで成長できるのかどうかが難しいところだが、無音無明の空間だったせいで大脳だけの人格の成長、あるいは成長のための準備……が行なわれた可能性もある。きっかけさえあれば脳は変わった形にも成長しうるから、意識を無音無明の空間に置いて生命活動を遮断させ、論理的に思考する癖がついたのかもしれない。そうなると生命維持のための本能、つまり小脳と、機能、つまり脳幹に関わる部分は、別に動かさないとならないから、その部分だけが解離して動いてた可能性がある。あくまでも可能性なんだが」
「そこはわかった。で、精神科のお前が、心臓を入れ替えればと思ったのは?」
「快里と昔、話したんだ。なぜ、古くから心臓のことを、心の臓器と書くんだろうってね。英語でもheartは心臓と心の両方を示す。山に登ってる時に興味深いことがあった。快里の人格がオリジナルに変わって昏睡状態に見えるときでも、なぜか依入さんだけは容易に快里をに引き戻すことができた」
「ほう」
「もしかしたら、これも奇跡なのかもしれない。双子話で良く聞くと思うけど、片方が何か事件が起きると伝搬して、もう片方の動悸が激しくなったり、嫌な予感がしたり。これは、こうとも考えられる。依入さんの心臓の動悸が激しくなるとき快里は引き戻される。と」
「ふぅ。その点に関しては理由が不十分な気がするが」
「まあ、俺もそこに関してはちょっと裏付けが弱いとは思っているけどな。ただ依入さんだけは簡単に引き戻すことができたのは、事実なんだよ」
「少なくても、快里が肉体的に健常に戻ることは間違いないわけだ。まずは心臓移植をやろう。やってみよう。その話はそれから判断しても悪くないだろう」
「頼む。親父」
「なにを他人行儀なこと言ってるんだ。快里はお前と同じ私の大切な息子だ。本間家の次男なんだよ」




