第五章(7)
「レイアッ、くっそ!」
吹雪く雪を魔法で蹴散らし、リーファは何度も転びながら来た道を戻っていた。足の感覚はすでになく、杖を握る手も痛みではなく痺れ始めていた。
(どうして……っ!)
どうして言わなかったのか。どうして気づかなかったのか。どうして。どうして。
そんなことばかりが頭をよぎっては消えていく。
気づく要素はあったはずだ。レイアの言動から読み取ることはできたはずだ。昨日の夜だって、あの会話から気づけたはずだ。あの涙を溜めた目から、気づいてやるべきだったのに。
「俺はまた……っ」
カルロの時と同じように、何もしないまま失うというのか。
嫌だ。
リーファは唇を噛み締め、雪に取られる足を必死に動かした。目の前には霧のかかった森。あそこを抜ければ良い。まだ間に合うはずだ。
走る勢いそのまま森に突っ込もうとしたその時、リーファの前に炎が燃え上がった。咄嗟に後ろへと飛び、凄まじい熱量に顔をかばう。
「誰だ!」
まさかアフィルメスの軍がここまで来ているのか、と杖を構えた時、炎の中から予想もしていなかった人物が顔を見せた。
「マルファス……」
現れたのは、初老の宰相。レイアを幼い時から見てきたマルファス。
彼の持っている杖は、ひたりとこちらに狙いを定めていた。
「やはり、ディルス殿が話しましたか……」
淡々と返された言葉に、リーファは考えるよりも先に体が動いた。一気に魔力を練り上げ、そのままマルファスへと杖を振り下ろす。
魔法などではない。ただ魔力の塊を相手にぶつける力技だ。受け止めたマルファスは一瞬顔を顰めるが、すぐに自らも魔力を放ちリーファを弾き返す。
「どうして邪魔をする!」
「女王レイアからの命令です。貴方を引き返させるな、と」
変わらず無表情のまま続けるマルファスに、リーファはなぜだと首を振った。
「レイアが、死ぬんだぞっ」
「分かっています」
「だったらどいてくれ! 俺は彼女を死なせたくない!」
身構えたまま叫ぶが、マルファスは退こうとしなかった。ほんの少し悲しげに顔を歪め、それでも、リーファの前に立ちはだかる。
「だが、レイア様がやらなければ世界の均衡が崩れます。この世界が、命ある全ての者が死に絶えてしまう」
「どうしてレイアだけが世界の犠牲になるんだ。おかしいだろう! 彼女は全員の幸せを願ってたのに、どうしてレイアだけがっ」
生きて欲しいと、幸せになってほしいのだと、その権利があると民に説いたレイア。それなのに、なぜ彼女だけが犠牲になるのか。
もう一度マルファスに詰め寄り、杖と杖を押し合う。年齢の差があるというのに、彼はびくともせずリーファを受け止めていた。その表情が、苦しげなものになる。
「言葉にすれば、偶然、いえ……運命の重なり、でしょうか」
リーファを押し返し、マルファスは何かを思い出すように遠くを見つめた。
「レイア様のお父上の御世に戦争が活発化し、負の量が増えました。本来なら、先代が守護王を呼び、均衡を整える手はずだった。しかし、ご病気で亡くなられ、残されたのはレイア様のみ。あの当時、まだ幼かったあの方が原始の王を召喚するには危険すぎました」
召喚は他の魔法より力を使う。いかに原初の一族といえど、子供では負担がかかりすぎるのだろう。
「そして、レイア様がお力をつけられるまでに、予想外のことがいくつも起こった。戦争の激化、終結。支配による属国の負の増加……そして魔王アウリュ殿の……」
そこまで言って、マルファスは言葉を止めた。
「いずれにせよ、史上稀に見る速さで負の量が増加してしまった。レイア様が守護王を呼べるまでになった時には、もう遅かったのです」
「だから……もうどうしようもないからレイアに死ねと? 女王だから役目を果たせと?」
「レイア様が、決意されたことです」
「そんなこと!」
ブチッという音がして、口の中に鉄の味が広がった。杖を握る手が初めて怒りで震える。
「そんなこと認めるかっ。死ぬことを誰が望むって言うんだ。いくら世界のためだから、原初の一族だからと、死ぬことを享受するなんて馬鹿げてる! 今が切羽詰ってるからそれしか考えられないだけだ! 他に何とかする道だってあるはずだ!」
言いながら、そんな方法は一つも思いつかなかった。正と負の量のことなど考えたこともない。レイアの言った『世界を守ること』が役目だなんて、冗談だと思っていたのに。
「レイア様は、知っていらっしゃいました」
「何、だと……?」
「レイア様の守護王は知の王ストレカッツァ。彼の王を守護王に持つ人間には、予知夢という特別な力が与えられます。だから、知っていらっしゃいました。ご自分が死ぬことを」
マルファスの言葉に、リーファは力が抜けていくのを感じた。
知っていて笑っていたのかと。知っていて、リーファの言葉に何も返さなかったのか、と。
「いつから……アフィルメスに行った後か? それとも……」
暗転しそうになる意識の中で、リーファは、レイアと出会った時のことを思い出した。無邪気に笑いながら、花畑で何をしてるのかと聞いた自分に返された言葉。
『思い出作りかな』
「俺と、出会う前から……?」
マルファスが小さく頷く。
愕然とした。
あの時から何もかも知っていて、死ぬことを受け入れていたと言うのか。自分に未来がないことを知っていて、それでも民のことを、カルロのことを、リーファのことを――
「リーファ殿。どうかこのままレイア様の覚悟を受け入れてください。貴方には……っ」
マルファスの言葉も、もうどうでも良かった。
「どけ……」
「リーファ殿!」
「どけぇっ!」
搾り出せる魔力を全て出して、リーファはマルファスへと迫った。彼が炎の魔法を使おうとしているのが分かる。だが、リーファは立ち止まらずに足を踏み出した。
手加減してくれると思ったわけではない。ただ、こうでもしないと通れないと思った。
眼前に炎が迫る。それでも前に進んだその時、不意にズボンのポケットが熱くなり、目の前に紅色の結界が出現した。身を焼き焦がすはずだったものが、一瞬にして遮断される。
突然の現象に戸惑ったが、足は止めなかった。同じように固まっているマルファスの横を抜け、迷わず霧の中へと走り込む。
後ろからは、追いかける足音も、声も聞こえなかった。




