気がかり……
快里は、窓の外を見ながら、授業も上の空で、朝から色々と考えごとをしていた。テストの直前の授業は、新しい話もなにもない。すでにやったことを延々と話していくだけだから。
なぜ依子さんは、僕のことを自分の夫と間違えたのだろう?
正直、一番、気になったのはそこだった。考えても答えがでないからだ。
快里は授業中ではあったが、席を立ち、適当な理由をつけて廊下に出た。病院に電話をしたかったから。
「あ、兄ちゃん?どう依子さんは」
「快里か。ああ、結構長く放置されてたみたいだからな」
克之は、快里が電話をかけてきた時間帯を気にせず、本題の回答をしてきた。快里は、兄が自分の電話を待っていたのだと感じた。
「なにか、わかったことあったの?」
「まだそれほど調べてないから、詳しくは言えないけどな。今、DSM-IVの試験をしてるところさ」
「シゾの類とか?」
つまり、|Schizophrenia、統合失調症、昔、言われた精神分裂病のことだ。
「たぶんSではないとは思う。疎通が失われてる感じは全くないからな」
「なるほど……。依入先生には何か伝えた?」
「いや、まだだ。もう少し詳しいことがわかってから伝えようと思ってる。今日、多分、来るのだろうしな。お前からは何にも言うなよ」
「うん、わかった」
快里は、昨日考えてもわからなかったことを、兄に聞こうと考えていた。依子さんと触れてみて、ヒントが見つかるかもしれないからだ。
「……あのさ、よくわからないんだけど」
何となく言いにくそうに快里が言葉を続けたが、その意味を克之はすでに理解していたようだった。
「お前が聞きたいことは、どうして依子さんがお前のことを、自分の旦那と間違えたということだろ?」
「うん」
「少なくても依子さんの心の中に、何か大きなトラウマがあることは事実だろうな。だけど、それだけじゃお前に関係するかどうかは言い切れないよ。たまたま似てるだけかも知れないし、顔姿が全く似ていなくても、そう感じてしまうことはあるからな」
「確かにね。でも僕が疑問に思っているのは、兄ちゃんじゃなくて、なぜ僕だったのか?ということなんだ。自分の夫だと思うのならば、自分に歳が近い兄ちゃんの方をそう思わないのかなぁ?」
「どうだろうなぁ。最初に家に入ったのはお前だしな。それだけじゃ何も断定できないよ」
「そっか……」
なんとなくもやもやした感じが張れず、呟くように快里は答えた。
「それはそうと、おまえ試験勉強は?」
「毎度のことだから。別に焦って勉強することなんてないし」
「まぁ、なんていうか。クラスの友達が聞いたら、確実に怒りそうな台詞だな」
電話の向こうで克之の苦笑いしてる雰囲気が感じられた。克之はふと、なにかを思い出したように言葉を続けた。
「そういえば今日、親父が学会でロンドンまで出てったよ」
「あれ?あ、そう言えば今日だったね。ほんとに忘れてた」
快里は、いつもは必ず覚えているはずのことを忘れている自分にすこし意外さを感じた。
「まぁ、色々あって慌ただしかったからな。いつもはギリギリになって資料作成を手伝わされるから、否が応でも思い出させられるんだけど。今回はコンピュータが次々に必要な情報をだしてくれるので、凄く助かったって言ってたよ」
「そんな機能、父さんの使ってるコンピュータにあったっけ?」
「わからん。なんか新しいソフトをインストールしたのかもな。とにかく、俺もすっかり忘れてて、見送りにさえ行けなかったんだ。たまにはしょうがないさ。試験勉強に余裕があるんなら、帰る前によってけよ」
「了解。わかった」
快里は、何事も無かったように席に戻り、そのまま外を眺めてながら考え事をしていた。
快里は、ホームルームが終わると、そそくさと机の中のプリントや教科書を鞄の中にしまい、教室を出ようとした。
「か〜いりぃ、どこ行くの?」
元気そうな声でメイが快里の背中を叩く。元気そうというよりも、元気に振る舞っていると言うべきか。
