快里との思い出
克之は缶ビールを飲みながら、自分の研究室で考えていた。
もはや人工呼吸器が無いと生命の維持活動ができない依入。
自力で生きてはいるが、昏睡したまま何の反応もない快里。
自分がついていながら、目の前で、なんてことが起きてしまったのだろう。
克之は、天井を見た。自分が情けなくなってきて歯を食いしばっても、自然に涙が溢れてくる。弟との思い出が溢れて出てきた。
「そういえば兄ちゃんは昔、僕のことを精神年齢が高すぎるっていったよね?精神年齢って心の年齢のこと?」
「ん、ああ。ずいぶん前に話したことだね。心の年齢といってもよいだろうね。でも前に言ったのは特別、問題があって言ったわけではないよ。年の割にしっかりしてるねってことさ。それがどうした?」
克之は快里がなにを言い出すかという目を向けて聞いた。
「うん。別にどうというわけじゃあないんだけど、僕って内省的だからさ。夜寝る前に気になって。それって僕のどんな行動から判断されたんだろうって思ったわけ。心ってさ。育つ物じゃない?じわじわと時間をかけて。折り合いがつかないことがあるとすっごく乱れるけどさ。ある時に気分的にとっても安定していても、何か一つ覚えただけで、突然狂い始めることもあるじゃない?」
両手で『じわじわ』を意識したジェスチャーをしながら話す快里。
「そうだね」
およそ中学生男子じゃない考え方やボキャブラリに、毎度驚きながらうなずく。
「それがたった一つの些細なことでも、いままでの考え方を裏返しちゃうような時があるでしょ。そんなことをいっぱい経験して、僕も大人になって行くんだと思うんだ」
「……」
「だから、いろんなことを知れば知るほど、心は不安定になるのだろうか?っていうのが僕の今の疑問。大人になるって心が不安定になることなの?」
「まあ、そういう訳じゃあないと思うけど」
克之は自分がいま抱えている問題をすこし思い出しながら言った。
来年で二十代が終わる。親父は単に心臓外科を行っているだけじゃなくて、今も変わらず学会には論文を提出している。俺はと言うと、ただ毎日精神科の仕事をして。ダメじゃないんだろうけど、このまま一生こういう風に生活するんだろうか?
「子供の時……。今も子供だけど、兄ちゃんやお父さんのそばにいるだけで、もっと絶大な信頼があって、安心してたと思うんだ……。ちょっと前は中学の受験で悩んだよ。お父さんが私立の中学校に入れようとしてたでしょ。でも兄ちゃんが普通でいいんじゃいかって言ってくれて、小学校の友達と離ればなれにならないで済んだ。今はそう。大人になるって苦しいことなのかなって。兄ちゃんなら教えてくれるかなと思ったんだ」
この子は本当に賢い子だといつも思う。
「一言では言い切れないな。俺も医者としては若い方だけど、もうそろそろ三十だろ?社会的には立派なおじさんになりつつあるのさ。対外的には嫁さんとかそろそろ考えないとならない気もするし、やっぱりいろいろ考えないといけないなぁなんて思うことはあるよ」
「やっぱり兄ちゃんでもそうなんだ。僕が幼稚園に入ったばっかりの頃、友達によくいじめられてよく相談したでしょ。兄ちゃんなんて言ったか覚えてる?俊樹君にいじめられたんだって話したら、俊樹くんはどんな子なの?って聞いたじゃないか。そのときは兄ちゃんが俊樹君の味方なのかと思ったけど、考えてみると僕は俊樹君のこと何にも知らなかったんだ」
「そんなこともあったなぁ」
「兄ちゃん、幼稚園も楽しいところだよって。快里もみんなに興味を持ったら?って言ったでしょ」
「そっか。その後その話は無かったけど、その後、どうしたんだ?」
「うん。たしか後の話は兄ちゃんには言ってなかったと思う。つまり、僕はこう思ったんだ。俊樹君なりに僕に興味を持ってたのかなって。だから次の日、俊樹君にいっぱい質問してみたんだ。好きな物とか、誕生日とか、遊びに行って楽しかったこととか。それから俊樹君はなにか面白いことあると、僕のところに来て、快里〜たまんね〜たまんね〜って言い出すんだ。たまんね〜ってなに?ってきいたら、俊樹君は『おれのにーちゃんが金玉がなくなるぐらいすごいことだ』って言ってたって。なにがすごいのかわからないけど」
笑いながら言う。
「幼稚園の男の子はちんことうんこが好きだからなぁ」
