心臓と心
快里は克之の診察室をノックした。
「はい」
「兄ちゃん……」
「あぁ、快里か……」
「リーシャが死んじゃったよ」
「あぁ。昨日話していてそんな感じがした。最後にお前と話したいって言ってたからな」
「じゃあどうして……」
「リーシャは能動的にお前がログインしてくるのを望んでたから」
快里は、リーシャが死んだことで克之がショックを受けてないことに何となく不満を感じた。兄は何度も人工知能との別れをしてるはずだから?僕にとってそれだけリーシャが特別に見えたんだろうか?
「快里、日本語で心臓のことを、どうして『心の臓』というんだと思う?あるいはどうして文化の違う英語圏でも、心と心臓を表す単語が『heart』と同じなんだと思う?」
「いきなりなに?」
「いいから答えろよ」
「東西問わず、心は胸にあると思ったからじゃないのかな」
「そうだよな。旧約聖書でも、心はレーブといって今では心臓を意味する。昔から心がどこにあるのかは議論されてきたけれど、胸にあると考えられているものが多い。今でもジェスチャーで心を現すときに胸に手を当ててみたりするだろ?日本語だと『胸に手を当てて考えて見ろ』と言うぐらいだから、まあ日本では昔から、胸に心があると考えられていたんだろう。だけどよく考えてみると、それはこの命題が循環してるよな」
「どうして?」
「つまりさ。じゃあ、どうして胸なんだということさ。俺が言いたいのは、『心は胸にあると信じられてきた』というのではなくて、そもそも『心が鼓動する心臓』にあると考えられてきたんじゃないのか?そう思うんだ」
「心が鼓動する心臓に?」
「そう。もしも人間の心臓が腰にあれば、人間は『心は腰にある』と考えたと思うんだよ。『胸に心がある』と考えられていたから『胸にある心臓が心の正体』。違う、逆なんだ。心臓が胸にあったからだ。でも、これじゃ最初の問題の答えにならない。なんで人間は直感的に、『心は鼓動を持つ心臓にある』と考えたんだろう?」
「兄ちゃん、言いたいことがわからないよ」
「まあ最後まで聞けよ。確かに心拍は心境に応じて変化する。普通の人は心の動きで鼓動が微妙に変化するから、心臓は心の臓と言われることになった。根本は鼓動は血液を体中に回すためのポンプかもしれないけれど、心のリズムを刻んでいるとも言えなくはない」
「なるほど。昔の人が心臓のことを、心だと思ってしまった理由になり得るんだ」
「そう。だけど今、心は頭にあるという人も多い。脳死、イコール死という考え方が定着してきたと言うことは、心が脳にあると考える人が多くなってきたと言ってよいのかもしれない。だったらなぜ脳に心があると思ったんだろう?」
「考える臓器が脳だったからじゃないの?」
「多分そうだろうね。そこにパラダイムシフトがあったんだろう。天動説が当たり前の時代から、地動説が当たり前になったようにな。ただ天動説と地動説の話は、結果論で言えば説明する方法がいくらでもあった。でもそれとは違って心は説明しづらいし、概念のような物でとらえどころがなかったんだよ。だから頭でモノを考えて、頭で感情を作って、そして心も作るという考え方も増えていった。宗教的な観念から言うと、また違う考え方があるんだろうけどね。快里は心はどこにあるんだと思う?」
「やっぱり考える臓器、脳なんじゃないかなぁ」
「つまりやはり考える基幹に心があると考えるか。だよな。だけど俺は今、やっぱり心は心臓にあるんじゃないかと思ってたんだ」
「それは、どうなんだろ?」
快里は、兄の考えが飛躍しすぎで、すこし呆れたような表情をした。
「うん。じゃあ、心と感情の定義を考え直そう。まずは感情からだ。脳にあるのが感情。感情と心を天秤して考えると感情の方が形を表しやすいだろ?怒ってたり、笑ってたり、嬉しかったり、悲しかったりという、無形だけど状態をもつんだ。そしてリーシャには感情があった。控えめに言っても感情らしき物が確実にあった。最後に『何も話したくない』と言ったのは、感情から来る意思の表れだったと思うんだ」
「たしかに、リーシャには間違いなく感情があったよね」
「そう、そしてこれらはわざわざ俺がプログラムしたものじゃなくて、リーシャが成長の過程で学んだことだった。そうだな、例えばミンスキーが、著書、心の社会で書いていたように、多分感情というのは、知能の集合体なんだ。知能とは小さな知識に意志が加わったような物が、それぞれ利己的に振る舞った結果、できていく物だと思うんだよ。小さな知識に意思、利己意識がついてきて、はじめて小さな一つの固まり、ミンスキーの言葉で言えばエージェントと言われるものになる。エージェントはそれぞれは極めて原始的に動いているだけで、そこにはまだ知能はない」
「うん」