「どうしたの?メイ」
「え?」
突然、質問をされてびっくりした顔。
「いや、なんかカラ元気な気がして」
表情を曇らせながら、メイは答えた。
「え……そう?そんなことないよ。で、どこいくの?」
「あぁ。兄貴の所に行こうかなって」
「依入ちゃん、どうかしたの?」
「どうして?」
「だって、今朝も、今のホームルームも、依入ちゃん元気なかったじゃん。それに、週末、依入ちゃんと話してたんでしょ?その前には依入ちゃんがカツユキの仕事に興味持ってたし。知り合いに何かあったんじゃないの?」
「いや、別に大したこと無いんだけどね」
「やっぱ、依入ちゃんになにかあったんだ。カマかけてみたけど、珍しいね。快里がポロっと言っちゃうなんて。で、依入ちゃん、どうかしたの?」
快里はなんとなくため息が出た。かまをかけられて乗ってしまったことよりも、自分が自分ではないような動揺をしていたことに。
「いや、大したことじゃないと思うんだけど、正直な話、僕にもよくわからないんだ」
「珍しいね。快里にもわからないことがあるなんて」
「そうだね。たまにはあるよ。メイ、そういえばネイは?」
「ん、今日はいいの」
何となく不機嫌そうな顔でメイはメガネを治した。
メイのダテメガネ。
特に目は悪くないのだけれども、なんとなく友達にネイと間違えられるのが嫌なのか、ある時期からつけ始めたものだ。
メイとネイの性格もしゃべり方も大分違うのに、まるでダテメガネが心の支えのようにつけている。
「そう……。メイさ……そろそろ、メガネ卒業したら?」
「え?なんで?」
「だって、目が悪いわけじゃないんでしょ。ダテメガネでも、あんまり目には良くないんだよ」
「いいじゃん。アタシのファッションなんだから。内政干渉だよ」
「メイそれ、使うところ、違うよ」
「ありゃ」
「大丈夫だよ、もう、誰も、メイとネイを間違えないと思うよ?」
快里はメイを思って、優しそうな笑顔で問いかけた。
「そ……そんなことないよ……だって、快里……」
メイは消え入るような声で反論する。しばし沈黙をした後、慌てて言葉付け加えた。
「ごめん、アタシ帰る」
メイは急いで帰ろうとした。
「ちょっとまって。ネイとケンカでもしたの?」
振り向かずにメイが答える。
「ん、ちょっとね。暗黙の約束違反をしたから、ケンカしてるの、そんだけ」
「暗黙の約束って?」
「大したことないない。聞いても損だとおもうよ。どうせすぐ仲直りするんだ。仲よしの双子ちゃんだし」
「そうだよね。でも、暗黙なのに約束なんでしょ?なにそれ。僕とメイの間にも、暗黙の約束ってあるの?」
「ないよ。アタシとネイの間だけ。気にしないで。んじゃ、行ってらっしゃい」
メイは早口で言うと振り向かずに、早歩きで去ろうとする。
どうも何かがおかしい。快里はいつもと様子が違うメイが気になって追いかけた。
「ちょっとまってよ、メイ」
生芽衣は快里の声を聞いてすこし立ち止まろうとした。が、さっきよりも速く駆けだした。快里はいつもと何か様子がちがうメイが気になってしまい、すぐに追いかけた。
上の階かな?音楽室の方?
急いで、追いかけて四階の音楽室まで急いで上がろうとした。二階。駆け足で上がろうとしたことで息が上がる。三階まで上がったところで、どうにも心臓が重い感じがして階段に座り込んだ。
深呼吸をしよう。
少し運動するだけでいつもこうなる。快里は自分が体が弱いことを、とにかく怨んだ。仕方が無い。ちゃんと酸素を取り込めば大丈夫だと、父が言うことを思い出す。
すー……はー……。
それにしてもメイの様子がおかしい。
ケンカをしたらもう少し怒った雰囲気になっててもおかしくないはず。なのにメイは凄く寂しそうだ。どんなことで口論になって、なにをネイに言われたんだろう?
ネイもそんなに酷いこというような子じゃない。それはよく知ってる。メイのことを本当に大切にしてるのはわかっているし、いつも気を遣っている。
何があったんだろうか?