「うん。まねしてネイとメイに対して使ったら怒られた。メイが先生に言うもんだから、俊樹君と二人で先生に怒られたんだ。だから、どうやら女の子の前じゃ使っちゃいけない言葉みたいだよって、俊樹君と。何の話してたんだっけ。あぁそうそう。そのとき、兄ちゃんは二十歳前だったんだよね?予備校に通ってたもんね。そのときの兄ちゃんはなんか僕にとってすごい尊敬と信頼ができる人だったんだ。きっと悩みもなにもないに違いないってね」
「いまは尊敬じゃないって?」
「いやいやそういう訳じゃなくて。いざ僕も中学生になって思ったのは、やっぱり中学生でも同じように形を変えて悩みがあるんだってこと。兄ちゃんも当時は当時なりの悩みがあったんでしょ?僕がこのまま高校に行ってもやっぱり悩みはあり続けると思うんだ。だから悩みなんて絶対にないように見えた兄ちゃんは、あの時には受験とかで悩んでたのかなって。なんて言えばいいのかな」
「確かに悩んでたよ。進路とかは特にね。ほんとに親父の後を継いで医者になるべきかなぁとかね。医学部に行ってたときも、それこそ何回自分は医者には向いてないんじゃないかって思ったし。ああそうそう、それって、等身大の悩みを抱えていたってことかい?」
快里はちょっと目を見開いて頷いた。
「そんな感じ。良い言い方だね、それ」
「そうだね」
「うんだから。兄ちゃんが今、お嫁さんが云々って言ったとき、きっと兄ちゃんも兄ちゃんなりの等身大の悩みがあって……。あれ。この言い方はなんか偉ぶってるみたいだな。そうじゃないよ。そうじゃないからね」
「ああ、わかるよ。俺にも悩みはあるし、人生、生きていると、ずっと悩んで行くんだと思うよ。親父だって、きっと等身大の悩みがあるんだと思う。あ、やっぱり等身大の悩みがあるんだと思うって言い方は年上の人に言うにはあまり良い表現じゃないかもね」
笑いながら克之は言った。
「でしょ。ええと。つまり最初の話に戻すと、そういうことを考えることが中学生っぽくないってこと?」
「どうだろうね。俺が子供の時は、そういうこと考えたことなかったよ。中学入ったばっかりのころなんて、女の子のオッパイばっかり目がいってたな。クラスの女の子のオッパイがみるみる大きくなっていくからさ。我ながらエロガキだったと思うけど、僕らの頃の男子中学生は、みんなで女の子のスカートめくったり、体育の時間には誰が一番胸が揺れてるのかって言いながら、観察して喜んでたよ。馬鹿だね」
走馬燈のように弟との思い出がふわっとわき出てきていた。
お菓子を一緒に買いに行ってあげたこと。託児所に快里を迎えに、大学時代毎日のように通ったこと。
「俺の顔を見ると、つたない足で兄ちゃんって歩いて来たよな……」
快里は確かに子供の頃から心臓が悪くて何回か親父が開胸していた。
喋るのも、数字を十まで数えられるようになるのも、「あいうえおの歌」を全部歌えるようになるのも自分の周りの子供の中では一番早かった。
体が丈夫じゃないから、三歳まで歩いては転んでばかりいたけれど、幼い白く華奢な体の胸と背中に大きな傷を付けて、一生懸命歩いてた。
克之は思い出していた。
「くそう。何にもできないじゃないか!」
微動だにせず、横たわる快里をガラスの向こうに見ながら克之は呟いた。持っていたカラの缶ビールをぐちゃっと握りつぶす。自分が育てた弟が、目の前で助けを呼んでいるように感じる。なのに自分は何もできない。
快里はずっと、少しづつだけれど、だが明らかに精神的に衰弱していた。その経過はずっと見ていた。
俺の弟。俺の患者でもあるのに何にもできない。
快里がいつも言ってたことを思い出した。
『僕はいつか、どこか遠くに行ってしまって、戻ってこれない気がする』
それが今だというのだろうか?克之は助け出された時の快里を見た瞬間を思い出した。今までにない深い絶望と、それを認めたがらないでいる快里。
いや、それは俺がつけた理由なのか?
まるで魂だけの寿命が来たように、過ぎ去った日々をすべて忘れ去って佇む弟がそこにいた。
精神科医。
どうしてこんなに無力なんだろう。自分の弟が助けを求めているのに、どうして助けられないんだろう。
克之は背もたれの大きい椅子にどさっと座り込んだ。俺が助けないと……。俺と、親父が諦めたら誰が助けるんだ。
そうだ、親父だ!
克之は立ち上がった。
快里を助けられるのは親父なんだ。