「だけど、エージェント、つまり小さな利己意識のついた知識の塊は、それぞれが階層構造で組み合わさっていて、上位、下位というヒエラルキー構造に近いものを持つわけだ。それがまとまるとまた、一つの大きなエージェントになる。小さな利己意識が少し大きな利己意識の知識の塊になるんだね。これが徐々に再帰的に階層化していくと、上位から見れば、ある分野の『知能』のように振る舞うんだ。ミンスキーはこれを、エージェンシーといってたね。知能達が、編み物のように紡ぎあうと、一つの筋のようなうねりが生まれていく。それが感情の正体のようなもの。結果的に、感情の正体は、|小さな利己意識のある知識達が奏でる波、動き、揺らぎ。だから知能がある脳に『感情』ができてくる」
「なるほど。ミンスキーは感情はそんな風に定義づけていたね。リーシャも同じような仕組みなの?」
「そうだね。少し近い。『n次元連鎖型忘却理論』の話しをしただろ?前に話したとおりn次元連鎖ってのは再帰のようなものだから、動きは比較的近い」
「だけど、彼の本のタイトルにもなっている『心』というのには、作者のメタファーを感じた気がしたけどな。心も、プロト・スペシャリストの状態集合を表すとか、そんな定義だったような気がするんだけど」
「俺はそこが違っていると思っているんだ。俺はあくまでも精神科医だからな。俺が考えている『何か』を『心』と言うことにしようか。まずは心臓は鼓動する。しかし鼓動することは血液を流し出すことだけじゃない。クロックを作り出すタイムベースにもなりえる。他の臓器に鼓動を触感として与えることもできる。静かな場所に行けば脳でも心臓の鼓動を感じることができる。流れた血液は体中でリズムをもって血管を広げたり縮めたりする。それは体中で感じるうねり。『揺らぎ』のような何かだと思うんだよ」
「兄ちゃんが言いたいことの核心がよくわからないよ。結論から先に言えば、感情が脳によるものだとしたら、心は心臓にあると言いたいわけでしょ?その論理的な理由がわかんないよ」
快里は言葉を発した後で、リーシャが言っていたことを思い出した。
私の説明は論理的だから、人はそれがあたかも正しいように感じてしまう。
「心と感情なんて切り分けできる物なのかな。僕にはどうしても、感情と心は同義語のようなものに感じちゃうんだけど」
「たとえば、脳から体へは神経という信号線をつかって指令を出す。しかし感情の動きに会わせて、脳はリンパに指令を出して、もう一つの信号線である血管にホルモンを流し、体中に指示を出す。リズムを持ってね。それは状態、結果となって、血液を通って体中に情報を与えながら駆け巡る。そして五感からもフィードバックされる。いわゆる心臓が体中に与える影響は、単なる血を送り出す臓器のように見えて、計り知れないんじゃないかと思うんだよ。感情や知能が、鼓動という名前の全身で感じられるその何かの『揺らぎ』に、影響を受けないはずはないんだ。人間はいろんなことから影響されるし、脳はそれらを細やかに学習するんだ。その『揺らぎ』とは何だろう?それこそが『心』ではないかと思うんだ」
「揺らぎ……心……かぁ」
「そこでじゃあ、その『揺らぎ』をつくる臓器はなんだ?というと間違いなく心臓になるんだ。心臓が何に影響を及ぼしているのかはわからないし、思いつく限りをシミュレーションしても、引き起こしうる影響は想定しきれないんだ。カオス理論のバタフライ効果みたいにね。そのことを仮に心というのならば、心とはその何かのリズムであって感情とは別物ではないかと感じるんだ」
「心臓が与える影響という、とりとめのないものが、心ということ?」
「そうだね。そして心がどこかに飛び立ってしまいがちな論理的思考を、可能な限り生命につなぎ止めようとする」
「そういうことか。生命の持つ何か……」
「そう。リーシャがなぜ活動を停止したのか?あいつは確かに知能を得た。そしてその延長線上にある感情も得た。しかし何かが違った。それがわからなかったが、それは心ではないかと思うんだ。人工知能には感情はできても心ができない」
「インターネットにつないで、ある時突然のようにインフレーションしていったかと思ったら、急速に衰退していったよね」
「まるでアポトーシスするかのように……。知識を得れば得るほど、身動きがとれなくなっていった」
「心のない知能体はいずれアポトーシスするか……」
「どちらかというと、生命に保有されない知能体はいずれアポトーシスする。情報が飽和すると停止が安定となるのだろう」
克之は立ち上がって、冷蔵庫の中から二つ飲み物をとると、一つを快里に渡した。
「でも……なんでなんだろう?」
快里は一口、飲みながら話す
「どちらも想像だけど、二つの仮説を考えている。一つめは一度できた状態が崩されにくいから。生命活動という何事にも代え難い回避不能なイベントは、生きていれば、常に起き続ける」
「うん、そうだね。二つめは?」
「二つめは、生き物には、だいたい何かに向かってチャレンジをする本能があるだろう?人間に限らず、それが生命の危機を及ぼすかもしれないが、生命はひたすらチャレンジをする。そしてそれが進化のキーになる」
「それがどうして人工知能のアポトーシスに繋がるの?」