快里は平衡感覚を失い、知らない間に、居心地が良い闇へと引き込まれていた。遠くでクラスメイト達の騒ぎ声がかすかに聞こえたかと思うと、次第に音が途切れていった。
「快里くん。快里くん。大丈夫?大丈夫?」
快里が気がつくと、ネイが目の前に座って、一生懸命、肩を揺らしていた。
周りには人だかり。
「おい、快里、大丈夫か?先生連れてきたぞ」
ほどなくクラスの友達が依入先生を連れてきた。
「快里くん?快里くん、どうしたの?」
酷く慌てた様子で依入がやってきた。依入は快里がこのようになることをしらない。お母さんがああいう状態なのに迷惑をかけてしまったことを、快里は酷く後悔した。
「すみません。藤木先生。もう大丈夫です」
もう少し座っていたかったが、快里はちょっと無理をして立ち上がった。立ちくらみが酷い。手を伸ばしたところにネイが肩をだした。
「あ、ごめん、ネイ。大丈夫、もう大丈夫だから」
結果的にみんなに心配をかけてしまったのが申し訳ない感じがした。すこしネイに体重を預けていると、立ちくらみも収まって普通に立てるようになった。
「大丈夫。もう大丈夫です」
周りの人達がざわざわしているのが聞こえた。
「快里くん、保健室に言った方が良くない?」
依入先生が心配そうに快里の顔をのぞき込んだ。
「いえ、たまにあることなので。ね」
快里は相づちを求めるようにネイをみた。ネイは無言で頷いた。
「そう、でも無理しないようにね」
「大丈夫です、先生。丁度これから病院に行くところなので、次いでに見て貰いますから。すみません、先生。色々大変なのに、こんなことで心配かけてしまって」
快里は今日は父親がいないことを知っていたが、依入を安心させる為にそう言った。
周りの人が、特に何もなかったことを察して、一人一人いなくなっていく。いつしかネイと依入しかいなくなっていた。
それよりも依入先生は、母親のところに様子を見に行かないのだろうか?昨日の今日だから、多分、大変なはずだ。
「えと……」
ネイはこのことを知らない。快里は言葉を選んで、依入にそのことを聞こうとした。
「大丈夫。職員会議が終わったら、私もいくつもりだから」
依入は快里の言葉を遮ってそういうと、職員室の方に戻っていった。
「あれ……依入先生、どこにいくの?」
「あぁ。ちょっとね。先生のお母さんが昨日うちの病院に入院したから」
「あ、そういうこと……」
ネイが納得がしたような顔をして言った。
「で、ネイはどうしたの?」
「え?どうしたって。いや……えっと……。ちょっと屋上の方にいこうかな〜ておもってたら、人だかりができてたから」
「そう、じゃあネイにも迷惑かけちゃったね」
「そ……そんなことないって。むかしからだもん。でも、最近多いよ……もう……」
「ごめん」
「うぅん。迷惑をかけたのが嫌なんじゃなくて、快里くんがどっかいっちゃうのが嫌なの。メイも多分嫌がってるよ。あ……でも、快里くんに相談があったから、ちょうどよかった」
そう。快里は、メイを追ってたら調子を崩したことを思い出した。
「どうしたの?あ、メイのこと?」
「うん。たぶん。……うぅん。今日はメイのことじゃなくて、私の相談を聞いてほしいの」
「そう……じゃあ、喫茶店でも行こっか?」
快里とネイは学校をでると、いつもの喫茶店に向かった。
快里は奥の席に座るとコーヒーを頼んだ。ネイはきっと紅茶だろう。
「紅茶でいい?」
「あ、うん」
快里はコーヒーと紅茶を指さしてウェイトレスに合図しながら、ネイに聞いた。
「で、どうしたの?」
「あのね……」
「うん……」
「試験が終わったら、先生にクラスを変えてもらおうと思ってるんだ……」
「え?どうして?」
「だって試験の度に、快里君に数学教えてもらってるでしょ。私、理系ってあんまり向いてないのかなって。もうすぐ3年生でしょ。昨日、快里君と話してて、そう思ってたんだ」
「そっか」
確かにネイはあまり理系の勉強が好きじゃない。試験の度に数学や物理の勉強を教えてあげていた。
「でも、そっちの方がネイのためには良いと思うよ」
「ホントに?」
「うん」
「快里くんがそういうなら、間違いないね。でも、ちょっと寂しいんだ。メイと快里くんと離れちゃうのが……」
「僕もメイも同じ学校なんだから、そんなには離れないよ」
「うぅん。快里くんと違うクラスになるじゃない。あ、快里くんは、大学はどうするの?」
「まだ決めてないよ」
「でも、やっぱり医大だよね?」
「どうだろう、僕は親父や兄貴とは系統が違うからなぁ」
「でも何となく快里くんはお医者さんになりそうな気がするよ」
「そうかな……」
「少なくても、一緒の大学には行けそうにないな……」
「うーん……そうだね。でも、大学はそういうもんだと思うよ。でも、まあ行く学校が近ければ、時々また遊べるとは思うけど……」
「うん。あの……」
「どうしたの?」
「あ……やっぱいい。ありがと。快里くん。忙しかったんでしょ、ごめんね」
ネイは突然何かを察したのか、話を切り上げた。
ネイと快里は喫茶店を出た。
「じゃ、僕は兄貴の所に行くから」
「あ、ありがと。快里くん」
「いつでも何かあったら相談して」
快里は振り向いて、病院に行くバス停に向かった。
「あ……メイのこと……」
ネイが、少しだけ発した言葉は快里には届かなかった。