「つまりさ、この二つは安定という均衡状態を崩すのさ。効率と理論を『だけ』を追求していくと知能体というのは、自己排除的な安定結論に至るのかもしれない。だけど生き物ならば、生きることをどんなことよりも優先しなくてはならない。もちろん、時々、俗世を離れて達観する人がいるけどね」
克之は寂しそうな目をして快里をみた。
「リーシャは、生きてれば越えられたことなのかな……」
「あくまで仮説だけどな」
克之は長いリーシャの話しを終えた後、やっと本題を話すような表情をした。
「たとえば……自分を客観視しすぎる人間ほど、解離性障害を起こしやすいとも言われてるんだ。自分のことを自分だと思えなくなってくる。今、我々が言っている定義での『心』がそこにあれば、『生命』が主観を縛り付けようとするはずさ。もちろん解離性障害者でも生命には縛られているが、この類いの患者は総じて頭脳があるベクトルでだけ発達して大天才になってるから、どこかが緩むんだよ」
「なるほど」
「そう考えると、リーシャは何にも縛られていないわけさ。最後になんて言ってた?」
「どんなことが起きても責任はとれないから、誰にも人に影響を与えたくない。話すだけで人に影響を与えてしまうからって」
「そうか。なるほどね」
「なにが?」
「いや、それが最適解になってしまうと、いくら考えてもそこから抜け出せないんだろうな」
「心があったらそれは回避できたのかな?……あったかもしれないね。影響はさっぱりわからないから。リーシャには感情があったけど、心は無かったということになる……か」
「そう言えるかもしれないな」
「心がない……か」
快里には、なんとなくわかるような気がした。『私のようにならない方法がきっとありますよ……』あれはやはり僕のことをなのだろう。人として何かが足りないような気がしている感覚。子供の時からずっと持っていた。何となく生命に縛られなさすぎる感覚。
僕も解離性の障害なのかもしれない。『失うことで得るか、失わずにすませるか……』どういう意味だろう?何を失うといってるのだろう?
快里は渦に巻き込まれてきた様な気がしてきた。
「おい、快里」
克之が慌てたように両手で快里の肩を揺さぶった。
「あ、ごめん」
「油断するとこれだ。最近、多いんじゃないか?」
「そうだね。最近、考えることが多いからかなぁ……」
快里がまるで自分のことじゃないかのように、眉を潜めて言った。
「ふぅむ……おまえが年の割に達観してて、あまりにクールなわけ。おそらくそこにあるんだ。兄貴とは言っても、俺はずっと、おまえの親みたいなもんだったからな。昔からいつも不思議に思ってたことがあるんだよ。おまえの脈は器械で作られたみたいに、どんなときも一定なんだ。心臓が弱くて親父が何か施しているからだろうけど。うちに引き取られてきたときから、背中と胸に生々しく縫合された後があったからな。心臓は俺の専門じゃないから分からないけれど、手術をしなくちゃいけない状態で生まれてきたお前を、親父はなんとかして救おうとした。親父は循環器系では世界でも最先端を走ってるから、なにか特別な処置を施した。脈が一定なのは、技術的に仕方がないのかもしれないしな」
快里は克之の目をじっと見た。
「おまえは昔から賢い子だったが、クールだった。弟だったから、むちゃくちゃ可愛かったけど、やっぱり普通の子供じゃなかった。自分のことでもほとんど客観視してしまう。だから自分の主観と感じにくい。論理的思考の結びつきが希薄なんだ」
「脈が一定なのと、関係があるってこと?」
「多分な。おまえはどういうわけか、並外れて集中力があっていろんな知識の吸収が極めて早いし、カンも鋭い。快里、おまえが考えるときは、いつも周りも真っ黒になるし、音も聞こえないっていってたよな。この前そうなったとき、脳波検査をしただろ?解離性の患者やシゾの患者と同じように、脳がフル回転してる状態が続いてたんだ。その理由はわからないけどな」
「そっか……」
快里は兄と会話をしながらも、リーシャが言ってたことを考えていた。『失うもの。得るもの』それがなんなのかわかれば、何かできるのかもしれないのだが……。
「あぁ、そうそう兄ちゃん、明日休みだろ?」
「あぁ?」
克之は話題が変わってちょっと怪訝そうな顔をした。
「依入先生と、メイとネイとで山に登ろうって言ってるんだけど」
「小学校の裏山?」
「そうそう」
「おまえ、けっこう疲れると思うぜ。大丈夫なのか?」
「僕?」
「そう」
「藤木先生が、結構精神的に参ってそうだからさ。山に登れば気晴らしになるかなって」
克之は弟が依入のことを気にかけていることに、少し意外そうな顔をした。
「まぁそうだろうなぁ。わかった俺も行くよ。何時?」
「朝九時にメイとネイの家に行って、十時に駅」
「早ぇなぁ。今日は早く寝るか」
「じゃあ僕はそろそろ帰って、飯の支度しておくよ」
「はいはい、わかったよ」
快里は、そういうと克之の研究室を後にした。
克之は快里が珍しく話の途中で切り上げたことに少し違和感を感じつつ、仕事の切り上げの準備をしていた。




